小夜
杏「そういえば。」
頭の中でまわりに回った独り言が
ついに外の空気と触れた。
そういえば、悠里って人と
まだ話したことなかったかも。
一叶の家の扉前で
唐突に辿り着いた点だった。
確か彼女は同じ高校に通っていたはずだ。
とはいえ何を話すのだろう。
一叶のことを聞くにも
ツイートしていたことが全てだろうし、
一叶もそれを認めている以上
事実が覆ることはない。
彼女が一叶を恨んでいることも知っている。
その手前、一叶の話題をあげるのも
意地悪がすぎるかもしれない。
首を振る。
目の前の扉が目に入る。
他の学生が通れば
変な人に見えるだろう。
かれこれ5分ほどは扉の前に立っている。
急いで帰って熱った体も
そろそろ手足の先が冷えてくる頃だ。
思い切ってインターホンを押す。
話すだけ。
そして、ひとつ言うことを聞くだけ。
内容は何も伝えられていないのが
怖いところであり、
それに従わなければ自分が
傷つくなんて脅し文句を言われたら
一層怯えるものだろう。
最初から「頼みたいことがある」
「お願いがある」くらいにしておけば
ここまで怖がらずに
遊びに来れたかもしれないのに、
条件だとか言う通りにだとか言うから
こんなにも勇気が必要なのだ。
数秒してすぐに扉が開く。
いつ帰ってきているのか、
制服姿のままだが既に一叶は部屋にいた。
一叶「早いね。」
杏「一叶こそ。」
一叶「マンションと学校の距離が近いだけだよ。」
杏「確かに近いけど。」
一叶「そこから疑われても困るよ。蒼だって帰って来れるよ。」
杏「まあ…確かに。」
一叶「そんな緊張されても。」
杏「いやいや、するでしょ!?」
一叶は緊張など身人もしていないのだろう、
けたけた楽しそうに笑って
部屋に上げてくれた。
が、早々に鞄を持ち出して
また玄関に向かうではないか。
一叶「いつもみたいにここでゆっくりしてもいいけど、今日は場所を変えようか。」
杏「珍しい。一叶はインドアなイメージあるから、外に出てると変な気分。」
一叶「毎日学校には行ってるじゃん。」
杏「確かに。でもそうじゃなくて、プライベートでっていうか。」
一叶「コンビニも行くよ。」
杏「コンビニを1カウントにしてるのがインドアの発想なんだよね。」
一叶「言うねぇ。荷物は重いだろうし、自分の家に置いてきなよ。持ち物は家の鍵とスマホだけあれば十分だから。」
杏「どこ行くの。」
一叶「カフェだよ。」
杏「そ、外で話すの?他の人にも聞かれるかもしれないのに?」
一叶「その辺りは大丈夫。」
杏「個室ってこと…?」
一叶「全く心配症だなぁ。」
茶化すように笑うと、
急かすように背を押してきた。
その圧力はまるで一般的な人のようで、
押されただけで体が吹っ飛んだり
体が戻らないほどに凹んだり
なんてことはなかった。
歩けば地面が抉れるなんてことはないし、
これまで怠惰な時間を過ごす中で
背にもたれたことだってある。
夏休み前、一叶の家を避暑地にして
涼んでいる間に寝落ちてしまった時、
毛布だってかけてくれた。
行動全てが人間的で、人間の範疇にいる。
今こうして布を通してだろうが
触れている瞬間は、
一叶はロボットじゃないように見えた。
からっとした風が肌を叩く。
ここ1週間でまた気温はぐんと下がり、
冬と言っても差し支え無くなった。
ブレザーのポケットに手を突っ込む。
成山ヶ丘高校では女子でもズボン型の制服を
身につけても良くなったのだが、
その制度がまだないらしい
東雲女学院の制服を身につけた一叶は
素足で冷たい風を受けていた。
閑静な住宅地から通学路では
ない方の道へと進む。
どんどんと喧騒と人が少なくなっていった。
杏「寒くないの。」
一叶「寒いよ。めちゃくちゃ寒い。」
杏「寒いとかってわかるの。」
一叶「わかるよ。」
杏「…。」
一叶「あ、今、人じゃないのに?とか思ったでしょ。」
杏「…まぁ……思ったよ。言わないでおいたのに。」
一叶「いいよ、言っても。」
杏「なんか嫌じゃん。」
