絶対に人を屠る魔剣が(スレイヤー)、虫をも殺さぬ思想(アヒンサー)

寳田 タラバ

プロローグ

 我々及び、その他の凡ゆる動物は、遺伝子に因って創造された機械にほかならない。


 遺伝子は、我々を乗り捨て、生き続けていく。


    ──チリャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』



 アレンは、魚になりたかった。というより、自身を、魚の生まれかわりだと信じて止まなかった。


 この世に生を受けてからこの方──まだによわいして十と幾許いくばくかだが──、水と名のつくものや、その目に映る液体の全てが、アレンの目には、魅力的に映った。


 暑さをしのぐために捻った、蛇口の小さな噴水と、その音。


 木陰に逃げ込んだ後の、地面を殴りつけるような夕立。


 泳ぐことも、沈むこともできない虫が、もがいている水たまり。


 齧り口から、新鮮さをうたい滴る、果汁のしずく。


 嗚咽とともに、吐き出される胃液と、その涎。


 女性の柔和な曲線美を強調するように伝う、玉汗。


 姉の心配そうな涙目と、自分の手についた血液。




 水分は、人より倍近く多く飲み、風呂は、必ず一時間以上も、人より長く入っていた。


 海で仰向けにぷかぷかと浮いたり、風呂で鼻の下ギリギリまで浸かったりしては、自分のルーツはここにあったと安堵していた。


 それと同時に、我々の先祖が海から陸に上がったと、古い書物に載っていたことは到底信じられないものだと、思い返していた。


 わざわざ好き好んで海や風呂に浸かる人類が、心地の良い水の中から渇きを得るために外に出て、ついに戻らなかったことが、アレンには信じられなかったのである。


 目は、水に屈折した光を追い求め、足はそれらを探すために駆けずり回った。


 どれをとっても自身の動力源となり、同年代がこぞって集める動植物より、得難い何かだった。


 それでいて雨に濡れるのは大嫌いだったが、母の傘の魔法に迎え入れられた時に、水も天から降りてくるくらいあなたのことが好きなのね、と濡れた髪を撫でられてからは、土砂降りの中でも傘をささず走り回るほどになっていた。




ただ、この時までは──





 最初から最後まで、自身の目は、見開いていた。


 アレンの身に起こったことだが、どこか他人事に思う。連れられてきた劇を見させられていたはずなのに、椅子ごと舞台に挙げられてしまったかのようだった。


 自身が演者なのであれば、どこの舞台で何の劇なのか把握し、ふさわしい振る舞いをしなければならない。


 これは、エルフの国、エリオンの王である父が、アレンを諭す時に使う文句であった。


 父からの言いつけを守るために、今度はしっかりと自身の意識で、周りに目を配った。


 何かから生えている棒状のものを、両手で強くしっかりと握ったまま、ずぶ濡れで立っている自分がそこにいる。


 曇天の暗がりの下、意識はあるが、身体はがんとして動かなかった。雨は好きになったが、服が重くなるのは許せなく、動けないことを雨のせいと疲れだと思い込んだ。


 目だけはうごくが、他にどうすることもできず、俄かに恐怖を覚えて、今までの経緯に思考を巡らせた。何もできないのであれば、考えろ。頭を常に回転させておけ。頭に父の言葉がよぎった。


 つい先刻まで晴天に恵まれた高原で、友人たちと軽口を叩き合っていた。その足元には澄んだ風になびくも、芯を持った姿で、その生命力を横溢おういつした草花がある。


 そういえばあの時、葉の上に踊る露が、アレンに向けて存在をアピールするために、周りの雫を集め、自らを大きくしていた。


 我に返って、先ほどと同じ場所にいるのか確認することとした。水の放つきらめきを、視界に捉えるために、足元を探し見る。


 周囲に光はあった。


 曇天どんてんの下でなにかの余燼よじんが、揺らぐような光を放っている。


 光を嫌がるかのように草花は赤黒く染まり縮んで、吹き荒ぶ風に平伏すようにこうべを垂れ下げていた。


 たしかに濡れた草はあるが、帯ている液体はどこか異様だった。


 自分の想像とのギャップが、違和感として背筋を走る。自身の体は無事なのか。意識した背中は、冷や汗によって冷えきっていた。反して、体の前面は湯を浴びたようにぬくい。


 鼻腔の奥をツンと刺すような鉄生臭さでせ返るような匂いに、ただの湯ではないことに気づく。


 血だ。血が草を濡らし体を温くしているのか。


体を重くしている正体に驚き、両手で拭おうとするも、両手は棒を握ったままである。なんとか手を離そうとするが、全く言うことを聞かない。


 もし、自分の血であって、体にまとわりついついる量以上であれば、もう助からないであろう。全身の感覚は麻痺したかのように乏しい。心臓の拍動が、痛いくらいに、けたたましく脈打っている。


 気が狂いそうになるも、先ほどの父の言葉をリフレインさせる。心を落ち着かせるために、瞼を一旦閉じて、呼吸を深くした。じんわりと、ゆっくりと、たしかに心拍数が落ち着いてくる。まだできることはある。目を開き、両手を注意深く観察した。


 両手が掴んでいた棒は、長剣のつかであり、その先の方をみると、人の中にうずまっていた。


 剣というせきから、刷毛はけのように噴出した、人間の大量の血液が、アレンを泥濘に沈ませていた。



 長剣は、右下腹部からに左肩かけて貫通しており、刃には、もともとそうデザインが施されていたかのように、体から腸を巻き取っている。


(よかった。とりあえず僕のものではない。)


