第3話
嫌な夢を見た気がする。
私は、埃と芳香剤の匂いの染み着いたシートに顔を埋め、上掛け代わりのジャンパーの中に足を引き寄せた。
鼓膜を揺らすのは、自動車の駆動音。古くて小さな、まん丸いライトの軽自動車だ。
……とろとろと、糸がほぐれる様に……氷が溶けだすように……意識がまた、暗闇に遠ざかっていく。
暗闇の先にあるのは、遠い過去だ。
小さなころは嫌いだったものを、年月を経て好きになる、ということは、ままある事例であるのではなかろうか。
例えば、私にとっては乗り物の類がそれだった。脆弱な三半規管を持っていたらしい私は、本当に自分も覚えていない小さなころから、車輪のあるものに乗るのが大嫌いだった。
酒にしろ何にしろ、よくいったものだけれど、喉から酸っぱいものを逆流させる苦しみは、酔わない人には分からない。揺れる地面にふらつく脳、焼けるようにのたうつ胃袋、ねばつく口内、酸っぱくて辛い、舌の上の自分の粘液の味。
―――――この時、すなわち拷問なのでありまして。
酒は飲まなきゃいいだろうけれど、乗り物はそうもいかない。
この御時勢ですのでね。弱点を持つ人間としては、周囲の理解がほしいところなのである。
いやはやそんな私でも、今やすっかり車輪のあるものの魅力に憑りつかれ、車窓の人となっているのだから、まったくもって先は分からないもんだ。
なんで人は、こんな気持ち悪くなるものにわざわざ乗るんだろう、なあんて思っていた幼少期だったけれど、背が伸びれば、自分の脚だけでは行けないところも出てくるもの。
すっかり便利さに味をしめた…というか、必要性を実感したのは、地元を突如襲った冬将軍によって公共機関が止まった時だった。
ありゃあ、酷かった。地元はもともと積もる地域じゃない。薄暗くなっていく空の下、スニーカーをぐずぐずに濡らしながら、降る牡丹雪を憎みつつ、悪路に様変わりした街道を歩くことの…なんと心細いこと。母の運転するワゴンが脇の道に停車した時、柄にもなく天の助けと思ったね。ええ、涙ちょちょ切れましたよ。
自分が家と真逆の道を、えっちらおっちら歩いていた、ナンて事実を知らされた瞬間なんて「もう絶対自分の脚を信用するもんか」とも思ったからね。
え、なんだって? それいつの話?だって。
そりゃあ、ずいぶん昔の話だよ。カッちゃんに会うほんの少し前。
だからもう、気が遠くなるほど前……ずうっと前の話だねぇ。
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