一叶「でも、寒いってわかるかと聞いたのは杏だよ。それは既に私が人間ではないことを前提に話をしているよね。」
杏「揚げ足取りみたいなことしないでよ。」
一叶「あはは。まあとにかく、直接的に聞いていいし、そんなまどろっこしいことはしなくていいよ。」
杏「いい意味で気を遣うなって感じ?」
一叶「そう。でも…これから先もずっと、私は杏たちとは違うことを忘れることはできないと思う。知ってしまった以上先入観はあって、それは捨てられないものだから。」
杏「…知らなきゃよかったのかな。」
一叶「知らなきゃ仲良くできた?」
杏「…少なくとも知るまでは。」
一叶「ふふ、そっか。それは嬉しいね。」
杏「どこが。今こんな空気ですけど?」
一叶「だって知らないままでいたら…悠里が指示を守って、誰も消えたりせず、誰も暴露なんてしない世界線があったなら、まだ幸せな時間は続くってわかったんだから。」
杏「…遠回しに人のせいにしてません?」
一叶「それがきっかけだったってだけだよ。悪いとは言っていないし、今回のことは時間が経てば経つほど…多分、心の準備はできてた。」
杏「じゃあ仕方なかったって思うだけ…思うでもないか。」
一叶「寂しいよ。」
毎度のことながら、と
いつかにも聞いたような言葉を落とす。
杏「…一叶さ。」
一叶「うん。」
杏「その…言いづらいけど、変わったよね。」
一叶「そう?」
杏「なんで言えばいいんだろう、お堅くなったって言うか…こう…事務室…みたいな?」
一叶「蒼っぽい?」
杏「ざっくり言うとそうかもしれないけど、なんか違う。」
一叶「んー…どう違うの?」
杏「軟禁されてて、学術書しか置いてなかったからめちゃくちゃ読み込んじゃった子供みたい。」
一叶「あはは、何それ。」
杏「蒼は昔から蒼じゃん。お堅いところが根っからある感じ。でも、一叶のは取ってつけたみたいで馴染んでない気がする。」
一叶「なるほど。もしもこっちが素だったって言ったら納得する?」
杏「するしかないんだと思う。」
一叶「お堅いのは杏の方な気がするな。最近は蒼と話すことが何度かあったから、そのせいかもね。」
杏「蒼と話したの…?いつ?」
一叶「いつではもいいじゃん。」
杏「せめて悠里から聞いた前か後かくらいは知りたい。」
一叶「両方だよ。」
杏「…蒼は何も言わなかったの?」
一叶「流石に事実かどうかは聞いてきたけど、そのくらい。」
杏「…。」
じゃあ、一叶は蒼といた方が
楽しいんじゃないんだろうか。
あれこれ疑われず、
言葉の意味のまま事実を受け入れ、
その上で関係を続けられるのなら。
一叶がうちと過ごす時間を
選びたがる理由がわからない。
それこそ、一叶の方こそ
これまで一緒にいた時間が長かったから
うちを選んでいるように見える。
一叶についていくと、
見覚えのないマンションにやってきた。
5、6階建てだろうか、
いくつかの窓はカーテンが閉まっている。
既に16時を回り、
徐々に暗くなりだす時間だから
早めに夜にしてしまったのだろう。
オートロックの扉だったのだが、
一叶が部屋番号を押すと
すぐに解錠され、
透明な扉が音を立てて開いた。
こういった機械も
一叶の先祖だったり
するのだろうかなんて思ってしまう。
辿り着いたのはなんてことない
マンションの一室。
うちたちの住む学生マンションの扉と
さして変わりはない。
杏「……ここ?」
一叶「そう。」
杏「待って待って、流石に怪しいって。カフェって話はどこいったの!?」
一叶「この中。」
杏「嘘つき!そんなはずないじゃん!」
一叶「そう言いたい気持ちはわかるよ。」
杏「いーやわかってないでしょ!」
一叶「いいからいいから。」
一叶は無視するように扉に手をかけた。
鍵はかかっていないようで
すんなりと開いていく。
一叶の背に隠れながら
そっとその中を覗く。
すると、どういうことだろう、
中はアンティーク風なカフェが
広がっていたのだった。
入って正面に注文するカウンターがあり、
それをぐるりとコの字型で囲むように
2人席や4人席が並んでいる。
しかし、当然といえば当然だろうか、
