最後はキスで終わらせて

一条珠綾

第1話(完)

「り、りさちゃん、行かないでっ…う、う」

「さあくん…」


 今日は同じ養護施設で育った、りさちゃんが里親に出される日だ。玄関先で待つりさちゃんに最後の荷物を渡すと、本当にお別れなんだということが分かり、涙が溢れてくる。少し上を見上げると、空はどんよりとした曇り空で、一層鬱々とした気持ちになってしまう。


 沙耶太(さやた)は、物心ついたときから養護施設ナナイロで暮らす、いわゆる”孤児”だ。もちろん親の顔は知らない。


 ナナイロは、様々な事情によって親と暮らせない子が集まる養護施設だ。沙耶太は産まれたときからここで暮らしている。正確には、産まれた時には親と一緒だったのだと思うが、まだふにゃふにゃ泣いている赤ちゃんの時に、ナナイロの門の前に置かれていたのだという。もちろん、親の顔も名前も知らない。


 沙耶太という名前をつけてくれたのは園長先生だ。園長先生は沙耶太が物心ついた時からずっとおばあちゃんなので、たくさん遊んでもらうことは難しかったけれど、その分園の先生やみんなと楽しく遊んだ。みんな仲良しで、家族だった。


 そんなふうに育ったからか、9歳になった今も、園の誰かが他の家に引き取られてしまうとこの世の終わりのような孤独を感じてしまう。


 今日は、いつも仲良くしていた1歳上の女の子であるりさちゃんとさよならする日だ。りさちゃんとは年が近く、何をするにも一緒だった。血は繋がっていないけれど、ずっとお姉ちゃんだと思って過ごしていきた。


 そんなりさちゃんが今日、めでたく里親の元へ引き取られることになった。里親となる人たちは、沙耶太も見たことがあるが、優しそうなご夫婦だった。だから、りさちゃんとはここでバイバイするのが一番幸せな道なんだ。そう思っても、身体は正直で、悲しい悲しいと涙が身体中から溢れてくる。


「ひっく…ふ、」

「さあくん、いままでありがとう…さあくんが"幸せなひつじ"さんになれるように、りさもお願いしてるね」


 りさちゃんも瞳を潤ませているが、後ろにいるご両親を心配させないように、必死にこらえているのが分かる。


「う"ん…!また、会おうね!絶対だよ」

「うん!絶対!」


 そうして、りさちゃんは車に乗り込み、去っていった。涙が止まらない僕は、一人で園内の遊戯室に行き、りさちゃんと一緒に何度も読んだ絵本を取り出す。


 端がくたびれたその絵本の表紙には『幸せな二匹~オメガひつじとオオカミアルファ~』と書かれている。


 ひっくひっくと喉をならしながら、りさちゃんと何度も読んだ絵本のページを捲る。


 この絵本は、弱虫のオメガひつじが、たった一人の運命の人を探して旅に出るお話で、運命の番であるアルファおおかみと出会うもののいろいろな障害があり、それを乗り越えて2匹が結ばれるというものだった。


 感動のクライマックスは、やはり2匹が番になる瞬間で、おおかみがひつじにキスをすると、2匹の間には目には見えない固い絆が生まれ、それから2匹は死ぬまでずっと離れず暮らしたということだった。


 沙耶太は自分がオメガだと分かってから、この物語のひつじみたいに運命の番とキスをして、一生一緒にいることを夢見ている。


『ねえ、オオカミさん、私と番になってくれる?』

『もちろんだとも。さあ、キスをしよう。君と僕がずっと離れないように』


 寂しがりやの沙耶太は、それからというもの、施設から出て行く子どもを見送るたび、この絵本を捲り、運命の番とキスをする瞬間を心待ちにするようになるのだった。


 ◯ ◯ ◯


「君が沙耶太くん?」


 そうして運命の番とのキスを夢見ながら、沙耶太は16歳になった。


「はい…」


 今目の前にいるのは、見るからに仕立ての良いスーツにモデルのような長身を包んだ美形の男だった。


 沙耶太がやってきてからずっと変わらないボロボロのソファがあるナナイロの応接室に行くと、これまで見たことがないような毛並がよい人間がいた。


 目の前の男性は、"この前"と違い、柔らかな雰囲気を纏わせていた。セットされた柔らかそうな明るいミルクティー色の髪は、彼の整った見た目をことさら明るくしていたし、渋みのあるブラウンのスーツはコットン生地なのか、ふんわりとした印象を与える。


