第3話 1人

 鼠谷ミキが好きな理由について語る前に、俺の家族に付いて話さないといけないかもしれない。俺の置かれた環境について喋らなくては、彼女への好意は語れない。


 兄弟はいない。1人っ子。だけど甘やかされて育ったわけではない。厳しいわけでもなかった。子育てに一生懸命で子どもに厳しくなる、みたいな家庭から一番遠い場所にいた。

 彼等は俺に興味がなかったのだ。

 彼等。両親の事を他人行儀なニュアンスで言うのは、彼等にとって俺は他人だからである。

 それでも小さい時は彼等からの愛情を信じていた。


 父親は大きな企業で働いていて、……かなりの偉いさんだったらしい。どこの企業で働いるのかは詳しいことは知らない。全然、家には帰って来なかった。

 別の女性のところに帰っている、と母親が愚痴っていたのを聞いた事がある。

 だから父親に関して、思い出はない。


 母親は、……綺麗な人だった。いつでも化粧をして夜になれば飲み歩いていた。

 夜に働いていたわけじゃなくて、ただ友達と飲み歩いているようだった。

 そのおかげで小さい時からいつも1人だった。夜が怖くて、何度か母親に「行かないでほしい。一緒に寝てほしい」とお願いしたことがある。

 それでも母は、俺を置いて出て行ってしまった。

 母親にも別の男がいたんだろう。

 あの人も別の場所に帰る場所があったんだろう。


 そして俺が中学の時に両親が離婚した。

 2人とも別々の帰る場所があって、2人とも自分達の子どもに興味がなくて、……子どもながらに今までどうして彼等が結婚を続けていたのかも不明だった。

 離婚の理由は、母親の不倫らしい。

 父親の不倫ではなく、母親の不倫。

 父親が探偵を頼んで不倫現場の写真を撮ったらしい。2人とも不倫をしていた。だけど証拠を確保したのは父親だけだった。

 だから離婚の慰謝料は無し。

 俺の教育費は払ってくれるらしい。

 だけど、それは今までみたいに優雅な生活ができるだけのお金ではなかった。


 だから俺達は中学校の時に、今まで住んでいた家よりも狭い家に引っ越した。

 相変わらず母親は夜にいなかった。

 飲み歩いているんじゃなくて、水商売の仕事をするようになったのだ。


 家にいる時は、「お前を育てるために私が働かなくちゃいけない」と言って母親は俺を殴った。

 きっと殴り返せば俺の方が強かったと思う。

 だけど俺は1度も殴り返す事はしなかった。

 母親が俺のために、一生懸命に働いてくれていると信じていた。俺を育てるために不慣れな仕事をしてストレスが溜めていると思っていた。

 俺は、……お母さんのことが好きだったんだと思う。

 夜にいなくても、運動会にも参観日にも来てくれなくても、晩御飯を作ってくれなくても、何もしてくれなくても。

 お母さんは俺のことを愛してくれてる、と思っていたんだ。


 小さなマンションに引っ越してから3ヶ月ぐらい経ったある日。

 母親は男を作って、俺の前からいなくなった。

 朝起きると母親のモノが無かった。

 