店員も含め、人は1人もいなかった。
杏「……え?」
一叶「ね、言ったでしょ。」
杏「何これ、だってさっき横にも人住んでたよね?扉あったよね?絶対繋がってないじゃん…?」
一叶「簡単に言うと、扉を通して空間をくっつけたんだよ。」
杏「どういう…?超能力的な何か…?アニメの見過ぎ…?」
一叶「私が今ここでそうしたわけじゃない。繋げたのは技術者側なんだ。」
杏「…じゃあ、ここはどこ…?」
一叶「たった今だけ、少し未来に来てるんだ。」
杏「……はい?」
一叶「全然そんな感じしないでしょ。」
杏「え、あ…うん。少しって…明日とか?」
一叶「まさか。」
笑ってそう言うと、1番奥の席へと案内される。
4人がけだったのだが、
人が1人もいないと
申し訳ないとすらも思わない。
窓際なもので、
すりガラスから光がきらきらと遊ぶ。
先に座っていると、
一叶はカウンターの方へ向かい、
どこからか飲み物を持ってきてくれた。
小さなお皿に乗った2つのグラスからは
程よい苦味と優しい甘味を
彷彿とさせる匂いが漂っている。
一叶「どうぞ。」
杏「ありがとう…?」
一叶「いいえ。」
正面に座る彼女にも
光が斜めに差し込んでいる。
杏「それで…いろいろ聞きたいんだけど…でも何から聞いたらいいかわからないくらい混乱してる。」
一叶「そりゃあそうだと思う。」
杏「…静かで声が反響するの、すごく気になる。」
一叶「私たちだけしかいないからね。」
杏「他の人は…?」
一叶「いないし、入ってこないよ。」
杏「……未来にいるから?」
一叶「半分正解。未来にいるかつ、ちょっと特殊な場所にいるから。」
杏「…全然わからないよ。」
一叶「実感はないだろうけど、たった今杏は約30年後の世界にいるんだ。」
杏「さん……は…えっ?いや、実感は確かにないけどね?」
一叶「これは信じるの?」
杏「…確かに。普通に現代の可能性もあるか。」
ふと窓の外を見ようとしたが、
すりガラスだったことを
思い出してげんなりする。
オレンジ色の光が差し込むだけで、
外の様子はこれっぽっちもわからない。
窓を開ければとも思ったが、
そもそも開けられるような窓ではなく、
鍵もついていなければ取手もない。
ただの明かり取りらしいが、
全ての窓がこれだといよいよ怪しい。
杏「外見てきていい?」
一叶「今は出られないよ。」
杏「……なんて?」
一叶「今すぐには出られないって言った。」
杏「……。」
一叶「…怖いよね。でも、時間が経ったら鍵が開く。何日かかかるわけじゃないから安心してほしい。」
杏「安心はできないけど。」
緊張しているのが伝わったのか
何とか気を落ち着けようと
してくれているのはわかる。
わかるけれど、どれだけ言葉を尽くされても
この不安は溶けることなどないのだ。
一叶「今、未来にいるって言ったでしょ?」
杏「…うん、言った。」
一叶「ならさ、今忽那杏は生きているとも言えるし、死んでいるとも言えるよね。」
杏「安心してって言った矢先の話題がそれですかぁ!?」
一叶「あっはは、ごめんごめん。」
杏「笑い事じゃないですけどね?」
一叶「勢いが凄かったからつい。」
杏「もー!笑ってんじゃないぞー!」
一叶「だからごめんって。あはは。」
杏「いいよもうー…。んで、何だっけ。生きてるし死んでるみたいな。」
一叶「うん、そう。マンションに入る時は2024年にいた。杏はちゃんと生きている。」
杏「…自分を追加しとかなくていいの?」
一叶「私が生きていると言えるかどうかは、後の話にしようよ、きっと長くなっちゃうよ。」
杏「……わかった。」
一叶「それで、マンションの一室に入った。その瞬間、現代からは杏は消えたことになるよね。」
杏「うん。でも、実際こうして生きている。」
一叶「それは外からはわからない。だからどちらとも言える。」
杏「どちらとも言えるのって外から見た人だけでしょ?」
一叶「私たちはわかってるしね。」
杏「あれみたい。しわくちゃの猫じゃなくて。」
一叶「シュレディンガーの猫?」
杏「そう、それ。」
