第10話 意地悪なやつに右の頬を叩かれたら、すぐに左の頬を叩き返してやりな
「火事……こっちにも移るかなあ?」
豆妹はまだ子供なので、考えたことをそのまま口にする。『熊の家がどうなっても構わないけど、火の手がどんどん激しくなって、うちにも迷惑がかかるのは嫌だな』と幼心に心配しているのが伝わってきた。
雪華は豆妹の頭を優しく撫でてやった。
「熊の屋敷はここからだいぶ離れているし、豆妹の家は大丈夫。あそこは要塞のように立派な壁で囲い込んで、周囲の木々も切り倒してあるでしょう――だから延焼はしないと思う」
「そう……よかった」
「だけど豆妹、他人の不幸に関わる話で、『よかった』は言っちゃだめだよ」
「どうして? 熊は嫌なやつだから、どうなってもいい」
「嫌なやつだから家が燃えてもいい、当然だと豆妹は思うの?」
「うん」
豆妹が素直に頷く。怪我をした鳥の手当てをしてあげるような優しい子なのに、嫌いな相手にはこのとおり辛辣だ。
それは仕方のないことかもしれないが、姉代わりに面倒をみてきた雪華としては少し心配になる。
豆妹の頭を撫でたまま雪華は続けた。
「心の中で残酷なことを考えるのは仕方ないけど、口には出さないようにしたほうがいいかもね」
「なんで? 正直なほうがいいよ」
豆妹はきょとんとしている。
「思い出してみて」雪華は膝を折り、豆妹と視線の高さを合わせた。「さっきあなたは熊から嫌なことをいっぱい言われたでしょう? 『くそがき』とか『尻を叩くぞ』とか」
「あれはすごく嫌だった」
豆妹がしかめつらになる。せっかく火事だと教えてあげたのに……そう思っているのだろう。
雪華は思い遣るように豆妹を見つめた。
「熊が心の中で意地悪なことを考えたのだとしても、我慢して口に出さないでおいてくれたなら、先ほど豆妹は嫌な気持ちにならずに済んだんじゃない?」
「そうだね」
「熊は豆妹に意地悪なことを平気で言うような人だから、今家が燃えているのに私たちに心配すらしてもらえない。それって彼、すごく損してない?」
自分は商売人だから「損」という言葉を選んで使ってしまった。雪華はそんな自分自身に苦笑する。
けれど雪華は聖人君子ではないし、「たとえ相手が悪人であっても、幸せを祈ってやりなさい」という清らかな指導をすることはできない。思ってもいないことを口にした瞬間、幼い豆妹はそれを悟るだろう。そうしたら彼女は次から『雪華は平気で嘘を言う人』という目で見てくる――子供は純粋なぶん、大人の
豆妹は長いあいだじっと考え込んでいたのだが、やがてこくりと頷いてみせた。
「分かった……私、熊みたいになりたくないから、意地悪はなるべく口に出さない」
「だけどね、ずっといい子でいなくてもいいのよ」
「そうなの?」
「豆妹が大事に想っていることを平気で踏みにじるやつがいたら、仕返ししてもいい。意地悪なやつに右の頬を叩かれたら、すぐに左の頬を叩き返してやりな」
「それは我慢しないでやっていいんだ、よかった」
豆妹がにっこり笑う。
雪華はもう一度豆妹の頭を撫でてやった。
もしかすると教育方針を間違えているのかもしれないけれど、私も姐姐にそう習ったしな……雪華はそんなことを考えていた。
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