第3怪 異世界
そのトイレは、第一校舎の最奥にあった。
迷路のように入り組んだ八雲学園の校舎で、最も人気がなく、そして寂れている、その男子トイレを、生徒たちは『異世界』と呼ぶ。
ぼくは今、その『異世界』の前にいた。
念の為、周囲を見回して、人がいないかをチェックする。
これから行うことは、人に見られるとマズい。そういう儀式なのだ。
「人は……いないな」
人がいないことを確認すると、手洗い所に行く。別に手が洗いたい訳ではない。
今から行う儀式には反射物が必要なのだ。
「えーと、呪文呪文と……」
ズボンのポケットから一枚の紙切れを取り出す。そして目の前の鏡を凝視する。
ぼくは呪文を唱え始めた。
「教えてください教えてください。愚かなわたしに教えてください。あれをそれをこれを、わたしは知りたいのです。お姿をお
ぼくが今行っているのは、ある妖怪を召喚する為の儀式だ。
その妖怪は『向こう側のナニカ』と言って、尋ねたことを何でも教えてくれるらしい。
学園でめっぽう評判の恐話だ。
もっとも決まり事を破るとただでは済まない。命を奪われてしまう危険性もある。
しばらくのあいだ呪文を唱え続けていると、鏡がぐにゃりと歪んだ気がした。
目の錯覚を感じ、両手でゴシゴシと目をこする。
「目が疲れてるのかな……」
そう言って、目をこすり終えると、再び鏡を見る。
「――んっ?」
するとそこには、奇っ怪なものが映っていた。
青色のぐにゅぐにゅしたスライム状のものが、ぼくの背後でざわざわと大きく蠢いている。
「うわぁぁああぁああああぁあああっ!!」
驚きのあまり尻餅を突く。
隠していたぼくのビビり癖が表に出てしまった。
ビクビクしながら、実際に背後を振り返ってみる。
「……あれ?」
背後には何もいなかった。どうやら噂通り、反射物の中にだけ存在するようだ。
もしかしてこの得体の知れない物体がナニカ様!?
背筋に嫌な汗をかく。
「……余を呼んだのは貴様か?」
どぎまぎしていると、ナニカ様の声が頭の中に響き出した。落ち着きを取り戻し、立ち上がる。
「はっ、はははい!」
「余に何用だ? 申してみよ」
ナニカ様は不遜な態度でぼくに尋ねる。訊いたことを何でも教えてくれるというだけあって、何だか偉そうだ。
少々不愉快な気分になる。
「……年真先輩の居場所を教えてください」
不愉快な気分になりながらも訊くことは訊いておく。
いい度胸をしていると思われるかもしれないけど、内心はビクビクだ。体全体に冷たい汗をだらだらとかいている。
「年真歌音の居場所は図書室だ」
「ありがとうございます! それとぼくの妹の――!」
ナニカ様に再び教えを請おうとした時、問題は起きた。
「……お前、一人で何喋ってんだ?」
「――えっ!?」
気付くとぼくの横には友人がいた。友人は呆れた顔をして、ぼくを見ている。
「妹がいなくなって辛いのは分かるけど、トイレで独り言を言うぐらいならオレに相談しろよ……」
「い、いや、その……」
マズい!
ナニカ様と会う上での決まり事を破ってしまった!
ナニカ様との決まり事とは、ナニカ様との会話中は誰にも見られてはならないということだ。
それを破ってしまった者は――!
ぼくは顔から滝のような汗を垂らす。鏡に映っていたナニカ様を見ると、そこには――赤色のスライムが激しい波を打ち、何かに変化しようとしていた。ぐにゅぐにゅと気持ちの悪い見た目から、少しずつ人型へと姿を変えて行く。
「きさまぁあぁぁ……! 余との会話を……他者に見られたなあぁあああっ!」
ナニカ様の怒りのこもった声が頭の中でガンガンと響く。
「――っ痛ぅぅう!!」
「余との決まりごとが守れぬ者は……死あるのみぃぃいぃ!」
ナニカ様の腕がぐにゅりと変化する。それはサーベルのような形になった。
「貴様の命を頂くぞぉおぉおおおおおぉ!」
サーベルは鏡の中で、ぼくの顔を目掛けて、横一閃に振り抜かれた。危険を感じ、間一髪床に転がる。ナニカ様の一閃を躱す事に成功した。そして、床を見て、ぞわりとする。毛髪が落ちているということは、鏡の中で斬られたものは、鏡の外でも同じ事になるらしい。ぼくが感じた危険は間違いなかった。
「お、おい……。何やってんだよ、お前……?」
友人が怪訝な顔をして、ぼくに尋ねてくる。それを無視して男子トイレから逃げ出す。
「逃げられやせぬぞぉぉおぉ。貴様は余を怒らせたぁああぁぁ。死を持って償えぇぇぇ!」
男子トイレからどれだけ逃げても、ナニカ様の声が頭の中から離れることはなかった。
「クソッ! 殺されてたまるかッ!」
そもそも、ナニカ様との会話を誰かに見られたら殺されるって、意味が分からないよ!
反射物がないところへ逃げなければ……!
「――学園の外だ!」
外に行けば反射物からは一先ず逃れることが出来る。長い廊下を全速力で駆ける。放課後の為か生徒は見掛けない。
「それなのに何であの時だけいるんだよ……!」
隠し切れない苛立ちを口にし、チッと舌打ちをした。
「早く早く! 外へ――!」
駆け足で階段を降りる。しかし、滑るように降りたので、最後には転げ落ちてしまった。
「クソォオッ! こんな時に何をやってるんだ、ぼくは……!」
自分に対して腹を立てながら立ち上がる。
「――痛っ!」
階段から転げ落ちた衝撃で足首を痛めてしまったらしい。激痛で素早く動くことがままならない。
なんてことだ……!
しかもおあつらえ向きに、目の前には窓ガラスがあった。窓ガラスの中にはナニカ様がいて、ぼくの背後で、舐めるようにサーベルを頬擦りしている。
「ああぁあぅぁぁああぅあっ……!」
絶体絶命の状況に言葉が出ない。震える体を両手で押さえる。
「死にたくない死にたくない……! 死にたくないよぉ……!」
ぼくは涙を流し、足を引きずりながら、その場から逃れようと必死になる。
ナニカ様のサーベルが、無情にも、頭上に振り上げられる。
「ひぃいいぃいいっ!」
そして、勢いよく振り下ろされた――!
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