過去の自分と今の自分
ミアの部屋は照明が点いていなかったため、暗かった。一歩部屋に足を踏み入れると見えないセンサーがミアを感知し、照明が点いた眩しさを感じたが目はすぐに慣れた。部屋は散らかっていた。ルーカスは綺麗好きだったため少しばかり嫌悪感を抱かざるおえなかった。机の上には一台のノートパソコンと資料やらが乱雑に置かれていた。その積み上げられた資料の上にガンホルダーが置かれていた。ミアはすぐに駆け寄りガンホルダーからUSBを取り出した。
「それは?」
ルーカスがUSBを指差しながら言った。
「私との夫婦関係がある奴が持ってた物よ」
「中身は?」
「まだ見てないの。でもこの中に何か手がかりがあるかも」
ミアはノートパソコンの電源をつけUSBを挿した。ノートパソコンの起動に時間がかかる。廊下からコツコツと音が聞こえた。ルーカスは咄嗟に開いていた扉を閉めた。鍵をかけ、人差し指を立てミアに静かにと促した。コツコツという音は確実に近づいてきていた。ここは一部職員の寮の様なものになっていたため誰かいるのは珍しいことではない。だがルーカスの中で何かがどよめいていた。ミアは机の引き出しからそっと拳銃を取り出した。そこにいつも拳銃をしまっていた。マガジンを取り出し弾薬を確認する。マガジンを戻した。先程までUSBが入っていたガンホルダーを腰につける。ルーカスも部屋の角へと移動した。コツコツと音が近づき、部屋の前で止まった。ミアたちのいる部屋の前だ。ドアを誰かにノックされた。
「よこせ」
ルーカスが小声で言った。ミアは渋ったが足を大股に開き、拳銃を渡した。ルーカスは背後に配置されていたロッカーの上にペン立てがあるのを見つけ、鉛筆を一本そこから抜いた。右手で拳銃を構えそこに鉛筆を持った左手を添えた。銃口は扉を横から捉えている。もう一度ノックが鳴った。
「ミア?」
扉の向こうから声が聞こえた。声の主は二人とも知っていた。ルーカスは数時間前に聞いた声だった。声の主はアリスだった。
「アリス、どうしたの?」
ミアは外に聞こえるように言った。ミアとアリスは同期だった。
「ちょっと話があるの」
「ごめん、ちょっと今手が離せなくて」
「急にごめんないさい。また今度話すわね」
コツコツと音が離れていく。ルーカスは扉に耳を当て完全に音が消えるまで待った。完全に消えるとそれをミアに合図した。ミアは電源がつきデスクトップ画面で待機するノートパソコンを操作し、USBの中身を確認した。その中には一つの映像が保存されていた。ルーカスもノートパソコンを覗き込む。ミアは動画にカーソルを合わせ、クリックした。動画が再生される。映像は人を写し出した。その顔にミアは見覚えがあった。
「こんにちは、ミア。いえ、貴方はミアじゃないかもしれない。別の名前になってるかも。私の名前はミア・ハーネス。貴方よ」
ミアは自分の声だと認識した。
「おい、これ」
ルーカスが動揺したがミアは片手で黙れと合図した。映像のミアはいくつかの擦り傷があった。それは顔や首、腕など体全体にあった。彼女の顔からは意思が消えていた。打ちのめされていたのだ。
「ここは私の家。たぶん今この映像を見ている貴方にはわからないでしょうね。今さっき襲撃にあった。たぶん部門の連中だわ。そこで赤の女王は壊滅した。このまま全滅するでしょうね。私たちは負けたの。革命を起こすというボスの夢は消え去った。いいえ、ボスだけじゃない私たちの夢もよ。さっき何かの薬を飲まされたわ。記憶処理薬かしら。今にも意識がなくなりそう」
映像のミアはバランスを崩しそうになるが踏ん張り転倒することはなかった。動画を見ているミアは混乱していた。画面の向こうで話しているミアの言っていることが意味がわからなかったからだ。ミアは一呼吸をおいて続けた。
「もう幼少期の記憶がない。私の母はどんな顔で父はどんな言葉をかけてくれていたのか思い出せない。そのうち全ての記憶が消えるのかも。だからこの映像に残しておくわ。あなたは赤の女王の戦闘部隊ジャバウォッキーの隊長ミア・ハーネス。あなたは革命のため戦っている。でも今日負けたの。部門の連中に」
彼女の声が歪み、瞳から涙が出てくる。それを手の甲で拭き取った。
