第2話 序章その2・お姉ちゃんによるムズかしい化学のお話

 ———西暦2124年。


 あの秋姫鈴の笑顔が忘れられずに七年の時が経った。

 そして、その想いをずっと胸に抱き続けたかいがあり、とうとう高校生に成って彼氏彼女の関係になることができて、真白伊澄は上機嫌で自宅の扉をくぐる。


「フ~ン♪ フ~フフ~ン♪」


 玄関の扉を開けて真っ暗な廊下を歩き、普段の感覚通りに電気のスイッチを入れるとリビングが明るく照らされる。


「———うわっっっ‼」


 伊澄は飛びあがるほど驚いた。

 なぜなら誰もいないと思っていたリビングに、人がいたからだ。


雨芽アメ姉ちゃん……帰って来ていたのか……」 


 くたびれたスーツを着たポニーテールの眼鏡の女性———真白雨芽ましろあめ


「研究所にしばらく泊まり込むんじゃなかったの?」


 彼女は、学者だ。何の研究をしているのか、名前が難しすぎて伊澄はさっぱり覚えていない。


 だが———、


「ちょっとお前に頼みたいことができた」

「俺に?」


 疲れた表情で雨芽は一枚の『同意書』と書かれた書類を伊澄へ向けて差し出した。


「何これ……冷凍睡眠……コールドスリープって書かれているけど……」

「これにサインして欲しい」

「え? なんで? これにサインしたらどうなるの?」


 姉のくたびれた上に何処か虚ろな様子が不気味で怖く、直ぐにサインをするとは言い難くなっている。


「三年以内。もしくは病気やケガで植物人間になった場合、冷凍カプセルに入って永続的に人類が存続可能な環境になるまで眠り続ける。その対象者となる同意書だ。サインをした場合必ず冷凍睡眠に入ってもらう」

「それってつまり、サインしたら三年以内に俺は強制的に冷凍睡眠に入っちゃうことになるってこと?」

「そうだ」

「嫌だよ。誰がサインするかよ。後者だけの条件なら同意してもいいけど、三年以内に強制的にって……誰がやるんだよ」


 伊澄は雨芽がタチの冗談を言っていると思い、へらへらと笑う。

 だがそれでも雨芽の表情は真剣だ。


「伊澄。私が何のための研究をしているか、覚えているか?」

「何を研究していたのか名前はくわしく覚えてないけど———人類を救うための研究をやっているんでしょ?」

「そうだ」

 雨芽は頷いた。


「でもそれは人間の意識を光の波長に変換して遠く移住可能の星に飛ばす研究で……名前は確か……」

「生物意志情報研究学」

「それそれ」


 滅茶苦茶名前長くないか? そりゃあ覚えられないよと思いながらも伊澄は雨芽を指さす。


「姉ちゃんが研究しているのはいわば人間には魂があると仮定して、それをあの転生塔……〈バベル〉を使って遠くの星に送信する———そういった研究をしているんだろ?」

「そうだ」

「それなのにどうして冷凍睡眠? 冷凍睡眠は一応理論上は可能で、だけど実際問題冷凍睡眠から戻ることができるのか? 冷凍睡眠はそもそも何百年何千年と人間が生存可能な環境になるまで冷凍カプセルで眠り続けることになる。それまで管理する人間が確保できる保証がないのに、そんな期間人を保存し続ける機械が現状作ることができないということで今の環境が最悪まで汚染されて他の惑星に移住しなきゃいけない状態になっている人間の生存計画としてハブられているって話を聞いたけど?」

「それでもやらなきゃいけないんだ」

「どうして? 雨芽姉ちゃんの計画が破綻しかけているの? 確か計画は……」


 カーテンを開く。

 電気をつける前は真っ暗だった部屋に外の光が入って来る。夕焼けの光だ。

 その夕陽に照らされる塔があり、伊澄は見つめる。

 巨大な塔———〈バベル〉を。


魂の箱舟ソウルノア計画———人間が移住可能と言われている、地球と近しい惑星は最短でも4光年の距離にある、プロキシマ・ケンタウリ星。そこに移住したい人類はまだ光速で飛べる宇宙船は開発できていなかったので、人間の意志、いわゆる魂だけを飛ばすことにした。それ確かにこの世界に存在し、光の波長に変換させることが可能だと言う真白理論を提唱した雨芽姉ちゃんに移住計画の白羽の矢が辺り……あの大規模魂転送装置である———〈バベル〉を建設し、それに乗せて多数の魂をプロキシマ・ケンタウリ星に送っている」