一叶「ここに毒ガスが撒かれれば完璧だね。あの話も詳細を辿れば少し違うけど。」
杏「やめてよ物騒なこと言うの。」
一叶「そんなことは起こらないから大丈夫。」
杏「…本当かなぁ。」
一叶「そんなに信用ない?」
杏「…半々。」
一叶「ロボットだから?」
杏「……というより、人を…その、手にかけたって、聞いたから。」
一叶「…!…そっか。」
意外だったのか、
少しばかり目を見開くと
机の上に並んだ飲み物を眺めた。
これにも何かしら
毒物が入っているんでは
なかろうかと疑ってしまう。
甘い匂いに紛れて…なんてことは
あったっておかしくない。
そう言えば一叶は
飲み食いしていた記憶があるが
どうしているんだろうと思ったその時だった。
一叶は席を立ち、
うちのそばにきて両手を優しく握った。
そして、立つように促すかの如く
そっと引っ張っていく。
彼女の両手は暖かく、
まるで人のようだった。
杏「え、何…?」
一叶「例えば、たった今この部屋が暗くなったら。」
その瞬間、ばち、と言う音と共に
彼女の言葉通りに部屋の照明が落ちる。
先ほどまで穏やかに差していた光も
まるで太陽が生き絶えたかのように
真っ暗になってしまった。
前が見えない。
どの距離に机があったかすら
あまり記憶していない。
自分の家と勝手が違うのだから
感覚でどうにかなる話じゃなかった。
それなのに、掴まれた手だけに
確かに感触が残っている。
強く握ると、少しだけ力を入れて握り返される。
確かに一叶の手のはずなのだ。
一叶「そのままこっちに。手を離さないでね。」
一叶の声がする。
ちゃんと正面から聞こえてくる。
もしも左右や後ろから聞こえていたら、
あまりの混乱具合に
目の前のそれから手を離して
前もしないのに走り出していたかも知れない。
もしくは、その場で座り込んでしまうか。
心臓は跳ね上がっているのに
辛うじて立てているのは、
この手があるおかげだった。
杏「何で、な…電気…!」
一叶「そういうものなんだ。」
杏「…ちゃんと説明してよ!前もっていって欲しかったんだけど!」
一叶「ごめん。」
それは無理なんだと
言い訳もすることもなく
ぽつりと謝った。
そして。
一叶「私も怖いんだ。」
そう言って、これまで聞いたことのないような
細い細い声を絞り出し、
僅かに手をぴくりと震わせて握るから、
同情か、手を離さないようにと
強く握り返すしかなかった。
そのまま席を立ち、
ゆっくりと両手を引かれる。
真っ直ぐ。
真っ直ぐ。
真っ直ぐ。
ずっと真っ直ぐ。
ゆっくりなペースではあるけれど、
かなり進んだ気がする。
それなのに、壁もどこにもぶつからない。
一叶は曲がりもしない。
ずっと真っ直ぐ進んでいく。
知らない間に数度ずれていることは
あり得るけれど、
90度曲がっているとは考えづらい。
どこまで、いつまで
こうしているつもりなの。
そう聞こうとした瞬間、
緩んだ手から彼女の温もりが
刹那消え去った。
手を離されたと理解するまで、
ほんの少しかかった。
待って。
泳ぐように手を伸ばしてかく。
けれど、何も掴むことができない。
杏「っ…!一叶、どこ…!」
一叶「ちゃんといるよ。」
杏「どこに」
一叶「ひとつ、お願いがある。昨日話していた条件のこと。」
杏「何、今、今さら。」
一叶「今日の条件は、ここで少しの間待っていること。」
杏「待つって…っ!」
一叶「前回は1時間半くらいかかったけど…できる限りすぐに戻ってくる。だから、動かないで待っていて。」
杏「待ってよ、ねぇっ!」
もうひとかきする。
肩から指先まで、
伸ばせる限りうんと伸ばして空を切る。
何もいない。
一叶の声はちゃんと
前の方向からしたはずなのに、
もう聞こえない。
杏「一叶…?一叶…!」
けれど、彼女の言いつけを
守ろうとする頭は働くようで、
その場から足は動かなかった。
カフェだったはずの場所は
だだっ広くなにもない空間のようで、
まるでどこまでも続く体育館に
放り込まれたような気分だった。
動かないで。
待っていて。
1時間半くらい。
今回は?