「なんで私から奪うの。やめて、奪わないで。お願いだから。消さないで、私の記憶を消さないで。あぁ私の愛する人。彼との記憶は奪らないで。彼の名前はローガン・ハーネス。やだ、彼のことは忘れたくない。でももしローガンがこの映像を見たら私を探してくれるかもしれない。ローガンは朝になると私を起こしてコーヒーを用意してくれる。それを私のところに持ってきて、優しい声で言ってくれるの『おはよう』って彼は私に煙草を一本取り出して火をつけてくれる。それを二人で吸うの。一本の煙草を。彼がいなきゃ私は生きていけないの」
彼女の顔は微笑みに変わったがそれは絶望の表れだった。ローガンを忘れてしまう恐怖がそこにはあった。ミアは到底映像の人物が自分だとは思えなかった。
「忘れたくない、忘れたくない、忘れたくない、忘れたくない、忘れたくない、忘れたくない。やだやだやだやだやだ。ローガン、ローガン、ローガン、ローガン。忘れない。私の名前はミア・ハーネス。二十五歳。夫はローガン・ハーネス。忘れちゃいけない人。忘れたくない人。私が愛した人。私を愛してくれた人。私を見つけてくれる人。私が見つけなきゃいけない人」
映像のミアの息が切れる。零れ落ち続ける涙を手で拭き取った。そしてカメラを見て言った。
「同じ場所にとどまるためには、絶えず全力で走っていなければならない。ローガン愛してる。一生愛してる」
映像が終わった。ミアの頭に何かが触れる感触を感じた。その感触をミアは知っていた。拳銃だ。ミアはルーカスに拳銃を渡したことを後悔した。
「ハーネス、はいかいいえで答えるんだ。今の映像を撮った記憶はあるか?」
ルーカスが言った。やはり口調は穏やかだ。ミアにとってそれは気味の悪いものだった。
「いいえ」
ミアは冷静に答えた。
「君は何者だ? 敵か?」
「いいえ」
「今の映像を見て何か思い出したことはあるか?」
「いいえ」
「君は赤の女王のスパイか?」
「いいえ」
ルーカスはミアの答えに鬱陶しさを感じていた。彼の望む答えが出ないのは明白だ。
「君が信用に値する人間という証拠は?」
ミアは脳を回転させた。彼女は今までの記憶をかき分けた。そこに答えがあると考えたからだ。そこには確かに答えがあった。だがそれが本当の答えなのかはミアにはわからない。だがそれ以外に彼女が信用を勝ち取れるものがなかった。
「赤の女王が壊滅的被害を被ったことは?」
ミアはルーカスに聞いた。それは彼女の信用に関係のあるものかルーカスはわからない。
「なぜそれを聞く?」
「私の信頼を勝ち取るためよ」
「赤の女王が壊滅的被害を被ったことはない。赤の女王の情報も少ししかない。組織の全体像ですら掴めていないんだ」
「部門が?」
「あぁ、情報が掴めないんだ。何も」
「ジャバウォッキーについて知ってることは?」
「知らない」
「えぇ、私も何も知らない。でも映像の私はその部隊の隊長だった。あの状況だと部門もジャバウォッキーについて知っているはずよ」
ルーカスは考えた。もし今頭に浮かんだ疑問について、それが本当ならば自分はどうすればいいかわからなかった。だが全ての思考の先にあるものは一つの結論に至った。
「記憶が改竄されている」
ルーカスは躊躇いながらもその結論を口に出した。ルーカスは拳銃の標準をミアの頭から外した。ミアは立ち上がりゆっくりとルーカスの方へと振り向いた。
「いつのタイミングかはわからないけど確実に改竄されているでしょうね」
「記憶改竄部門が記憶の改竄を気づかないわけがない。職員の誰かがこの事実に気づいているはずだ」
ミアはルーカスの言葉を聞き、ある恐るべき考えが脳をめぐった。職員は全員記憶のスペシャリストだ。その職員が今まで誰も気づかなかった。そんなことがあるはずがない。誰かが自分の記憶の矛盾に気づくはずだ。それも敵対組織が記憶に絡んでいる。強烈な記憶のはずだ。なのになぜ誰も気づかなかった。ミアの頭が脳に鞭を打ちフル回転させる。
「最低二回、私たちはこの事実に気がついている」
ルーカスは体を得体の知れない何か気持ちの悪いものが這いずり回り彼の体内を食い散らかすような感覚を覚えた。
「誰が記憶を改竄した?」
ふっとルーカスの口から漏れた。
「部門の中の人間の可能性が高いわね」
「あぁそれじゃないと部門全員の記憶を改竄するなんて不可能だ」
「全員分の記憶を改竄したの?」
「いや、やるとしたら大規模な改竄用の記憶処理薬、記憶拡張剤を使用することになる。そうなると確実にどこかに痕跡または記録が残るはずだ」
「どう違うの?」
ミアが聞いた。