「そうだ。この地球にはソウルクラウドという生命の魂が集まる〝場〟が存在する。天国や地獄なものだと思ってもいいが人や動物のような意志のある生命体が死ぬとその意志とも魂とも自我とも呼ばれるそれは肉体から離れてクラウドに飛んでいく。そして新しい後が生まれるとそのクラウドから魂が飛んでいき、新しい命へと宿る。こうして命は循環していく。つまり元々この世界に輪廻転生は、生まれ変わりはあったことになる。それを科学的に証明した。私が証明した」


 チラリとリビングにある本棚に目をやると、「リインカーネーション理論:著・真白雨芽」という本が少し並んでいる本の中から突き出て頭を出し、その本の他にも多数の「著・真白雨芽」の本が並んでいる。

 真白伊澄の姉、真白雨芽は8歳年上だ。

 ほんのそれだけしか違わないのに彼女は様々なこの世界を変える理論を発表し、多数の著書を出している。若干20歳にしてこの世の輪廻転生と魂の宿る場所ソウルクラウドの実在証明とそれに特別な波長の電磁波を当てることによって干渉できるソウルピッキング理論———通称真白理論を提唱したその一年は、〝奇跡の一年〟いや〝真白の一年〟と呼ばれている。

 そんな大天才が姉にいると何かと肩身の狭い思いをするが、姉は家ではダメ人間で片付け一つできないのでなんだかんだで弟とは持ちつ持たれつの関係を続けていた。

 そんな姉が、今、追い詰められたような人を殺しそうな目をしてリビングの椅子に座っている。


「輪廻転生は……転生はある。だからあの〈バベル〉を使って地球人の魂をプロキシマ・ケンタウリ星に送り続けている。今この瞬間も。そこで新しい命として転生するためにな。だが、もうじき中止される」

「どうして? そこで記憶を持って人間に転生する技術も開発されているんでしょう? 確かにプロキシマ・ケンタウリ星に今は人類はいないかもしれないけれど、魂に紐づけた重力力場の操作とかでプロキシマ・ケンタウリ星に住む固有の生き物を最終的に地球人と同じ人間に進化させることができるって。プロキシマ・ケンタウリ星で転生した人類が生きていけることができるって……」

「そこまではいい。魂に情報を電磁波を使って書き込むことができて、その生命がもつ重力すら操作はできるようになった。それでもまだ完全な移住計画には足りないんだよ。本当に単純な———『思い出す』という行為ができない。プロキシマ・ケンタウリ星で地球人の魂が人間として生まれ変わっても、前世の記憶を『思い出す』という行為は確率に頼るしかない。一応こちら側から干渉波は放出するがそれが正常に届くかどうかもわからず、届いたとしても魂に紐づけられた記憶を本当に呼び覚ませるのかどうかもわからない。私の理論が提唱する前、前世の存在があるかどうかわからない時代に前世の記憶を思い出す人間と全くそうではなかった人間がいるように、個人の体質や運が絡む。もしも移住した全人類が地球人であることを忘れてしまっているのならそれは完全な移住とは言えない。ただ宇宙人を増やすだけだ」

「だけど、今はそれしか……滅んでいく地球から脱出するにはそれしかないんでしょう?」


 窓の外に見える夕焼け空はどこか毒々しく、血のような赤色だった。

 百年前は夕焼け空が綺麗なオレンジ色だったとはとても信じられない。

 人間が短期間で苛烈に地球を虐め抜いた結果の空だった。

 雨芽は首を振る。


「ワープ航法が開発された」

「ワープ?」

「何光年先だろうと一瞬で行ける技術だ。瞬間移動とも言うが、」

「いや、それはわかるけど。あくまでそれはフィクションの概念で現実では不可能だって。宇宙の次元に穴をあけるワームホールに飛び込むしかないけど、ワームホールは人類には制御できなくてそれに飛び込んだところで時間も空間も目的通りの場所には辿り着かない。だからワープ航法は無理だって……」

「アルクビエレ・ドライブが開発された」

「アルクビエレ?」


 伊澄はその名前を聞いて、凄く発音しにくい名前だなと思った。


「何それ?」

重力航法グラビティ・ドライブと言い換えてもいい。要は重力を使う。マイクロブラックホールを生成、制御し空間を歪めて目的地まで一瞬で辿り着く。重力は光にすら影響を及ぼす時間と空間を捻じ曲げる力だ。相対性理論だとそれにより時間旅行も可能だと言われているが、その前段階。空間を歪めて超長距離をぐっ! と宇宙船側に相手を引き寄せる。具体的には進んで行く方向の時空を縮めて、離れる方向の時空を広げる感じだな」