 児童はめったに入らない応接室に呼ばれた理由は、先日ナナイロにやって来たこの男性が「沙耶太を養子にしたい」と言ったからと園長から聞いた。


「私の名前は徳寺勝之。君と話したいと思って、園長先生にこの場を設けてもらったんだ」


 とくでらかつゆきと口の中で名前を転がしてみる。


 あの時見かけただけなのに、篤志家は何を考えるか分からないなあと思った。


 ◯ ◯ ◯


 実は、沙耶太が勝之を見かけたのは、1ヶ月前に遡る。


 いつになく園内が慌ただしく、職員の人たちがソワソワしていた。「どうしたの?」と園長に聞くと、「昔からうちの園に寄付をしてくださっている方がいらっしゃるのよ。いい子にしていてね」と言われた。


 園長の顔に走った不安の表情を見て、なんとなく予想がついた。その"寄付をしてくださっている方"がやってきて、園の状況次第で寄付を打ち切ろうとしているのだろう。


 実は、最近の不況の煽りをうけて、ナナイロの経営状況が非常に厳しいと職員さんが話していたのを立ち聞きしてしまった。ナナイロは職員数はギリギリ、生活必需品もなるべく節約して、運営していた。


 そんな状況を見て、沙耶太は中学を卒業してすぐ働くつもりだったのだが、園長が「高校は行っておきなさい」と言われ、近くの公立高校に通うことになったのだった。


 加えて、自分はオメガであるため、将来何かトラブルを起こしそうだからという理由で、里親が見つからなかった。


 幸いなことにまだ発情期は来ていないので、抑制剤などの費用はかかっていないものの、自分が金食い虫であることはいつも気にかかっていた。もし自分に発情期が来たら、抑制剤や病院代などで、ナナイロの経営は破綻するかも知れない。


 そんなギリギリの状態でやっていっているナナイロなので、これ以上資金がなくなってしまっては、これからも運営していくことは厳しくなるだろう。


「いらっしゃったわ」


 園長の声が固くなり、その人の往訪を告げた。園長は出迎えるために1階へ降りていってしまう。ふと窓の外を見ると、園の門の横に長い車が停まっていた。


 変な形の車だなあと思っていると、後部座席のドアが開き、キラキラとした男性が出てきた。キラキラしているのは、ミルクティー色の髪に陽の光が反射しているからのようだ。


 背広を片手に持ち、もう片方の片手でA4の分厚い資料のようなものを持っている。


 キラキラの見た目とは反対に、本人は手に持った資料から目を離さない。忙しなく左右に動く目と眉間に皺を寄せた顔からはとても忙しい、早く面倒なことは済ませたいという風な様子だ。


 沙耶太はその男性が今日のキーパーソンだとなんとなくピンときた。そして、なんとなく嫌な方に向かいそうだとも。


(援助が打ち切られたら、自分は学校を辞めて働こう。少しでも園長を楽にするんだ。)


 ナナイロは自分にとって我が家も同然。そう決意するのは自然なことだった。


 そう思いながら、門をくぐり、園に向かってくる男性をぼんやりと見つめていた。その瞬間、なんの気まぐれか、資料を物凄いスピードで読んでいた男性がふと視線をあげ、2階の窓脇に佇んでいた沙耶太と目があった。