「一般的な記憶改竄はインベーダーが一人の記憶にインベイドをして改竄する。だから細かな記憶の改竄が可能なんだ。改竄された対象者は改竄前の記憶を思い出すことはほぼ不可能だ。だが大規模な記憶改竄の場合、部門が疑似記憶を作り出す。仕組みは簡単だ。複数人のインベーダーが様々な場面を予想した記憶を自分の記憶上に改竄するんだ。その記憶を複製し、それを予防接種などと偽って全国民に接種させ記憶の改竄をする。体内に入った疑似記憶は自動的に対象に違和感がない疑似記憶のパターンを当てはめ改竄する。だがこれは全世界的に見れば行われたのは数回しかない。完璧に成功した試しがないんだ。数千人が数万人が数十万人がどれくらいの数かは計測はできていないが、数え切れないほどの人間が元の記憶を取り戻しているんだ。部門はそれを『マンデラ効果』として世界に広めた。それほど不確実なものなんだ。それを何年も職員を騙せるとは思えない」
「その度に記憶の改竄をしたのよ」
ミアは驚くほど冷静に言った。
「あぁそうだろうな」
ルーカスは納得のいかない様子で同意した。
「これからどうするの?」
「昔のデータベースを探ってみる」
「私はローガンの遺体を見に行くわ。たぶん地下の死体安置室に遺体があるから。何か思い出すかも」
「じゃあ何かわかったら連絡してくれ」
ルーカスはミアの拳銃を持ち主に手渡ししながら言った。ルーカスは部屋を出て行こうとドアノブを捻り扉を引いた。扉は軋む音もせず静かに開いた。扉の前には誰か立っていた。黒いフードを被り顔に密着しているであろう金属の光沢を輝かせるマスク。そのマスクはアメコミヒーローにでもいそうな形をしていた。ルーカスが得れた情報はそこまでだった。体全体を観察する時間は彼には用意されていなかった。ルーカスは振り返り、叫んだ。
「逃げろ!」
ミアは銃口を向けたが撃てなかった。ルーカスの体が扉の前にいる人物への斜線を遮っていた。マスクをつけた人物はルーカスに銃口を向け、撃った。ルーカスが重力に任せ倒れた。ミアは自分の部屋を瞬時に見渡し、無線機を手に取った。マスクをつけた人物はルーカスを跨ぎ、ミアに近づく。ミアが再度銃口を向け威嚇した。
「あなたは誰?」
ミアは聞いた。返答によっては彼女は引き金を引くように思考が回っていた。
「イラスベス」
女性的な声だった。その声はミアの記憶にある声だ。生真面目な性格でそれに見合った丸メガネをかけた髪が美しい女性。
「アリス」
ミアの思考は言語として口から出た。それは無意識下のものであった。イラスベスは拳銃を握り直した。その瞬間、イラスベスは右足に痛みを感じた。その痛みで体制を崩す。痛む箇所を見ると倒れたルーカスが鉛筆を突き刺していた。その鉛筆は骨のあたりまで刺さっていた。ルーカスは息が切れながら叫んだ。
「今だ!」
ミアは足を踏み出しながら拳に力を込めた。拳を突き出しイラスベスの腹部を殴りつけた。イラスベスはその痛みからその場にしゃがみ込んだ。ミアは走り出しその場を抜け出した。彼女はルーカスに感謝していた。あの場で彼女は撃てなかった。同僚を撃つことなどできなかったのだ。エレベーターを目指し廊下を走った。銃声は聞こえない。走りながら無線機のスイッチを入れた。周波数を合わせる。その周波数は特殊部隊のものだった。
「こちらハーネス。こちらハーネス」
ミアは無線機に叫んだ。
「こちらブルックス。隊長どうしたんですか?」
無線に出たのはブルックスだった。彼は陽気な口調だった。こちらの緊急性に気付いていないのだろう。
「三階に敵の侵入を確認。戦闘態勢に移行」
「了解しました」
ミアの言葉でブルックスの声には緊張感が含まれた。彼女は束の間の安心感を得ることができた。だがそれはほんの一瞬だった。彼女の背後から銃声がなり、足元に着弾した。ルーカスが死んだとミアは察した。だが仲間の死に悲しむ余裕はない。自分の死が背後に迫っているからだ。今、足を止めれば迫りくる死という奈落に落ちてしまう。崖は刻々と崩れ落ちていた。エレベーターは幸運にも三階に止まったままだ。ボタンを押すと扉が開き、ミアは滑り込んだ。エレベーターの壁に銃弾が着弾した。彼女はエレベーターの影に体を隠し、地下二階のボタンを押した。扉が閉まった。
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