報告
アリスはいつもと変わらない事務作業をしていた。研究資料をまとめたり、自分のボスのスケジュール管理をしたりと多種多様だった。彼女は仕事ができ、穏やかな性格だったが、今はイラつきが溜まっていた。それは彼女のボスが原因だった。三つの予定をすっぽかしているのだ。それが許せなかった。相手にはしっかりと謝罪の電話をし予定をずらしてもらった。それが彼女の仕事なのは自分自身でわかっていたが許せなかった。ボスを見つけたら一言ガツンと言ってやると心の中で意気込んでいた。目線をパソコンのブルーライトを発する画面から廊下の方に移すとボスが見えた。彼女は急いで立ち上がり、リンダに声をかけようと、廊下に向かうがボスの後ろにもう一人人影が見えた。それはミアだった。あの 感じの悪いミアだ。話しかけても返答はそっけなく、飲みに誘えば確実に断られる。日頃から彼女のことを嫌いではないが嫌悪していた。途端に話しかけづらくなった。そそくさと席へ戻る。パソコンを打ち込むフリをしながら二人のことを観察した。二人は会話することなくリンダのオフィスへ歩いていく。その光景はぎこちないものだった。どこか異様な空気感なのだ。それは二人の表情から読み取ることができた。無表情にどこか含みがあるのだ。それが胸に引っかかり、彼女の仕事である事務作業を再開できずにいた。二人はリンダのオフィスへ入っていった。アリスは話の内容を聞くため聞き耳を立てようと考えたが、分厚い防音ガラスがその考えを不可能だとわからせた。リンダはオフィスに入るなり自分の席に座った。ミアは立っていた。ミアは彼女が上層部へ報告すると思っていたが彼女はそのような素振りは見せない。
「報告は?」
ミアが耐え切れず言った。そして続けて言った。
「処分はなに?」
「報告はしないわ。だから処分もないわ」
ミアは戸惑いを見せた。
「あなたは自室にしばらくいなさい。こっちで詳しいことは調べておくわ」
「でも」
「いいからあなたは私に従ってて。いい?」
ミアはすぐには返答ができなかった。そこにいたのはミアが知っているリンダではなかった。
「わかった」
ミアはその言葉を言うしかなかった。ミアはもちろん納得はしていなかったが、その前に今の状況をよく理解できていなかった。リンダがなぜ報告しないかがわからなかった。それこそ組織を政府を国を裏切る行為になりうる可能性だってあるのに。ミアは組織に忠実な人間だったためそれなりの処罰を望んでいた。それが今回の失態の尻拭いになるのならと。ミアはオフィスから出て行った。その足取りは早かった。その場を立ち去りたい気持ちと存在しないはずの婚姻届の疑問を一刻でも早く解決したかったからだ。存在しないはずのものが存在していた時人の脳は処理しきれなくなる。だがミアは自分の過去を振り返った。記憶が抜け落ちいる。それに気がついた。記憶の最深部にあるのはここに配属された時だ。それ以前の記憶が思い出せない。なぜ今まで思い出そうとしなかった。なぜ。頭の中にその考えが反復する。彼女は一つ思い出したことがあった。USBだ。ガンホルダーは自室にあった。ミアは走り出した。そこまで遠くはなかった。エレベーターのボタンを押した。やけに遅い。四階に着き、エレベーターのドアが開いた。ルーカスが乗っていた。ルーカスとミアは見つめあった。ミアが乗り込み三階を押した。だが扉は閉まらない。横目でルーカスを見ると彼が開けるのボタンを押していた。
「ハーネス。疑いたくはないんだ。本当のことを話してくれ」
ルーカスが言った。ミアは彼が自分のことを疑っているのがわかる。
「何も知らないの」
彼女は何も知らなかった。
「報告は?」
「ボスが……」
「ボスが?」
「報告したと思う」
ミアは嘘をつくしかなかった。それが自分が身を守る唯一の方法だった。
「してないんだな?」
ルーカスは怒りに我を任せるということはなかった。だからかそれは穏やかな口調だ。そしてそれは彼の予想の範囲内だった。だがミアにとってその穏やかな口調は気味が悪かった。
「わからない」
「ハーネス。君は何も知らないのか?」
「ええ」
「そうか」
ルーカスは閉じるのボタンを押した。エレベーターの扉が閉まった。ミアは深呼吸をした。
「本当は報告してないの。ついてきて」
ミアが言うと同時にエレベーターは三階に着き、ドアが開いた。そこには長い廊下がのびていた。
アリスはミアがリンダのオフィスから出ていくのを確認するとすぐさまリンダのオフィスへと向かった。扉をノックする。「どうぞ」と中から微かに聞こえた。
「失礼します」
アリスが中へ入った。リンダは一瞬彼女を見たがいつもの事のように自分の仕事に目を向けた。
「お時間いいですか?」
「ええ、いいわ。どうしたの?」
アリスが恐る恐ると聞いた。
「まず三つの予定は他の日程に変更しました。詳細が分かり次第お伝えします」
口から出た言葉はアリスが頭の中で思い描いていた言い方ではなかった。
「ええ、そうして」
リンダが高圧的に言った。
「このあとは国防長官との会議が入っています」
「急に?」
「はい、二十分ほど前に連絡が入りました」
「わかったわ」
リンダは驚きつつも冷静を装った。
「さっきミアさんとは何を話していたんですか?」
「あなたには関係ないわ。アリス、もういいから戻ってちょうだい」
「そうですか。失礼しました」
アリスはやけにいさぎよく部屋を出て行った。彼女が向かったのは自分のデスクではなくエレベーターだった。五階のボタンを押し、エレベーターが動き出す。五階に着くがそこには誰もいない。スマホを取り出し番号を打ち込んだ。発信音が鳴る。一定のリズムが鳴るがその音はアリスの耳にしか届いていない。数回のコールの後コール音が切れた。アリスは話し始めた。
「もしもし。私です。はい。イラスベスです。えぇ、ミア・ハーネスがやはり。ボス……いえ、リンダはそちらに報告する気はないようです。私はまだ潜伏しておきます。誰も私を疑っていません。大丈夫です。はい。そんなこと聞いていませんが。はい。それはもう決定したことですか?」
アリスの声が大きくなった。
「かしこまりました。それでは」
アリスは高くなった鼓動を抑え言った。電話相手の指示は彼女の予想をはるかに超えたものだった。彼女は電話を切るとエレベーターのボタンを押した。エレベーターを待つ間、彼女は三つ編みの髪を丁寧に解いた。数十秒経った後エレベーターが五階につく。乗り込むと三階のボタンを押した。
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