 突然視線があったことに驚き、沙耶太は思わずその視線から隠れるようにしゃがんで隠れてしまった。


 しゃがむ直前、男性の目が驚いたように少しだけ見張られたのは気のせいだろう。


 園長に失礼なことはしないようにと言われたのにまずいと思いながらも、また顔を出す勇気はなく、そのまま顔を膝に埋めていたのだった。


 ◯ ◯ ◯


 というようなことがあったのが、約1ヶ月前のことだ。


 1ヶ月前のあの日、てっきり援助は打ち切られて、自分は働くことになるのだとばかり思っていたが、なんと援助がいままでの約5倍に増額されて、今のナナイロは資金的に余裕があるようになった。


 その多額の援助をしてくれているのが、目の前に座る男性、徳寺さんだ。


 徳寺さんは世界的大企業と言われる徳寺商事の社長さんであり、おじいさんの代からこのナナイロに多額の寄付をしてくれているのだという。


 徳寺さんは若干29歳ながら優れた経営者であるらしい。おじいさんの代からこのナナイロに多額の寄付をしてくれているのだという。


 そして、奇特なことに、僕を養子にしたいと言っているそうだ。


 一瞬目があっただけなのに、養護施設にこんな大きい子どもがいるなんて可哀想だとでも思ったのだろうか。


 それとも、他の目的があるのかな…?と訝しく思う。多分、徳寺さんはアルファだろう。見るからに人生の勝者という感じがする。僕はまだ発情期が来ていないため、フェロモンは分からないから、確実なことは分からない。


「僕を養子にしたいというお話ですよね…?」

「そう。私は是非ともと思っているけれど、君の一生に関わることだからね。お互いのことを知る時間を設けてもらったんだ」


 そう話す徳寺さんは、まさに器の大きい篤志家というような雰囲気で、養子になるかならないかは僕の返事次第という雰囲気だった。


 ……まあ、これだけ大きな金額を寄付してくれている人から言われてしまえば、断る余地などないのだけど。


 この場を設けてもらう前に、園長からは「徳寺さんは決して変な人ではないから、沙耶太が養子になりたいなら、背中を押すわ。…けれど、決して"園のために"なんて考えて決めるのはやめてちょうだい」と言われている。けれど、目の前にいる人がナナイロの支援をやめると言えば、園はつぶれて子ども達は路頭に迷うかもしれない。僕に拒否権はないようなものだった。


「沙耶太くんは、いま高校生?部活は入ってるの?」


 僕の気も知らずに、出されたお茶(徳寺さんがいつも飲んでいるものとは比べものにならない廉価なものだろう)を飲みながら、話しかけてくれる。


「はい。園から近いX高校に通っています。部活は入っていません。その、毎日アルバイトをしています」

「アルバイト…?」


 ナナイロでは建前上は職場見学という名目で、近くの工場でアルバイトをしている子が多く、僕もそうしていた。少しでもお金を稼いで、園にいれたいからだ。


 けれど、それはあくまでも"職場見学"なので、僕の履歴書などには記載されない。徳寺さんの耳にも入っていなかったようで、少し訝しげな顔をされた。


「は、はい。うちの園で提携している工事があるので、時々働いているんです…」

「近くにアルファはいないの?」


 徳寺さんの雰囲気がいきなりガラリと変わり、剣呑なものになる。なぜかは分からないが、何か気に触ることを言ってしまったのかもしれない。サッと顔を青ざめさせる僕を見て、徳寺さんは慌てたように付け加えた。


「いや、君はオメガだと聞いたから、危なくないのかと思って。まだ発情期が来ていないのは知っているけれど、万が一そのアルバイト先とやらで来てしまったらと思ってね。…あと、その、気が早い話だが、私が心配すぎて堪らないからアルバイトは辞めてないか」

「えっと、アルファがこんな小さな中小企業の工事でなんて働いてません。普通の公立高校なので高校にもいません。いまのところオメガも僕ひとりです。…辞めるのは少し考えさせてください。園にもお金を入れたいので」