今回は、短く終わるかも。
1時間ってどのくらいだろう。
お腹が空くくらい?
勉強してたら長いけど
友達と話してたらあっという間…くらい。
全然基準にならない。
もう10分経ったかな。
まだ1分かな。
何かの間違いで1時間経っていないかな。
杏「一叶…?」
もう1度呼んでみる。
伸ばす自分の手も見えない。
床も天井ももちろん、
色だけでは判別できない。
辛うじて重力が働いているおかげで
下がわかる程度だった。
音だけが頼りってこんなに
不安になるものなのか。
眠る時も暗くするけれど、
それは充電器だったり炊飯器だったり、
はたまた外の街頭だったり
どこかしらから光が漏れていて
不完全な暗闇なのだ。
自分が存在しているかどうかすら
疑ってしまいたくなるような空間で
どうしろと言うのだろう。
一叶はどこに行ったのだろう。
すぐそこに立ってやしないだろうか。
手をぐるりと薙ぎ払うように1周させる。
それでも何にもぶつからない。
一叶からうちのことが
見えてやしないだろうか。
さっきみたいに安心してと
言ってくれないだろうか。
嘘でもいいから大丈夫だよと
声をかけてはくれないだろうか。
杏「…っ。」
声をかけられないならせめて、
どうか早く戻ってきて。
そう願って、その場でしゃがみ込み
顔を隠すように伏せる。
もしかして、たった今うちの目が
潰れていたなんてことはないだろうか。
不安になって、伏せた顔を上げて
頬や鼻、口、そして閉じた目に触れる。
ある、ちゃんとある。
瞬きもできる。
けど、眼球が機能しているかなんて
うちからはわからない。
血は流れてない。
コンタクトをする容量で
白目があるはずの部分に指の腹を近づける。
何かが目の中に触れ、
反射的に瞬きをして手を離した。
白目はある。
指の腹を擦ると、微かに湿っていた。
目が多少しばしばして、
更に何度か瞬きをする。
大丈夫だ。
きっと、黒目もある。
破裂もしていないし、
そもそも痛くもない。
大丈夫。
大丈夫。
誰も言ってくれないその言葉を
口から何度か呟き落とす。
目を閉じても開いても変わらぬ景色だ。
目を閉じて今度こそ伏せる。
同じなら、いっそのこと
目を瞑って仕舞えばいい。
見なければないのと一緒だから。
早く時間が経ることばかりを祈って、
体を縮めて待つばかり。
どのくらいだっただろう。
しゃがむにも足が痺れてしまい、
カフェであるはずの手前、
行儀は悪いが床に座り込んだ。
体操座りのまま伏せ続ける。
もう30分は経ったはず。
何もできず、時間を数えていても
心拍数が気になって忘れて。
それを繰り返すうちに、
徐々に落ち着いてきたのか
深呼吸ができるほどになった。
後どのくらい待てば。
そう思った時だった。
一叶「杏。」
杏「…!?一叶、一叶、どこ!?」
彼女の声が聞こえて、
咄嗟に顔を上げ気づけばその場を立っていた。
あたりはまだ変わらず真っ暗なままで、
前後の感覚すらないけれど、
声のしたはずの方を見つめた。
一叶「足はそのままで。手を、ゆっくり前に伸ばして。」
杏「…こう?」
一叶「あはは、キョンシーみたい。」
杏「さっき、そう引っ張ったじゃん!」
一叶「もー…怒んないでよ。」
参ったように言う声と同時に、
両手に何かが触れた。
下から支えるように
彼女の手が触れる。
しかし、明らかにおかしいところがあった。
右手はさっきのように暖かいとわかるのに、
左手には体温が伝わなかった。
冷たくて思わず手を引っ込める。
冬場、雪の中放置された
スマホのようにひんやりとしていた。
一叶「…。」
杏「冷たっ…指、冷えすぎじゃない?」
一叶「…。」
杏「一叶?」
