【短編】泉の乙女は果実と謳う

墓太郎



 あの修道院の廃墟は、村はずれの湿りきった土壌に根をはり、朽ちた石壁が暮色に溶け込みながら、静かに呼吸をやめている。中庭と呼ぶには寒々しい、その囲いの中央に小さな泉がある。白く苔むした大理石の縁は、年月に爪を立てられ、ぬめるような手触りを宿している。修道院が誰の手によって、何の祈りを背負い、いかなる血筋の石工が異国より運ばれたか――今となっては知る者もおらぬ。残るは、湿りきった土の息と、泉の水底に沈む黒い闇ばかり。


 黄昏が曇り空に滲み出す頃、私はその泉のそばへ導かれた。理由はない。ただ薄暗い村外れの小屋で、さざ波のような囁きを夢に聞いた。その声は、かすれた木苺の甘酸っぱい香気をまとい、遠く、失せた時代の名を唇にのせるようであった。私は足元を確かめながら苔のじっとりとした石畳を踏み、泉へと進む。ここには、髪に木苺の花飾りを挿した乙女が、ある日暮れ、静かに沈み行ったという古い伝承がある。人は彼女を一瞬の幻と嘲り、またある者は戦乱の夜に恋人を失い、嘆きつつ身を投じた娘と語る。説は千切れ、葉陰に消える虫の影のように定まらない。だが、どの噂にも微かに通底するのは、血と果実と嘆息の混じり合った奇妙な甘美さだ。


 泉に屈み込むと、わずかな水音が耳を打つ。風は止み、周囲はしめり気に溢れている。伸ばした指先へ、冷たい膜が触れる。目を凝らして水面を覗けば、そこには私自身の顔がゆがみ、暗い深みを背景に揺れている。その傍ら、かすれるようなもう一つの影が、瞼を閉じた少女の横顔として滲み出てくる。私は息を殺し、さらに耳を近づける。すると、水底の奥、朽ちた記憶の層に沈みし木苺の花飾りが、ひそかな甘酸っぱさを蒸し返すように匂い立つ気配がする。まるで誰かが腐葉土の中へ埋め隠した果実が、底から囁きかけてくるように。


 振り返れば、葉擦れの音は消え、木立は不吉な沈黙を湛えている。ひとつの花弁が、実際には存在しないはずのものが、私の頬をかすめて通り過ぎた。空気が微かに揺れると、その香りはすでに跡形もない。気のせいだったのか、と顔を戻せば、泉は単なる暗い水鏡に過ぎず、私の瞳と、黄昏にかすむ廃墟が写り込むのみ。あの乙女の幻は、いまや沈黙の底へと還っている。


 それでも私の胸には、泥土に埋まった果実のような、半ば腐しかけた甘酸っぱさが残る。私は歩みを引き、もう戻らぬかもしれない。されど夜更け、閉じた瞼の裏にあの泉が揺らめき、暗い水底でひそやかに木苺の花飾りが緩やかに踊るだろう。その下で乙女は、口をつぐみ、時の裂け目を通して私を見据えているに違いない。名もなき実を宿す大地と同じように、私たちが触れ得ぬ深みで、あの黒い瞳は沈み続ける。


 ひとつ溜息を残して、重い足音を草に吸われながら、私は帰路へつく。背後で、存在しない花弁が、存在しない香気を漏らしている。それはきっと、この朽ちた庭に根づく呪いか祈り、あるいは永遠に墳墓の底でさえずる看取られぬ歌なのだろう。歩き去る私を嘲るように、古い泉は声なき声音で息をひそめている。






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