 慌てたようにいう徳寺さんに、遠慮がちに伝える。僕の答えを聞いて、徳寺さんはほっとしたように微笑んだ。


「そう聞いて安心したよ。アルバイトの話はこれから相談しよう。あと、バース性の話はあまり公然と話す内容ではないからね。いきなり聞いて悪かった」

「いえ、じゃあ僕も聞きたいことがあるんです」


 元々寂しがりやな僕は他人と話すのも好きだった。徳寺さんの雰囲気は僕の警戒心を特には十分柔らかく、僕はすっかり口を緩めていろいろなことを話始めたのだった。


 ◯ ◯ ◯

 

 そうして、いま僕はこれまで見たことがないような高いマンションの最上階にあるモデルルームと見紛うほどの綺麗な部屋に、園から持ってきたボロボロのボストンバッグを肩にかけて座っていた。


 リビングにあるL字型のソファはふわふわで、お尻がまったりと包まれる。座っただけで分かる高級さだ。


「今日からここが沙耶太くんの家だよ」

「は、はい。おとうさん」


 初めての場所にドギマギする僕に、おとうさんはふわりと笑いかけてくれる。


 初めておとうさんが園に来てくれたとき、僕たちは思いのほか話が弾み、気づけば2時間ほど話してしまっていた。園長が様子を見にこなければ、もっと話していたことだろう。


 その時点でもちろん僕の心は決まっていたのだけど、養子縁組手続きが完了するまで1ヶ月ほどかかるとのことで、おとうさんはそれから2~3日に一度のペースで会いに来てくれた。


 来れる日がたまたま土曜日に被った日は、おとうさんがドライブに誘ってくれた。これまで車といえば、園での遠足の時に乗るバスくらいだったので、珍しくてキョロキョロしてしまった。


 ドライブの行き先は、海の近くにあるカフェで、注文したモンブランがとても美味しかったのを覚えている。


 そこでも色々な話をしたのだが、一つだけ意見が割れたのがおとうさんの呼び方だった。


「えっ、徳寺さんじゃダメですか?」

「もう少しで沙耶太くんも徳寺になるんだがら変だろう」

「うーん。それじゃあ…」


 徳寺さんは、今年29歳と言っていた。そんな歳上の人を下の名前で呼ぶのはなんだか気がひける。


「おとうさん、とか?」


 モンブランをもぐもぐ食べながら、おとうさんにそう言った途端、おとうさんはピシリと固まってしまった。


 その様子に(まずかったかな)と思うが、おとうさんは少し顔を赤くして「いや、今の関係性的に正しいんだけど、変な扉が開きそう…」と言っていた。


 それから「下の名前でもいいんだよ?」と言われたが、なんとなくおとうさんが口にしっくりきたので、そのまま使っている。


 そうして、おとうさんのマンションに引っ越した後すぐ、オメガの子たちが集まる私立高校に転校することになった。


 通っていた高校に特別仲の良い友達がいたわけでもなかったし(僕の交友関係はナナイロの中で完結している)、別に高校はどこでもよかったのだけど、そのオメガ専門の高校は学費が高額なことで有名だった。


 「発情期も来てないのにオメガ専門高校なんて」と一度は遠慮したのだが、「いいからいいから」と言って、おとうさんが半ば無理やりに転校手続きをしてしまった。


 そしてその高校は通ってみると意外と居心地がよかった。まだ発情期が来ていない僕はみんなの末っ子ポジションとなった。オメガはどちらかというと庇護対象となることが多いため、同級生たちはみんな自分の"何かを可愛がりたい欲"は発散できる先を探していたのだ。寂しがりで構われたい僕としてはこの上ない環境だった。


