犯罪予防法施行後のセカイ

星河語

第1話

 ダンッ、と勢いよく立ち上がる音が響いた。


「異議あり!」


 しゅびっと姿勢良く手を上げて告げる女性。


「被告人は、少し表情を動かしただけです。それを犯罪と決めつけるのは、行き過ぎです…!」


 すると、もう一人別の男性が立ち上がる。眼鏡をかけていて、いかにも知的でクールな印象を与える。


「何も行き過ぎではありません。AIの分析により、被告人は被害者女性の胸に視線を向けた後、鼻の下を0.3ミリ伸ばしたと防犯カメラの映像分析によって判断されています。」

「たかが0.3ミリです! くしゃみしそうになっても、動きます。」

「いいえ、AIにヒトの表情を学習させて分析させた結果、くしゃみの表情筋の動かし方と明確に違いが出ました。」


 被告人の男性は、真っ赤になってうつむいていた。痴漢をしたわけではない。

 ただ、いかがわしい姿をした女性の姿を見てびっくりして、思わず大きな胸だな、と思ってしまっただけだ。それが、防犯カメラに映っていたその時の自分の表情を分析され、鼻の下を伸ばしたからという理由で、条例違反で罰金刑をくだされるとは夢にも思わなかった。


 男性を犯罪者にしたのは『犯罪予防法』という新しい法律だ。人々の表情をAIで分析し、犯罪を犯しそうな人をあらかじめ逮捕したり、罰金刑に処することができる法律だ。人権に反するということで、大規模な反対運動が起きたが、結局施行されてしまった。


 男性はその法律が施行されて間もなくの、違反者の一人ということで注目されていた。しかも、視姦罪という罪で。

 あまりにも理不尽で、しかも罰金が二百万の上、被害女性にも和解金として三百万を支払うようにと命じられ、弁護士を雇って戦っているが……、あまりにも恥ずかしい。穴があったら入りたいほどだ。


 それだけではない。世間の風当たりも強い。ただ、女性の方を見ただけなのに、痴漢か何かしたかのような犯罪者扱いをされている。


「被害女性は精神に傷を負いました。」


 男性の方が精神が参っている。最近、何も感じないし、もうどうでもいいや、と投げやりな気分になっていた。姉に話すと心療内科に連れて行かれ、うつ病と診断された。


「だったら、あんな格好しなきゃいいでしょうが…!」


 思わず弁護人の女性が怒鳴ってしまう。しん、と静まり返った法廷に、間延びした声が響いた。


「すぅみませーん。わたしぃのぉ、趣味なんですぅ。」


 すぐに弁護士は咳払いして謝罪した。


「今のは申し訳ありません。ですが、体を覆う布がほとんどない、乳房や臀部でんぶがほとんど丸見えの水着だけの状態で町を出歩くのは、公衆わいせつ罪に当たります。」


 すると、訴えている水着女性の弁護人がすっと立ち上がった。


「どうやら、法律を理解されていないようです。犯罪予防法では視線や言葉でわいせつな言動をした場合も含まれます。確かに被告人は鼻の下を伸ばしたのです。当然、犯罪予防法の処罰の対象となります。」

「話をすり替えないでください。被害女性のAさんは服を着ている状態とは言いがたい姿でした。現に多くの人が非常識な姿に振り返って、Aさんの姿を確かめています。それなのに、被告人だけが罰金刑を受けるのは、不公平です。」


 被告人の弁護人に正論をただされ、言葉に詰まる水着女性Aの弁護人。当の水着女性Aは今日も目のやり場に困る服装をしていた。一応、裁判だということで、上着を着ているのだが、真っ黒なビキニの上にスケスケの真っ白い上着なので丸見えだった。

 さらに、その状態で服の裾を引っ張って伸ばしたりしたものだから、胸のボタンが取れて、はらり、と胸の谷間があらわになる。思わずといった体で法廷内が騒がしくなった。


「静粛に!」


 裁判官が静かにさせた。

 だが、誰もが思っていた。なぜ、こんな馬鹿馬鹿しい裁判が真面目くさって行われているのか。なぜ、この騒動の原因である女性が何も言われないのか。


 犯罪予防法が出来てから、少しでも女性を見てから表情を変えると、わいせつな視線で女性を見たことになり、罰金刑をくらってしまう。ゆくゆくは禁固刑にまでなると言われており、多くの女性からも疑問の声が上がっている。


 この法律が制定されてから、公衆の面前で大胆な服装をする女性が現れ始め、そんな格好をするのはどうなのか、と疑問を呈した人達が罰金刑をくらう事態が続いていた。


 何のために、こんな馬鹿げた法律を制定したのか、政治家は何をやっているのかと非難囂々ごうごうである。外国で続けて制定されているので、外国にしろと言われた圧力だろうと、国民はあきらめている。


