第1話 新しい扉
引っ越しの日、僕の胸はざわついていた。実家を離れるのは初めてだ。カバンに詰め込んだのは、少ない服とお気に入りのノート、そして古びたペン。どれも手放せない、僕の世界の一部だ。
車の窓から、流れる街並みを眺めた。何度も見たはずの風景が、まるで違う国のように見える。母が運転席で気遣うように話しかけてくるけれど、僕は返事をする気になれなかった。ただ、胸の奥で何かがひっかかるような感覚があった。
「ここよ。」
母が車を止め、僕を促した。そこには、平屋建ての建物があった。大きな庭が広がり、季節外れの花がぽつぽつと咲いている。グループホーム、僕がこれから暮らす場所だ。
玄関を開けると、優しい笑顔の女性が出迎えてくれた。
「こんにちは、今日から一緒ですね。私はホームのスタッフの三上です。」
三上さんは僕に手を差し出したが、僕はためらった。自分の手が汗ばんでいるのがわかる。結局、ぎこちなく頭を下げるだけで精一杯だった。
「大丈夫、少しずつ慣れていきましょうね。」
三上さんの声は柔らかくて、少しだけ安心した。
案内された部屋は思ったより広く、白いカーテンが揺れていた。床には小さなカーペットが敷かれていて、机とベッドが置かれているだけのシンプルな空間だ。
「この部屋、どうかな?」
母がそう聞いたが、僕はうなずくだけだった。部屋がどんなに居心地がよくても、それ以上の感想を持てなかった。
母が帰るとき、彼女は少し寂しそうな顔をしていた。僕は無言で見送った。ドアが閉まる音がして、初めて「ひとりだ」と思った。
その夜、僕はベッドに寝転びながら、手帳を開いた。いつもはすぐに言葉が浮かぶのに、今日は何も書けなかった。新しい環境が、僕の中の何かを止めている気がした。
けれど、窓の外を見て、ふと思う。これまでの僕の世界は、小さな部屋とノートの中だけだった。でも、この場所には何かがある。まだ見えないけれど、確かに感じる何かが。
次の日から、僕の新しい日々が始まる。どんな色がこの日常を彩るのか、まだわからない。ただ、心の中の小さな詩がささやいていた。
「ここで、何かが変わる。」
詩人の色彩 星咲 紗和(ほしざき さわ) @bosanezaki92
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