ミア•ハーネスについて
リンダのスマホが鳴った。時計は十六時三十分を過ぎたところだった。その音を耳にした時、いつも聞き慣れている音だったがどういうわけか嫌な予感がした。リンダはその予感を抑えこみ電話に出た。予感は的中した。部下を二人失ったのだ。記憶改竄部門の職員は少なかった。六十人ほどしかいないのだ。今年も新人は三人だけだった。そのうちの一人を失ったのだ。それも殉職だった。そしてもう一人はベテランの職員だった。彼は冗談を言うのが得意だった。だが任務では真面目な男だった。彼はミスした事は一度もなかった。そして隙を見せる事も。赤の女王の勢力は確実に大きくなっていた。離反する者も年々増加していた。政府は赤の女王を潰したいようだった。その連絡は数十分前にきていた。赤の女王本部への攻撃。それが彼ら権力者、政治家の要望だった。確実に仕留めたかったのだ。それはまるでネズミを狙う鷹のようだった。リンダはその作戦に懸念を感じていた。なにせ人員が少ないにも関わらず、攻め入って返り討ちにされでもしたら記憶改竄部門はネズミに狩られる側になるだろう。鷹がネズミ如きに狩られてしまっては話にならない。電話を切る手はいつにもまして穏やかだった。疲労が溜まっていたのだ。そこにまたスマホが鳴った。緊急だった。今すぐ二階会議室まで来て欲しいと。それだけで用件は伝えられなかった。リンダは立ち上がり、自分のオフィスから出た。彼女の足取りは疲労を感じさせない速さだった。エレベーター前に着くまで三十秒もかからなかった。だが待つ時間があった。苛立ちが積もる。それを深呼吸でなんとか振り払い、冷静になる。ここで苛ついていては一組織のボスではいられないだろう。エレベーターがリンダの階で止まった。扉が開いた。誰もいない。彼女は乗り込み二階のボタンを押した。三階では止まらず二階で止まる。厚く重厚に見える鉄の扉はスムーズに開いた。会議室に向かい歩く。途中誰ともすれ違わなかったが、それが普通だった。二階はいくつかの会議室が大半を占めているため会議がなければ人もいないのだ。そこは薄暗い廊下だった。外からの光が窓から差し込み、少しの明るさを保っていた。歩くたびにコツコツと音を立てる廊下はリンダをベテランのビジネスウーマンのように見せていた。会議室の外から中は見えなかった。彼女は緊張していた。緊張するのはこの組織に所属した初日以来だった。息を大きく吸い込み肺に充満させる。酸素を取り込み血液へと送る。気持ちを落ち着かせて会議室のドアノブを手で握る。その手は少し汗ばんでいる気がしたが彼女は強引に気の所為にした。ドアノブをひねり、扉を押した。ガチャという音と共に扉が開き、中の様子がわかった。中にはミア、ルーカス、そして大柄な情報班の職員カイロだった。
「で、用件は?」
リンダは聞かずにはいられなかった。額には汗が滲み出ていたが視認できるほどではない。
「ハーネスに関してです」
カイロが言った。
「ハーネスに関して? ハーネスはもう聞いてるの?」
カイロは一呼吸置いた後言った。
「いいえ、まだ。こちらを」
それは一枚の報告書だった。そこには『ミア・ハーネス、ローガン・ハーネスの関係性について』と記載されていた。
「二人は二千十九年五月に入籍しています。ローガンの所属は不明ですが現状から見て敵組織かと」
最初に動いたのはルーカスだった。腰から拳銃を取り出し彼女に向けた。ミアはその報告書に立ち尽くしていた。ただその現実をまだ脳で噛み砕いて理解するに至っていなかった。
「私は知らないわ。私は独身のはずよ」
それが彼女が絞り出した答えだった。
「その書類の信憑性は?」
リンダはいつもと変わらず冷静だった。
「改竄された痕跡もありません。それに正式な書類です」
カイロは仕事の一環として事務的に答える。普段彼は感情的だがこの時ばかりは感情を必死で抑えていた。彼は仕事に真面目な男だったからだ。
「ハーネス、心当たりは?」
リンダがミアへ問いかけたが彼女は反応を示さない。脳内での咀嚼はまだ終わっていなかった。
「ミア」
リンダは強く言った。ミアはハッと意識が戻ったような素振りを見せリンダの方を向く。
「何か心当たりは?」
「ない」
「二千十九年辺りの記憶は?」
「思い出せない。あと少しで出てくるのにそれを掴もうとすると離れていく」
「わかったわ」
リンダはルーカスに銃を下ろすようジェスチャーする。彼は渋ったが銃を下ろした。
「この件は内密にしてちょうだい。いいわね」
「上に報告は?」
ルーカスが言った。この部屋で彼が初めて発した言葉だった。リンダはルーカスが何を言っているかわかっていないような顔を見せた。
「報告は。そうね。私が報告するわ」
「そうですか」
ルーカスはどこからかわからない不安が身体中に染み渡った。それに身震いしながらも彼の上司の命令には従う他なかった。
「ハーネス。ついてきて」
リンダがドアノブに手をかけ言った。ミアは無言でついていく。二人は部屋から出て行った。カイロとルーカスが残された。
「報告すると思うか?」
「誰が?」
ルーカスの問いにカイロは問いで返した。
「うちのボスさ」
「しないな」
「だよな。でも報告しないとえらいことになるぞ」
カイロは胸ポケットから煙草の箱を取り出した。
「吸うか?」
「いや、禁煙中だ」
ルーカスは嫌悪している表情を見せながら断った。
「それは良い心がけだ。じゃあ俺は喫煙所に行ってくるよ」
「あぁ」
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