第2話

「エレイア! エレイア、いるのだろう! これはどういうことだ!?」


 これは父の声だ。焦りといらつきを感じる。

 私は急いでベッドから身を起こし、扉へと向かった。

 扉を開けると、予想通り、激昂した表情の父とそのうしろに冷ややかな表情の母。父は手に持っていたものを私に向かって投げつけると、その手で私の頬を打った。

 パンッと硬質な音が鳴り、同時に左頬に痛みが走る。

 その痛みにすこしだけ顔が歪んだが、できるだけ変化を見せぬように気を付ける。あまり反応すると、より相手の怒りは大きくなると理解しているから。


「エレイア! これは王子からの婚約破棄の書状だ! なぜこうなったか説明しろ!」


 父が床に落ちた紙を指差し、声を荒げる。

 どうやら私に投げつけられたのはこの書状で、内容は婚約破棄についてだったようだ。

 私はその場に屈んで書状を手に取り、そのまま立ち上がった。そして、書状に目を通す。父が言ったように、そこには私とその婚約者であって第一王子の名が入っていた。


「……ヘクトル王子は男爵令嬢と恋仲になったそうです。私は必要なくなったとのことで、先日、婚約破棄を言い渡されました」

「……っなんということだ! こんな……! こんな無礼があっていいものか! エレイア! なぜすぐに言わなかった!」

「ヘクトル王子が男爵令嬢とのことを進めるまで、私には黙っているように言い付けました。すべてが整えば、こうして公になる。それまではだれにも言うな、と」

「バカ者! そんな言いつけを守る必要があるか! 王家と言えど、侯爵家に対しての無礼な振る舞いは決して許されない!! これまでは第一王子の後ろ盾をしてきたが、これからは第二王子を推す!」


 父はそこまで言うと、すぐに踵を返した。婚約破棄をされた娘よりも、侯爵家の体面が重要なのだろう。こんな夜分だが、すぐに各家との調整に入り、これから政治的介入を行うはずだ。そうなれば、第一王子の立場も危うくなっていく。


「……だから申し上げたのに」


 書状に目を落とし、ぼそりと呟く。

 ヘクトル王子から男爵令嬢の話を聞いたとき、私はきちんと止めた。そうなればあなたの立場が危うくなる、と。だが、ヘクトル王子は一言、私を蔑んでこう言った。


『さすが侯爵家の氷姫だな。そのような人を見下した態度が気に入らなかったのだ! 第一王子である私を脅すのか!?』


 金色の髪に青い瞳。成人したはずなのにまだ幼さを残す表情で彼は私を怒鳴りつけた。自分が不義をしているというのに、まるでそれは私のせいだとでも言うように。出会ったころはあんなにも「きれいだ、美しい、花の様だ」と甘く囁いていたその声で。


『私は君の笑顔が好きだ。ほら寒いだろう、こちらへおいで。君が来るから部屋を暖めておいたんだ』

『ありがとうございます。とてもうれしく思います』


 私に会うと柔らかく細まる瞳。その目が私に愛しいと告げていた。

 羊毛でできたふわふわとしたひざ掛けに二人でくるまって微笑みあった。

 お互いの近況を語り合えば、いつも無邪気に笑ってくれ、私はその笑顔が大好きだった。


 ――永遠であればいい、と。


 そう感じたのが、間違いだったとは思えない。

 けれど、あんなに熱烈だった愛の言葉は、いつしか私を貶める言葉に変わっていった。


『どうして君はそう考えるんだ? 普通じゃない』

『もっと私のことを考えてくれ。本当に気遣いができないんだな』

『君みたいな女性だと周りが苦労するだろう』

『ご両親も困っているだろうな』


 私への温かい優しさと私への冷たい言葉と。交互に行われていく状況に私の心は疲弊していった。冷たい言葉が怖い。けれど、時折与えられる温かい優しさが私の求めているものだったから……。

 疲れ切った私は、ある日こっそりと家の者に第一王子を見ておくように頼んだ。

 第一王子の挙動に不信な点が多々あったのだ。

 ……わかっていた。ヘクトル王子はたくさんの女性と遊んでいる。

 だが、私への温かい優しさを向け続けてくれるのであれば、それでもよかった。私を貶めず、お互いに尊重できるのであれば。


 ――愚かだ。


 なぜ自分の価値をそこまで高いと思えるのだろう。自由に遊び、その上で私を貶めて。なぜそれで私がなにもしないと思うのだろう。

 私は第一王子の妃なんていう立場に興味はない。そこに魅力など感じていない。

 ただ、温かい羊のように寄り添い合っていければよかったのだ。

 それができないのであれば――


「エレイア、あなたハンスを使って第一王子の近辺を探ったわね」

「……はい」


 冷たい母の声。指がチリチリと痺れる。


「第一王子の女関係を探るのは構わない。知っておくことは必要よ。けれどもっと上手にしなさい。なぜ暴くようなことをするの。放っておけばいいでしょう」

「……はい」


 母の言葉にただ頷く。

 そう。私は第一王子の女関係を探り、まとめ、その時を淡々と待った。そして、第一王子が今夢中になっているのは男爵令嬢だとあたりをつけ、最悪のタイミングで暴いた。

 第一王子と男爵令嬢が二人でベッドにいる瞬間に、無理やりに部屋に入ったのだ。何人かの証人も連れて。

 こうすれば、プライドの高い第一王子は男爵令嬢と添い遂げるしかない。自分が清く正しいと夢見ている男は、今更、私に戻れないのだ。

 真実の愛だと言って、男爵令嬢を迎え入れるだろう。

 私は止めた。第一王子がプライドが高いとわかっていて。私が「こうすればいい」と言えば反対のことをするとわかっていて。


「私と違って、男一人の手綱も握れないのね」


 書状から目を離し、母を見上げる。

 母の紫紺の瞳は私を見て、勝ち誇っていた。

 こらえ性のない娘だ、と。我慢できないダメな女だ、と。


「私ならもっとうまくやるわ」


 母はそう言うと、右口角を上げる。そして、それでも表情を変えない私を見て、つまらなそうに息を吐くと、そのまま立ち去って行った。

 その背中を見送らず、私はもう一度部屋に入る。そして、またベッドへと倒れ込んだ。


「なぜ……」


 なぜだろう。娘が婚約破棄されたそのとき、なぜ娘の心配よりも先に、自分が女として優れていることを伝えてくるのだろう。

 好きだった男性に婚約破棄をされ、父に怒鳴られ、頬を打たれ、そんな状態の娘になぜ自分の優位性をアピールするのだろう。


「どこにいけば……」


 一人の部屋。暗い照明。外は穏やかな夜なのだろう。風の音もしない。


「だれに言えば……」


 ……だれもいない。私の周りにはだれも。


「私は……なぜ」


 なぜこんなにも愚かなのか。羊のように寄り添って生きたいなどと言わず、第一王子のことを放っておけばよかったのか。そうすればそのまま結婚し、幸せになれていたのだろうか。

 胸の中にいろいろな言葉が蘇る。全部私を否定する言葉。


「……ひとり」


 気づけば目が熱くなる。忍び寄っていた闇が私を呑み込んでいく。

 お前は、一人。ただ一人だ、と。

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かよわい羊かと思いました? ごめんあそばせ、猛獣ですの しっぽタヌキ @shippo_tanuki

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