 グッと両手を合わせて収縮のイメージを形作ったり、広げて拡張のイメージを形作ったりしているが、伊澄には、


「姉ちゃんが何を言っているのかさっぱりわかんないよ……」


 彼女が何を言っているのか一単語も理解できなかった。

 それは雨芽も薄々感じていたようで肩をすくめて、


「まぁ、要は魂だけ飛ばさなくても、物理的に人間がプロキシマ・ケンタウリ星に移住できるようになった。昔のSF映画のように宇宙船がそのまま他の惑星に辿り着いて、入居する。ピルグリムファーザーズだ」


 雨芽はその惑星間移民を、過去のイギリスからアメリカ大陸への移民した102人の植民者たちになぞらえた。


「じゃあ……」

「ああ、だから私の魂の箱舟計画は中止になった。緩やかに中止になっていく。死ぬのだ。我々〝自身〟が確実に惑星の土を踏める方がいいからな」

「そんな凄い宇宙船が開発されたのはわかったけど……、」


 それならひとつ疑問がある。

 この話に入る前に雨芽が切り出した言葉だ。


「どうしてそれで、俺が冷凍睡眠コールドスリープに入らないといけないの?」

「そのワープ航法、アルビレオ・ドライブが確実に安全に活用できるようになるためには少なくとも百年の時がかかるからだ」

「え……?」

「つまり、百年後のアルビレオ・ドライブ搭載の船に乗ってお前にはプロキシマ・ケンタウリ星に移住して欲しい」

「そんな……いいよ。俺はこの地球で暮らして、死ぬ」


 さっきの冷凍睡眠の話では、三年以内に眠りにつかなければならない。

 そうなると、あと数年で会えなくなってしまう。

 秋姫鈴とは永遠に会えなくなってしまう。

 そんなのは嫌だ。

 せっかく告白に成功して恋人関係になれたのに———。


「悪いがお前に拒否権はない。もちろん私にも———だ」


 だが、雨芽は伊澄に視線を合わせることもなくそう言い放った。


「なんで⁉ 俺のことだろう⁉」

「お前は実験台だ」


 びしりと指さす。


「実験台……モルモットってこと?」

「そうだ。これから百年後の移民に備えて数多くの人間がコールドスリープにつく。そのなかでどうしても未熟な技術で冷凍睡眠に入らなければいけない人間が出てくる。まだ冷凍睡眠技術は理論上は可能というものばかりだからな。一度冷凍保存に入り、解凍し、再び活動した例はまだない。動物はあるがな」


 それは、三年前に冷凍保存されたネズミが三十年の時を経て解凍し、問題なく五体満足で活動したスウェーデンの研究チームが発表したケースのことだろう。コールドスリープが実現したと日本でも話題になった。


「だが、本格的な冷凍保存技術確立のためには、技術の進歩のためにどうしても人体実験をしなければいけないと言う側面状、倫理的な問題がどうしても壁になっていた。だがもうそういうわけにはいかない。地球が持たない時が来ている。これからの地球は、人類全体はアルビレオ・ドライブの実用化のために全力を尽くさねばならない時期に来ている。物理的移民に全人類のパワーリソースを使わなければいけなくなってきている。それ以外の政治家や芸術家は一時的な邪魔となる。そうなればいつかくる文化的に必要な時間のために彼らを冷凍保存しなければならない。そのための足掛かりとなってくれ———頼む」


 雨芽が頭を下げる。

 アインシュタインに並ぶと言われた大天才の真白雨芽が、ただの男子高校生である伊澄に向かって頭を下げると言うのは初めてのことだった。


「魂の箱舟計画で、この世界で今死にゆく人間を無差別に他の惑星に送り続けてきたこの真白雨芽が———今更自分の身うち一人を人身御供にすることを拒否などできないんだ!」

「……………」


 いろいろな、都合がある。

 伊澄には伊澄の都合が。

 雨芽には雨芽の都合が。


 これは———真白家全体の、家族の都合だ。

 だから———仕方がないと言える。


 どんなに嫌でも、やらなければならない時がある。


 真白伊澄は———同意書に自分の名前を書いた。

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