 でも、16歳にもなって、発情期が来ないケースは同級生にもいないほどレア中のレアで、一度おとうさんと専門病院に行った。


 そこで分かったのは、僕のオメガ遺伝子は現時点では上手く繋がっていない部分があるらしい。らしいというのは、先生とお父さんの会話が専門用語すぎて断片的にしか聞き取れなかったからだ。


 先生が言うには、僕のオメガ遺伝子を繋げるにはアルファの発情期フェロモンを受ける必要があるのだそうだ。


 僕と同じような遺伝子が繋がっていないケースは稀にあるそうなのだが、みんな街中でアルファのフェロモンをたまたま嗅いだりして、知らず知らずのうちにに解消されているのだと言う。(アルファのフェロモンは自分に向けられたものでなくてもよいらしい。)


 つまり、僕はまだアルファのフェロモンを受けたことが嗅いだことがないと言うことになる。確かに環境的にアルファが身近にいたことがないし、ずっと高校とアルバイト先の往復だったしなあと考えていた。


「あ、じゃあ、この病院でアルファのフェロモンを嗅がせてもらうことって出来ますか?」


 先生の話を聞いて、思いつきで先生に質問してみる。学校の友達曰く、発情期はしんどいものらしいので、発情期を起こしたいわけではなかったが、今日のようにおとうさんの時間とお金を使ってまで面倒を見てもらうのはとても心苦しい。


「だめだよ」


 先生の返事を待たずに、おとうさんが答える。短い言葉の中にわずかな怒りを感じて、僕は押し黙ってしまう。僕のそんな様子に気がつき、おとうさんはぱっと雰囲気を変えて誤魔化すように微笑む。


「無理やり嗅がせてどうなるか分からないし、自然の成り行きに任せた方がいいんじゃないかな」


 いま僕はオメガ専門高校に通っているし、アルバイトもしていない。登下校はなぜかおとうさんの送り迎えつきなので、このままいったら一生アルファのフェロモンを嗅ぐことはなさそうなのだけれど。