「とにかく、AIで分析しなくては分からないほどの表情の変化だったのに、どうして被告人が鼻の下を伸ばしたと分かったのでしょうか? 先ほども指摘しましたが、多くの人がAさんを見たのにもかかわらず、被告人だけが罪に該当するのはおかしいのではないでしょうか?」

「大勢の人の視線に戸惑ったと訴えています。そして、特に被告人が表情を変えたのを目撃されています。逆に言えば、小さな表情の変化も人間は見つけることができるということです。」


 この変な裁判は結局、被告人の敗訴で決まった。なぜなら、政府はこの犯罪予防法を今さら取り下げるつもりはなく、圧力がかかったからだと噂された。人権団体が抗議を行い、大規模なデモも行われたが無駄に終わった。




 どうせ、正義なんてないんだと多くの人はあきらめた。


 そして、表情を変えない生活を強いられ、自然と外に出る機会も減った。バーチャル世界にのめり込み、その世界だけで生活するようになった。


 最初は遊びから始まったが、仕事もバーチャル世界で済むようになり、生活の全てがバーチャル世界になっていく。スーパーやコンビニは減り続け、直接顔を合わせるサービス業が軒並み消えていった。


 バーチャルな世界の方が景色も綺麗だし、その場で遊んでいる雰囲気を味わえるのだ。世界旅行だってできるし、家にいながらサーフィンだってできる。外国の料理を味わった気分になれるし、本当に川下りをしている感覚を味わったり、緑の山を散策する気分にもなれる。その場に合わせて、マイナスイオンも噴出される装置がバーチャル眼鏡に付属しており、余計に臨場感が増すように設計されている。


 こうして、人々は家にだけいる生活になった。バーチャル世界では立体眼鏡をかけながら、本当に体を動かすので意外に運動不足にはならない。実際に体を動かすことで、より実体験に近いバーチャル世界を堪能できるのだ。

 仕事も恋も結婚も、全てがバーチャルで行われる。

 人々はバーチャルな世界で羽を伸ばして暮らしている。


 こうして、世界中の人々はバーチャルで暮らし始めた。そして、増え続けていた人口は下り坂になっていく。




 某国某地方の豪邸。


「ふははは。世界中の愚民どもめ。これで今まで使われていた貨幣から、自然と仮想通過に全ての国でほぼ同時に切り替えることができた。」


 ある金持ちが高笑いをしていた。世界を金で支配している。そのため、限界を迎えていた社会を無理矢理変えたのだ。そのままでは、自分達の持っている貨幣が紙くずと化す可能性があったからである。


「ま……、これも、社会のため、地球のためでもあるぞ。」


 一人、酒を飲みながら満足げにうそぶく。


「……あぁ、仕事をしないと行けない時間か。」


 彼は呟くと立ち上がり、飲みかけのグラスを置いて仕事部屋に向かった。そこには豪勢なリラックスチェアがあり、立派なVR眼鏡がある。

 あまりにも徹底してバーチャル世界を推進しため、自分もバーチャルでないと仕事が出来ず大好きな金儲けもできない。


 金持ちは鼻歌を歌いながら、のびのびと金儲けを進める。バーチャル世界で有名企業を今日も買収した。

 仕事も無事に終わり、どこかに出かけようと旅行に行くことにした。本当に着ることができない服に大枚を使い、着飾っていく。

 こうして、気づけば何時間か経っている。バーチャル世界を旅したまま、眠っていることもしばしばだ。


 それを、冷たい目で見ている者がいた。金持ちの執事である。彼は信用されていて、大概のことは任されている。


 すっかり、多くの人々は忘れてしまったが、彼は物理的な財産をしっかり持っていた。金やプラチナをはじめ、銀食器や絵画なども執事は自分の資産として持っている。

 さらに、最近の主人は物理的な資産のことを忘れがちになっているため、勝手に自分名義にしたりしていた。できる執事は、主人に見つかった時もきっちり言い訳を考えてあるから抜かりない。


 彼の資産のほとんどは、主人がいらんと捨てた物ばかりだ。それが、しばらく前までならば美術館に飾られていたような物でさえも、バーチャルが行き過ぎた世界では無用になってしまった。


 それをちゃっかり横取りしたのだ。

 主人の生活のほとんどは、バーチャルな世界で事足りる。

 だから、物理的なことのほとんどがいらなくなっている。

 だが、彼らは忘れているのだ。


 電気が止まれば、全てが終わることを。


 バーチャルの世界に飛び立っていった主人を横目に、執事は主人がいらないと言った母屋の豪勢な部屋でゆっくりと羽を伸ばし、昔は高級品として取引されていたワインを飲んだのだった。

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