 あっ、って俺は思った。

 別の家に行ったんだ。

 お母さんは俺のことを1ミリも愛してくれていなかったんだ。


 テーブルに貯金通帳とキャッシュカードが置かれていた。

 この口座に教育費が振り込まれるから、それで生活してください、と適当に殴り書きしたようなメモが置かれていた。

 それ以上は何も書かれていなかった。

 どこに行ったのかも、いつになったら戻って来るのかも、書かれていなかった。

 2年経っても音沙汰が無いから、たぶん、もう2度と帰って来ないんだと思う。


 俺が1人になったのは、まだ大人に頼らないといけない年齢だった。

 母親のスマホに電話をしても出なかった。『コチラの電話番号は使われておりません』という機械音だけが聞こえるだけだった。

 だから父親に連絡を取ろうとした。

 だけど父親の電話番号はわからない。

 離婚するために雇った弁護士事務所から届いた封筒があった。そこに電話をかけたんだ。

 電話に出たのは20代ぐらいの女性の方で、事情を話した。

 個人情報だから本人に事情を伝えなければいけないらしく、さらに一週間後に弁護士事務所から電話がかかって来て、父親の電話番号を教えてもらった。


 久しぶりに父親とスマホ越しで話した。

 彼は俺と話すのが邪魔くさそうだった。早く、この厄介ごとから解放されたい、と思っているようだった。

 俺は助けを求めているだけだった。

 学校の入学費も出すから2度と電話をかけてこないでほしい、と父親に言われた。彼には彼の人生があって、そこには俺が入り込む余地が無かった。

 俺が出していたSOSは誰にも受け取ってもらえなかった。


 中学2年生の秋に俺は完全に1人ぼっちになってしまった。

 これから先、1人で生きていくことを決意しなければいけなかった。




 その年の冬のこと。

 流行っていたウイルスに俺はかかってしまった。

 病院に行くこともできず、食事を取ることもできず、俺はベッドの上で丸くなっていた。

 あまりにも体がしんどすぎて、何日も水分も取らず、食事もしなかった。そのせいで、もうすぐ死ぬと思った。

 あんな母親でも、俺が病気になった時は水を持って来てくれたり、白米を部屋に持って来てくれたりした。

 そんな事を、ミミズの鳴き声すら聞こえるマンションの一室で思い出していた。


「お母さん」

 と俺は呟いていた。

「お母さん、お母さん、お母さん」

 帰って来るわけがないのに、俺は母親を求めていた。

 そして意識を失った。



 気づいた時には遠くの方でチャイムの音が聞こえた。

 俺は起き上がろうとした。

 だけど転んだ。

 うまく体が動かない。

 

 でも扉を開けなくちゃ、と思った。

 もしかしたらお母さんが帰って来てくれたのかもしれない。

 何度も転びながら、俺が留守だと思ってお母さんがどこかに行ってしまはないか焦りながら、俺は玄関に向かって扉を開けた。


 そこにいたのはプリントを持って来てくれたクラスメイトだった。

 鼠谷ミキ。

 小さい顔に大きなマスクを付けて、彼女は立っていた。鼠谷ミキの手には大量のプリントが握られていた。

 すごくガッカリした。

 俺は力が抜けて、そこに倒れてしまった。


 気づいた時にはベッドにいた。

 彼女は倒れた俺をベッドまで運んでくれたらしい。


「家族はいないの?」

 と彼女は尋ねた。


「……いない」

 と俺は答えた。


「ご飯は? 飲み物は?」

 と彼女は尋ねた。


 俺は首を横に降った。

 それからしばらくしてから彼女はキッチンでお粥を作って持って来てくれた。

 久しぶりのお茶で口を潤し、彼女が作ってくれたお粥を食べた。

 それがとても美味しくて、俺は泣いていた。

 いや、違う。お粥が美味しかったから泣いていたわけじゃなくて、……マンションの一室で遭難してしまって、誰かに救助を求めていたんだ。

 そして彼女が俺を見つけてくれた。

 だから俺は泣いてしまった。



 それから鼠谷ミキが同じマンションで同じ階に住んでいる事を知った。

 彼女の両親は海外出張が多く、日本に帰って来ても弟の病院に行って家に帰ってこないことを知った。彼女もまた1人ぼっちだったのだ。

 晩御飯は交代制で作るようになった。

 1人分作るのも2人分作るのも労働は変わりなかった。

 色んな理由を付けて、俺達は一緒にいる時間を増やしていった。

 寂しさゆえに俺達は近づいたんだ。

 もっともっと近づきたい、と俺は思ってしまった。

 それが鼠谷ミキへの好意の正体だった。

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