 おとうさんの言うことは少し無理があると思ったが、わがままを言える立場ではないので、「そうだね」と賛同しておいた。


 ◯ ◯ ◯


 病院の帰り道、おとうさんの近くのカフェに入り、ケーキを食べることになった。おとうさんは美味しいカフェをたくさん知っている。


「沙耶太は、早く発情期を起こしたいのかい?」

「えっ」

「…いや、病院でアルファのフェロモンを嗅ぎたいなんて言うから、驚いてね」

「うーん。発情期を起こしたいって訳じゃないんだけど」

「だけど?」


 優しく尋ねられて、思わず口が緩んでしまう。


「……ぼく、ずっとアルファと運命の番になるのを憧れているんだ」


 おずおずと温かい紅茶のカップを両手で持ちながら言うと、おとうさんの空気がなんとなく膨れ上がり、瞳孔が開き気味になっている。


「……それはどういうことか教えてくれる?好きになったアルファがいるってこと?」

「う、ううん!そうじゃなくて」


 慌てて否定して、僕が大好きな『幸せな二匹』の絵本の話をする。


「……というわけで、二匹は最後にキスをして番になって、ずっと一緒にいるのが羨ましいなあって」

「……そうか」


 理由を聞いたおとうさんは、なぜか嬉しそうに微笑んで、「参考にするよ」と言った。何を参考にするんだろう。もしかしておとうさんは番が決まっているんだろうか。


 そう思って、チクリと痛んだ心に僕自身がびっくりしていた。


 そうして、時は流れて、僕は大学生になった。


 僕はおとうさんの養子になっても、高校を卒業したら働くと思っていたのだけど、おとうさんが「大学は行った方がいい」と言ってくれたのだ。


 僕はそう言ってもらえるのならと、ダメ元で大学受験をすることにした。受験したのは、中堅より少し下の大学で、小規模かつ教授との距離の近さで有名な大学だった。


 後から知ったのだが、その大学はおとうさんの私的な財団である徳寺財団が多額の出資をしているところだのだと言う。


 学部は教育学部にして、見事合格できた。僕も教育には興味があったのでとても嬉しく、合格した日はおとうさんとお祝いをした。ゆくゆくは教員資格をとりたいと思っている。


 そして大学に入ってからも、僕はまだアルファのフェロモンを嗅いだことがなく、発情期は来ていなかった。


 大学に入ったら一人くらいアルファがいて、その人の近くを通れば勝手に発情期に入るだろうと楽観的に考えていたのがいけなかったらしい。


「むー…」

「沙耶太?」


 いまはおとうさんに抱き込まれる形で、最近話題の恋愛映画を見ている途中だったのに、俺が変な声をあげたせいで、おとうさんが俺を上から覗き込んでくる。


 その心配げな眼差しに、俺の心はとくりと跳ねて、またこの人の時間を独占できていることに歪な独占欲が満たされるのを感じた。


「この映画、嫌い?」

「ううん……。好きだよ」


 好きだよの部分をお父さんの目を見ながら言えば、「そう。よかった」と目尻を下げて笑ってくれる。


 その顔を見て、おとうさんの番になりたいなあと今まで何度も思っては消えていった思いが浮かぶ。


 僕は高校生の時から少しずつ少しずつおとうさんのことが好きになってしまっていた。おとうさんはときどき頬やおでこにキスをしたり、寝る時は僕を抱きしめてくれる。


 僕はスキンシップが好きなので嬉しかったし、こんなかっこよくて優しい人を好きにならない方がおかしい。


 でも、おとうさんが僕を引き取ったのは、里親が見つからず売れ残りみたいに養護施設にいた僕をかわいそうに思ってのことだから、僕の気持ちは迷惑だと思う。


 だから、どうせオメガになるのなら、おとうさんのフェロモンを嗅いでなりたいと思っても、僕から言い出すことはできなかった。


 それにおとうさんも今年で31歳になる。そろそろ番を作る頃かもしれない。そうなったら、僕はこのマンションから出ていくか、その番さんとおとうさんと一緒に暮らすか、どちらかだろう。


 番さんとおとうさんがラブラブしているところなんて見たくないなあ。それはファザコンじゃなくて、僕が恋愛的な意味でおとうさんを好きだから。


 目の前の恋愛映画の内容なんて頭に入ってこなくて、ただただこの温もりが自分のものになったらいいのにと思いながら、少し伸びをしておとうさんの首筋にくんくんと鼻をうずめる。


 おとうさんは「くすぐったいよ」と言って、僕の頭を抑える。


 首筋からはいつものおとうさんのフレグランスが香ってきたが、フェロモンはよく分からない。僕はその事実に「はあ……」と切なげにため息を吐いた。おとうさんが熱の籠った目で僕をこっそり見つめていたのも知らずに。


 ◯ ◯ ◯


「さあくん?」

「え?」


 そうして大学に来て、次の授業へ移動していたところ、懐かしい呼び名が聞こえた。ぱっと声がした方を向くと、大人しそうなロングヘアの女性がこちらを見ていた。


「やっぱりさあくんだよね!ナナイロの。私だよ。りさ!」

「え?りさちゃん?この大学に通ってたの?」


 僕を呼び止めたのは、すっかり大人っぽく成長したりさちゃんだった。嬉しくて舞い上がる僕たちは、連絡先を交換して、お互いの授業が終わったらカフェテリアで待ち合わせしようと言って、その場を離れた。


