家族
日時 十月十一日 十五時四十分
キムはエレベーターで五階に上がった。扉が開くとそこは倉庫になっていた。紙媒体の資料から映像媒体の資料、報告書、実験記録、そして記憶侵入剤の未完成品。その未完成品はただ血液を注入させるだけで完成する代物だった。その倉庫は五階全体に広がっていた。書庫の役割もしていたし、いわゆる貯蔵庫のような役割を果たしていた。二メートル以上ある棚には資料が敷き詰められていた。窓から入る夕陽の光を遮り、部屋を暗くする。照明のスイッチを押し、照明を点けた。奥から順に照明が点いていく。それは倉庫全体を照らしだした。キムは棚の間に作られた人間一人分通れる通路を歩き、周囲を見渡す。彼は探していた。人を探していた。それは彼に違和感を覚えさせたからだった。五階というフロアはほぼ行く機会がないと言ってもいいほどだった。事務や研究員ぐらいしか立ち入ることはなかった。彼は拳銃を取り出す。それは自衛と排除どちらの要素も存在した。数メートル先の棚と棚の間から誰かが顔を覗かせた。咄嗟に拳銃を向けた。
「誰だ!」
「おいおい、勘弁してくれよ」
手を挙げながら出てきたのはノアだった。キムはノアを探していた。
「拳銃なんていう危なっかしいもんなんかやめてくれよ」
だがその言葉はキムの耳には入らない。
「ここで何してる?」
「いやただ五階はあんまり行ったことがなかったから来てみたかっただけだよ」
ノアが言った。その言い様はいつにも増して焦っていた。それは拳銃を向けられているからか、それともそれ以外なのだろうか。
「信じられないな」
キムは疑いの目を向けた。ノアは何故自分にそのような目を向けられているのかわかっていないような表情をしていた。
「何をそんなに怖がってんだ?」
ノアの問いにキムは答えなかった。二人の間に沈黙の時間が流れた。その強く引っ張られた糸を切ったのはノアだった。腰から拳銃を取り出しキムに向けた。キムは撃つこともできたが撃てなかった。
「お前には撃てない」
ノアは今までの雰囲気とは打って変わり冷酷に言った。
「お前もな」
キムは言った。
「なぁ、ここは銃をしまわないか?」
「あぁそうしよう」
キムはノアの意見に賛成した。まだノアがスパイという決定的な証拠がなかったのだ。キムは慎重だった。キムのスマホが鳴った。それは拳銃を下ろした後も続いた緊張の糸を切った。スマホを取り出し画面を見る。ただのメッセージ通知だった。メールを開き、内容を確認する。それは自分へのおすすめが掲載された通販サイトのメールだった。
「なんだった?」
「別になにも」
キムは言った。キムはため息をついた。それは全身の力を抜き、リラックスさせるためだ。その目は半開きだった。疲れが来ていたのだ。眠気を振り払い、目を見開く。ノアは黙ってその過程を観察していた。
「疲れてるみたいだな」
「あぁ、少しな」
キムは警戒を解いていなかった。それはノアへの態度から目に見えた。二人きりの時間が過ぎる。
「なぁ、なにか腹に入れないか?」
ノアがお腹をさするジェスチャーを見せながら言った。彼の食欲は計り知れないものだった。それはキムも他の同僚も周知の事実だった。
「外に食べに行くのか?」
「いいや、違う。カフェテリアだよ」
キムは少し考えた。外へ食べに行くよりカフェテリアで食べた方が圧倒的に安全だ。キムにはノアの考えがわからなかった。スパイの可能性があるノアのことが。キムは先にノアを行かせようと道を譲った。ノアはキムの顔を見ながら嫌味のように軽く会釈し、前を通った。その後ろにキムが続いて歩いた。手は常に腰の拳銃に置いていた。段々とエレベーターへ近づいていく。何も起こらない。キムの警戒は全て無駄になった。カフェテリアへの道はキムにとって短くもあり長くもある道だった。カフェテリアへ着くと端っこに戦闘服を着たミアが腰掛けているのが見えた。キムは声をかけることは考えなかった。そのほかに考えることや目の前の問題に手がいっぱいだった。ノアが座った席の反対の席に座った。そこはミアが見える位置だ。
