第2話

給湯室へと向かい、コーヒーを落としていると後ろから声が聞こえた。


「副社長のコーヒーよね?」


後ろを振り向くと、手には湯呑が乗ったお盆を持った先輩の夏川さんが立っていた。


「はい」


小さく頷いた私の横をすり抜けると、シンクへ湯呑を置きながら、夏川さんは私を見た。


「どうしてあなたなのよ」

その言葉にどう答えることもできない。


経験はもちろん、容姿においてもすべてが私より上だろう夏川さんは、ずっと副社長秘書を狙っていたと噂で聞いた。


しかし、それが副社長秘書になれなかった理由だとは、本人は思っていないのだろう。

無言でコーヒーを入れていると、ため息とともに給湯室から夏川さんが出ていったのがわかり、ホッと息を吐く。


「どうしてあんな軽薄な人がいいのよ……」


つい零れ落ちた言葉に、私は慌てて周りを見渡した。そして誰もいないことに安堵する。


コーヒーを持って副社長室へと戻ると、真剣な表情で机に向かう姿があった。


「ここに置きます」

少し大きな声で言うも返事はなく、私はデスクの一番端へとカップを置く。


「副社長!」

もう一度呼びかけると、ぱっと副社長の真面目な瞳とぶつかる。


「ああ、悪い。ありがとう」

そう言って小さく息を吐くと、コーヒーを確認したようだった。プライベートは最低なこの人も、仕事になると人が変わったように真面目だ。


集中しだすといつもこうして周りの声も聞こえなくなる。何度コーヒーをこぼしたか数えられない。


そんなわけで、必ずこうして副社長が認識するまで私は声を掛けるようになった。


「失礼します」


私のその言葉も、すでに副社長には届いておらず、真剣な面持ちでパソコンの画面を見つめていた。

この二面性はどうなっているの?

そんなことを思わないこともないが、私としてはどうでもいいことだ。


副社長がどこで誰と何をしようが、どれだけプライベートが派手だろうが、私のことをそっとしておいてくれればそれでいい。


そんなことを思いながら、私は自分のデスクへと戻った。


今日も特に何も変わることなく定時を過ぎ、私は挨拶をするために副社長のところへと向かった。


そこには、さっきと全く変わらない姿勢でパソコンに向かう副社長がいて、さすがに大丈夫かと心配になる。


「失礼いたします。あと何かありますか」

言葉を認識するのに少し時間を要したのか、数秒後に副社長は顔を上げた。


「ああ、大丈夫。もう上がって」


そう言いながら、あの笑顔を私に向ける。しかしその横には大量の資料が置かれていた。


終わるの? それ……。


そんなことが頭をよぎるが、私も遅くなるわけにはいかない。


「申し訳ありません。では失礼します」


申し訳ない気持ちを隠すように、私は頭を下げると副社長室を後にした。


まだ明るい空にホッとしつつ、私は家へと急いだ。


私の家は会社から電車で三十分ぐらいの場所にある。帰宅ラッシュの電車は満員で、なんとか体を滑り込ませると窓側を死守する。


景色を見ながら、駅へ到着するのを待つ。毎日がそんな感じだ。

駅から歩いてすぐのマンションに戻ると、一番にシャワーを浴びてルームウェアに着替える。きつく結んでいた髪を解くと緊張が解けるようでホッとした。


私の髪はこの二年ずっと伸ばしていて、緩くパーマがかかっている。それを解くと背中を隠すぐらいの長さだ。それを無理にネットに押し込んでいるため、かなりきつく縛っている。


メガネも度は入っていない。こんな格好をして、都心から離れたマンションに住んでいるのはもちろん理由があるわけで。


私は小さく息を吐くと、冷蔵庫からいくつか材料を出し、簡単に夕食を作るとお気に入りのソファへ座り、ノートパソコンを開いた。


こうして一人でゆったりすると、ようやく自分に戻れたような気がした。


次の日、同じように出社をすると、副社長室から漏れる光が見えた。


いつも通り早く出社したつもりだったが、もしかして副社長の方が早かった?

そんなことを思いながら、ノックをするも返事はない。


ゆっくりとドアを開けて、私は慌てて音が鳴らないようにドアを手で止めた。


そこにはデスクに突っ伏してぐっすりと眠る副社長の姿があった。

いつも完ぺきなスーツは、無造作に応接用のソファに投げて置かれていて、きちんと整えられているはずの前髪が顔を隠していた。


やっぱり終わらなかったんだ……。


昨日の帰りにそのことに気づいていながらも、見ないふりをして帰ってしまったことへの罪悪感が募る。

私が来ても全く微動だにしない副社長は、余程疲れているのだろう。

どれだけ軽薄であろうが、仕事には妥協はない。

そんな副社長に気づかないふりをしていたことが申し訳なくなり、いつもカバンに入れてある自分のストールをそっと副社長にかけると部屋を出た。


そして今日のスケジュールを確認する。

いつもは副社長の言われるままにスケジュールを立てていた。


完全に技術畑の副社長より、私の方が得意とすることも本当はあると思う。

そんなことを思いながら、私は受話器を取ると電話をした。

時計を確認すると、九時を少し回ったところだ。


朝礼にも出ないことを伝え、私はビルの下に入っているショップに向かうと、サンドイッチを前に動きを止めた。


二年近く仕事をしているが、副社長の好みも何も知らない。

興味がなかったとはいえ、自分でもそのことに少し呆れてしまった。

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