「さあくん。すごく綺麗になったね」

「そんな…りさちゃんこそすごく可愛いよ」

「ふふ。ありがと」


 そうしてその日の授業終わり、りさちゃんとカフェテリアで向かい合ってコーヒーを飲んでいる。


 元々ナナイロにいたときはお姉ちゃんと慕っていたので、再会できた喜びと相まって僕の口は緩くなっていくのを止められない。


「……と言うわけで、いまのおとうさんに引き取られたわけなんだけど、おとうさんに番ができたら、家を出ていきたいんだよね」


 そうして、誰にも言えなかったけれど誰かに聞いて欲しかった悩みを打ち明けてしまった。


「そう…じゃあ、私のお父さんが最近マンションを作ったの。もしよかったらそこに住む?いまちょうどチラシも持ってるの。作るように言われて」


 りさちゃんは文学部の美術専攻で、デザインなどが好きらしい。そういえば、ナナイロでも楽しそうにお絵描きしていた。りさちゃんは、本当にたまたま持っていた綺麗なマンションのチラシをくれた。


 チラシには"1LDKでカップルにも最適"と書かれてあり、「費用も嵩むしそんなに広くなくていいんだけど」と言ったら、「ワンルームもあるよ」と言われた。


 そうしてなんやかんやで、一度内覧をする約束を取り付けて、りさちゃんとは別れた。


 別れ際、「そのおとうさんとやらに怒られたら、私に言いなさいよ」とすっかりお姉ちゃんの様子のりさちゃんを見て、おかしくなってしまったのは内緒だ。


  ◯ ◯ ◯


 そうして、カフェテリアから出て、まだおとうさんが迎えに来るには早い時間なので、どこかで時間を潰そうと場所を探していると、すごい力で肩を掴まれて驚いて後ろを振り向く。そこには、真剣な顔をしたおとうさんが立っていた。


「あれ?おとうさん、はや」

「沙耶太。あの子は誰?」

「え?」

「僕も入学する子は全員見てるけど、大学では万が一アルファもいるかもしれないから、誰とも仲良くならないようにって言ったよね」

「えっ…と」


 「かったね」を言う前に、怒涛の勢いで捲し立てられて、言葉に詰まる。そういえば、おとうさんがナナイロに来たのはりさちゃんが去ってからなので会ったことがない。


「この資料も。僕のマンションから出ていく気?」


 そうして手に持っていたマンションのチラシを奪われる。"1LDKでカップルにも最適"の文字を見て、おとうさんの目が不機嫌そうにすがめられ、そんなに不機嫌なおとうさんを見た子がなかった僕は言葉に詰まってしまう。


 もしかして、僕、おとうさんに番が出来る前に捨てられる?


 そう思うとじんわり涙が湧いてきてしまい、目をぱちぱちして必死に止める。おとうさんはそんな僕の様子を見て、少し苦しそうに言う。


「…沙耶太はあの子が好きなのかい?」

「え?」

「でも、ごめんね。あの子には沙耶太を幸せにできない。…二十歳になるまで待つつもりだったけど、僕の番にするから」


◯ ◯ ◯


 そう言われて、手を引かれ、車に乗り込み、マンションに戻ってきた。玄関に入った途端、熱い空気に包まれて、僕の身体のどこかがカチリとハマった音がした。


「……え?ん、あつい……」

「僕のフェロモンをぶつけてるからね。もうじき、発情期がくるよ。…もうきちゃったかな」


 確信犯のように微笑むおとうさんは、立っていられなくなった僕を横抱きにして、ベッドルームへ足を運ぶ。甘いチョコレートのような香りに頭がクラクラする。


「ああ……。沙耶太のフェロモンも香ってきたね。運命の番のフェロモンはやっぱり違うな」

「え?、んあ」


 よく聞き取れなくなってきた僕の耳に優しくも雄の欲に塗れた声が入り込んできた。


「これからいっぱいセックスして、僕の赤ちゃんを産んで?沙耶太」


 ◯ ◯ ◯


「ひっ!!んんんっ!んっ!…あー!!