 利己的な解釈をしたアレンの脳とは対照的に、血の気はアレンを置いてきぼりして、体の奥側に引いていった。


 自分が持つ剣が貫いてる人物は誰か。着ている装備に見覚えはないのか。


 眼球が弾かれる様に、視線を上に動かす。


一帯の血泥の持ち主は、アレンが密かに憧れていた彼女だった。


 思考回路がショートし、それ以上何も考えることができない。


 刺さった剣により支えられ、無理やり立たされている彼女は、なぜか微笑を浮かべている。


 彼女を見た途端、体の自由は、より一層効かなくなり、視線も固定されてしまう。


 父の声は、いつのまにか聞こえなくなっている。


 もう限界だった。


 女の絶叫が体の内から耳をつんざく。


──なぜ。どうして──


 自身の喉元の痛みと、女の慟哭どうこくは強く共鳴を起こしていた。


(そうだ。全て悪い夢に違いない。)


 アレンは、自ずから諦めて意識を手放した。



────────────────────



 『悪夢というものは、眠ることを営みとする我々にとって逃れられないものであるようだ。私たちは2歳の頃から悪夢を見始め、じきに回数が増加し、10歳の頃には最も頻繁に生じてくる。


 悪夢からスタートした一日はなんだかずっと気乗りしないこともある。


 文献では、友達や家族への認識にも影響を与え、実例では、夢の中で死んだ旦那の葬儀を、現実だと思い葬儀の準備をするも、実際にはそもそも独身だったものもいるようだ。


 夢と現実の境で悩むものにとって、夢かうつつか定かではなくなってしまうのは、生きていく上で容易なことではない。


 鮮明な記憶を携えて夢から覚めると、実際に起きたこととの判別がつかなくなる。PTSD(心的外傷後ストレス障害:トラウマ)を持つものにとって心の底から忘れたいと思っている事象が、悪夢によりその威力をリフレインさせる事例もある。』(*注)


 あの時の私も、その一例に過ぎないと、何年にもわたって禅問答のように自身に思い込ませていた。



────────────────────



 悪夢から覚めた時、体中がぐっしょりと濡れていた。普段から寝汗をよくかいているので、慣れっこだった。


 気怠い暑さと、纏わり付くような湿度を伴った重力にうんざりする。


 不快感を拭うために、糊の効いたベットシーツにひんやりとした肌触りを求めて足を擦り、縄張りを主張する小鳥の囀りに耳をすませる。そして、窓から入る朝の風に頬を撫でさせようとした。


 悪夢の後味の悪さを、朝の心地良さで帳消しにしようとしたのである。


 しかし、安易な目論見は、間も無く音を立てて崩れ去った。


 足を擦ろうと動いた矢先、生暖かいものにずるりと足を取られ体勢を崩し、何かにもたれかかった。


 バキバキと燃えるような音が耳を障り、熱風が頬を焼いた。それら全てが、遠く自身の部屋に在った心を、現実へ急速に引き戻させた。


 霞がかった視界を、ぎゅっと強くまばたきをして無理矢理に晴れさせる。目についていた膜が剥がれていくように、徐々に目が順応していく。


 薄らと見えていた明かりは、朝の日差しなどではなく、暗くなった周囲を残火がぬらぬらと灯籠のように照らしていたものだった。首の周囲筋に喝を入れて、無理やり頭部を振り回して頭ごと周囲を見渡


 筋肉は指示通りに首を回転させた。今度はしかと動き、悪夢とは違う結果に少々アレンはホッとため息をついた。その安堵も束の間であった。


 そこには、アレン独りの国があった。


 正確には、皆の家だった瓦礫と、火の海と、元は人であったであろうおびただしい量の肉塊があった。


 アレンは、肉に深々と突き刺さった身の丈ほどの大剣の柄を握り、身幅ほどの刀身の腹に身を預けていた。体にまとわりつく不快な湿度の正体は、未だ乾いていない血であった。


 当然その大剣も、血にまみれている。見覚えのない剣だった。事態を飲み込めていないうちに、アレンが意識することもなく、に大剣は肉塊から抜けていった。


「争いは、何も生まないというのに。──とは、なんと恐ろしい生き物なのだろう。──は、甘かった。──のためにも、──は根絶やしにせねばならん。俺は、必ずやり遂げる」


 吐息が聞こえるくらいの近さから声がするが、人に聞かせる気のない大きさだ。ところどころ聞こえない。手元から聞こえてくるようだ。


 耐えきれず身じろぎしてしまう。声の主であり、この惨害を引き起こした張本人であろう大剣、魔剣に気づかれる。


「おぉ、おはよう。眠り姫のような、実に見てて気持ちの良い快眠具合だったな」


「お前、いったい」

低い地声を、声が通るようにピッチを上げたような変な声の調子の明るさと、賑やかだった頃の活気は消え失せた重暗く侘しい光景とのギャップに、気持ちが悪くなる。口が渇き、舌がうまく回らない。


「なんだよ。お前が、急に気を失うから俺は困り果てていた。お前に襲いかかってきたやつを倒していたらこうなった。お礼は、存分に言ってもらって構わないが、文句を言うなら、こいつらに言ってくれ。もう届かないだろうけどな」


「お前、なにをした」


「何をって、見ればわかるだろう。たわけ。だがな、いいか。ひとつだけ言っておくぞ。無益な殺生は俺は好かん」


 アレンが知る中で最も吐き気を催すような声が、剣から響くように伝わってきた。


 は全てを知っている。


 このが、ことの、全てを。




 悪夢には続きがあったのだ。 


 悪夢よりも凄惨な現実が。






 

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