父になったあの日
浅野エミイ
父になったあの日
深夜、寝室からこっそり抜け出すと、私はこっそりと買っておいた緑のたぬきにお湯を入れた。
あのときは初夏にしては肌寒い日。妻のお産が長引いていて、私は気が気じゃなかった。
立ち合い出産もまだメジャーじゃなかったあの頃。病院の待合室でそのときを待っていたが、なかなか娘は出てきてくれない。職場からそのまま直行して来たからスーツのまま夜を過ごしたが、朝方になってもまだ生まれない。そわそわしていたところを、往来の看護師さんが心配そうに声をかけてくれた。
「心配しなくても大丈夫ですよ」
「でも……」
「あ、そうだ。広瀬さん。ご飯食べましたか?」
「食べられるわけないでしょ、こんなときに!」
「こんなときだからこそ、食べておいてくださいよ。生まれたあとのほうが忙しいんですから」
こんなときだからこそ、か。確かに言われてみたら。気が気じゃないというのは、食事を摂っていないせいもあるかもしれない。私は速足で一度、病院を出ると、コンビニへ向かった。
すぐ食べられるおにぎりかサンドイッチを、と思ったのだが、ちょうど食品廃棄の時間と重なってしまって、おにぎりもサンドイッチもなかった。どうしよう。仕方ない、カップ麺にするか。
もう暦の上では夏なのに、今日は冷える。温かいものを食べろという神の啓示だったのかもしれない。私は、咄嗟に緑のたぬきを手に取り、レジでお金を払うと、置いてあったポットからお湯をいただいて車に向かった。
バタンと扉を閉めて、そばをすする。あぁ、そういえば昨日の昼もろくに食ってなかったなぁ。利尻昆布の効いただしが、空っぽだった胃を温めてくれる。感傷に浸っている場合じゃないな。早く食べないと。ともかくそばをかきこんで、また分娩室前に戻ると――。
「広瀬さん、生まれましたよ。女の子です」
「え?」
そばを食べている間に生まれた娘、柚香。すべてが落ち着いたのは、その日の昼過ぎだったろうか。
「お父さん、何を食べてるんですか?」
寝ていたはずの妻が、そばを食べている私の横に来る。なんだ、抜け出したのはバレていたのか。
「……柚香の誕生日だな」
「ああ、だから……」
柚香は今、東京の大学に通っている。こっちに帰ってくるのは、今度の夏休みだろうか。
「『お誕生日、おめでとう』の連絡くらい、入れてあげたらどうですか?」
「お前からしてくれ。恥ずかしい」
「私からしてもいいですけど、毎年柚香の誕生日にこっそり緑のたぬきを食べていること、話しちゃいますよ?」
「……自分でする」
「ふふっ、お父さんったら」
私が毎年娘の誕生日を緑のたぬきで祝っていることは、妻と私だけの秘密なのだ――。
父になったあの日 浅野エミイ @e31_asano
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