「ああ…沙耶太、ここがイイんだね」

「いやぁっ!…とまっ、てっ!そこ、やっ!おと、さ、あぅっ!」


 おとうさんの剛直がパチュパチュと俺のナカを突く。ナカのしこりを抉るように動かされて、俺はビクビクと身体を跳ねさせる。


 おとうさんは正常位で俺を抱き潰すように俺の顔の両脇に肘をついている。僕はおとうさんから与えられる快楽から逃げようと、必死に首謀者であるおとうさんの分厚い背中にしがみつく。


 そんな僕をおとうさんが思い切り揺さぶると、俺の体液が溢れているのと、おとうさんが何回もナカで出しているので、水っぽい音がベッドルームにこだまする。


「だめだよ。ずっとこうしたかったんだ。…ん、腰とまらない」

「ああぁっ!やっ、な、んっ、なんか、く、る…っきちゃ…っ!!!」


 ビクビクと引き攣る後孔の刺激に耐えきれなくなったようにおとうさんがまたナカで熱いものを弾けさせる。お腹がタプタプしそうだなんて惚けた思考をしながら、ずっとこうしていたいと思う。


「沙耶太、少し横を向いて」

「ん、あっ、んん、もおだめ、おとうさん、」


 そうして、俺の顔を横に向けて、再度俺が甘く絶頂に向かいかけたとき、ガブリという音がして首筋に痺れが走る。


「…沙耶太、好きだよ。愛してる」

「ひゃ、っあああ!んっ…!!!!」


 甘い痺れに包まれながらもおとうさんは俺のナカで動き続けて、噛まれた痛みは気持ちよさで上塗りされていった。


 ◯ ◯ ◯


 そうして、何回交わったか分からないけれど、発情がおさまった僕は、泣きながらシーツにくるまっていた。


 おとうさんは、下だけズボンを履いた姿で僕の様子を窺っている。


「うっ、ふえ、おとう、さん、すき」

「僕も愛してるよ」

「うっぐす、うっえ」

「…りさちゃんとのこと、誤解してごめんね。でも、沙耶太はなんで泣いてるの?僕の番になるのは嫌?」


 発情期が終わり、おとうさんの告白を聞いた僕は、僕の気持ちも告白した。


 僕の告白を聞いておとうさんは嬉しそうにしていたものの、泣き止まない僕を見て、心配そうにこちらを伺っていた。


 僕が泣き止まない理由、それは…


「…だって、キスしてくれなかったもん~~~」


 「おとうさんのばかあ!番になる時にキスしたかったのに~~憧れだったのに~~~」とピエピエ泣く僕を見て、目を丸くしたおとうさんは、僕が丸まっているベッドに上がってきて、優しくシーツの中を覗き込んだ。


「ごめん。頭に血が上って、沙耶太が言っていた絵本のこと、忘れてた」


 そうして、おとうさんの綺麗な顔が近づいてきたと思ったら、唇に柔らかな感覚が走る。


「沙耶太。これからも一生そばにいてくれる?」

「…はい。おとうさん、だいすき」


 鼻をピスピスさせながら、僕も答えると、愛しの番は更に大人のキスを仕掛けてきた。


fin.


終わりました!


みなさんご察しの通り、沙耶太の周りにアルファが一人もいなかったのは、勝之が金に物を言わせていたからです。


ちなみに、沙耶太の「おとうさん」呼びは段々と「勝之さん」になっていくのですが、ときどきベッドの上で「おとうさん」と呼ぶと勝之が少し興奮することを発見します。


あと、勝之とりさちゃんは、りさちゃんの義理姉ムーヴがすごくて、勝之がいびられます。2人は仲良くないです。


り「沙耶太、昔ナナイロにあったおもちゃの作者が今度個展をやるみたいだから、行かない?」

沙「えっ、ほんと?あのおもちゃ好きだったんだー。行く行く!」

勝「じゃあ、僕も…」

り「いえ、徳寺さんはおもちゃのこと分からないと思うので。沙耶太と私で行ってきます(来るな)」

勝「(ぐぬぬ…)」


本当にfin.


お読みいただき、ありがとうございました!

創作初期に書いたものなので、整っていないところもありますが、ご容赦ください……。


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