「コーヒーとかはどうだ?」
ノアが言った。
「いらない」
キムは言った。ノアはそうかと残念そうに小声で言った。
「そういえば、キム。お前の子供何歳になった?」
「五歳だ」
「もうそんなになったのか。時間は早いもんだ」
「あぁ」
「時間ってのは人を変える。肉体的、精神的変化。思想や価値観、主観、時には決意さえも。変化が他人と一致すれば革新が起こり、他人と一致しなければ革命、または反乱が起こる。人は時間の上で生き、生かされている。なぁキム、過去の自分を思い出すことはあるか?」
「なんでそんなことを聞く?」
ノアは答えない。そしてただキムの目を見ていた。
「あぁたまにな」
「たまにか。俺はしょっちゅうだ。毎日毎日思い出す。だがそれは記憶を思い返しているだけだ。俺は変わった。変わってしまったんだ。わかるか?」
ノアは小声だが感情が昂っているのは誰が見てもわかるだろう。その姿は獲物を目の前に身を潜めつつ気持ちが昂るハンターのようだ。ノアはその短髪の髪をかいた。キムはその瞬間目を離した。目を離さなければ彼に取り込まれてしまうところだった。視線をずらした先はミアが座っていた席が見えたがそこに彼女の姿はなかった。視線を向ける場所はなく、彼の脳は勝手にノアに視線を向けた。
「何が言いたい?」
キムから出た言葉はそれが精一杯だ。
「つまりだな——」
キムのスマホが鳴った。それはノアの会話を遮る。ノアは口を噤んだ。キムはスマホを取り出し、電話に出た。ノアはキムの話を聞こうと聞き耳を立てたが聞き取れなかった。キムが話し終わり、電話を切るとノアは言った。
「嫁さんか?」
「あぁそうだ」
「なんだって?」
「別にお前に関係ない」
「いいじゃねぇか、教えてくれよ」
「娘の送り迎えの話だ」
「五歳だろ。かわいい歳じゃねぇか。いいもんだな」
「あぁ」
キムの返しはそっけないものだった。ノアはそれを気にする様子はない。キムは完全にノアを疑っていた。沈黙が四分三十三秒ほど流れた。その時間二人の目線が合ったことはない。その張り切った糸を切ったのはノアだった。彼は立ち上がった。
「俺は用があるからもう行くぞ」
ノアが言った。
「なんで?」
「だから用があるって言ってんだろ。耳の穴詰まってんのか?」
ノアにイラつきが見えた。お互いに嫌悪感示していた。ノアは何か言いたげだったが、ただキムの顔を見て何も言わない。その沈黙が数秒続いた後、彼は席を後にした。残されたのはキムだけだった。彼は頭を抱えた。ノアというどうにも掴めない人間は何者なのか。それがわからなかった。椅子の背にもたれかかるとギシッと軋む音が聞こえる。そこまで古いものではないはずだ。キムに何かが押し寄せる。それは疲れだった。さすがの彼も限界を感じていた。年々疲れが増していくのを体で感じていた。自分はまだ若い方だった。それはボスなどの上層部に比べればの話だが。まだ三十代だ。まだまだ現役で居続けられる。彼に「人生の生き甲斐は?」と尋ねれば、答えは一つだろう。それは仕事だ。昔からそうだった。仕事、仕事、仕事。それだけだった。妻と別れたのもそれが原因だろう。彼女のために時間をかけてあげられなかった。キムはそれなりに彼女のことを愛していたが、それを表現できなかった。せいぜい仕事の賃金だけだった。右手をおでこの上の形状に沿うように置く。ゆっくりと下におろし、それは瞼を閉じさせた。暗かったが少し光を感じることができた。その光はカフェテリアの天井に一定間隔で置かれた照明から発せられる光と外からの日光だろう。その光を感じているのが彼にとってこの上なく気持ちが良い。彼の眠気を誘うには足りないものはなかった。強いていうなら彼は横になりたかった。だが今動いて移動するなら、この椅子から自分の体を引き剥がそうとするのなら、この眠気はどこかへふっと消えてしまうのではないかという不安に襲われた。それが彼を椅子で眠ることに誘った。彼は寝息を立て始めた。
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