一叶「変わらないよ。」
そう言った時、ようやく電気が通じたのか
またばち、と音を立てて
あたりは光に包まれた。
眩しくて目をぎゅっと瞑る。
けれど、その手を離さないようにと
もう1度見えないながらに伸ばす。
すると、彼女の方から
うちの手を掴んでくれた。
やっぱり冷たい。
体の芯から冷えていくようだった。
恐る恐る目を開ける。
もしも一叶ではないものだったらどうしよう。
気持ちの悪い生命体だったら。
…なんて考えていたけれど、
最後に見た時と同じ制服を身につけ、
見た目も何も変わっていない一叶が
微笑みながらそこに立っていた。
あたりを見回すと、
確か真っ直ぐ進んでいただけのはずなのに、
何故かカフェの中心に位置している。
一叶「待たせてごめん。」
杏「…!ほんとだよ!何回も呼んだのに!」
一叶「ちょっとは聞こえてたよ。…最初の方だけだけど。」
杏「何で…何の意味があってこの条件なの?」
一叶「何にも。」
杏「じゃあ、手が冷たいのは?」
一叶「…暖かい方が変って思わないの?」
杏「さっきまで両方暖かかったじゃん。外に出てたとか…そういうこと?」
一叶「違うよ。」
杏「…。」
一叶「…何もない。」
杏「じゃあ何でそんな顔すんの。」
一叶「…。」
両手に力が入れられる。
けれど、僅かに圧がかかる程度で
全く痛くない。
一叶は下唇を噛んでいた。
さっきまでの優しい笑みを崩して、
けれど笑顔で居続けようとした。
一叶「…大切なデータを少し、置いてきた。」
杏「…。」
一叶「決まりごとなんだ。今回の、この時期の、今日の決まりごと。」
杏「…。」
一叶「そのデータをまとめて保管していたのが腕のパーツの一部だっただけで。」
杏「…!」
一叶「でも、私本体にはちゃんと残ってるんだ。…例えるなら、USBに念のため保存してあるデータを、一旦預けた…みたいな。」
杏「肌身離したくないくらい大切なものなんだよね。」
一叶「……。」
うんともすんとも言わず、
ただ深く俯いた。
何がそんなに大切なデータなのか、
一叶の一生を知らない手前何も言えないけれど、
彼女が相当落ち込んでいることはわかる。
さっきも「怖い」と言っていたし、
心があるかどうかはさておき
きっと本当に思っていたのだろう。
その上で、どうしても
自分の一部のことをパーツと言ったり
データと言ったりすることが
気に入らなかった。
ロボットはロボットで、
それは事実で変わらない。
けれど、一叶がその言葉を使うときは
どことなく自分を卑下しているようで、
それがとんでもなく嫌だった。
落ち込んでいる人を前に
その言葉を吐けるわけもなく、
冷たくなってしまった手も
暖かいままの手もぎゅっと握る。
杏「…明日も続くの?」
一叶「……うん。」
杏「……最終的に一叶がいなくなったりはしないよね?」
一叶「……。」
杏「何とか言ってよ。」
一叶「…わかんないよ。今の杏がどう考えているのかを知らない限り、どうしても。」
杏「何それ。」
一叶「…今日は一旦帰ろう。もう遅くなっちゃうから。」
惜しむように指先をもう1度握り、
そして手が離れた。
すぐに彼女は背を向けると、
カフェから出ようとドアノブに手をかける。
その背を追って部屋から出ると、
入った時と同様、
マンションの前に立っていた。
鍵も閉めず、一叶はすたすた歩いていく。
動けないままのうちの方へと振り返って、
人みたいに「帰ろ」と言うのだった。
夜を渡る PROJECT:DATE 公式 @PROJECTDATE2021
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