これが私の初日
日時 十月十一日 十二時二十四分
ガブリエルは同僚と昼食を食べていた。同僚と言ってもまだ二日ほどしか関わりがなかった。カフェテリアで同じテーブルを囲んでいた。
「次のオリエンテーションっていつだっけ?」
ルーシーが言った。
「まだ連絡がない」
ジャスティンが言った。確かにオリエンテーションはもうなかった。ガブリエルは昼食のパンを食べていた。それ以降会話は進展しない。三人のスマホが鳴った。メールだった。最初にメールを開いたのはガブリエルだった。文章を読んだ後言った。
「連絡だ。もう仕事だって。三人でやるってよ」
「もう?」
ルーシーが戸惑いを見せた。
「まぁオリエンテーションの派生的なものだろう。十五時集合か」
ガブリエルに続いてスマホでメールを開いたジャスティンが言う。彼は無感情に等しい声で言った。三人はパンを食べ始めた。
ガブリエルは射撃訓練場にいた。そこは薄暗くコンクリートで固められた壁と床を持っていた。そこは地下三階にあった。トレーニング施設とされたフロアは射撃訓練場の他にも多数のトレーニングできる場所を有していた。ここに来た理由は暇つぶしだった。十五時までは時間があった。備え付けられたボタンを押した。ブーッと言うブザー音が鳴った。拳銃を構え、順に降りてくる的に狙いを定める。五個それは降りてきたが当たったのは二発だった。
「下手くそね」
隣から声がした。やけに落ち着きのある女性の声だった。横を覗くとルーシーが銃を構えていた。ボタンを押し、ブザー音が鳴り響く。順に降りてくる的に正確に当てていく。全弾命中だった。
「どこかで銃を?」
ガブリエルが言った。初日でこんなにも扱えるものなのか。ガブリエルに疑問が残る。
「親の趣味よ。だから赤ん坊の時から銃を持ってる。いつか役に立つ時が来るって。普通五歳の女の子に銃を持たせる?」
ルーシーが笑いながら言った。
「いや、いい趣味だ」
ガブリエルが言った。
「よくないわよ。ブラジャーより長い付き合いなの。そうね、君はもう少し落ち着いて撃ったほうが良い」
ルーシーは笑いながら言った後、見せてと言わんばかりの表情を見せた。ガブリエルは無言でボタンを押した。ブザー音が鳴った。ルーシーに言われた通り深呼吸をし、自分を落ち着かせた。順に的が降りてくる。次は四発が命中した。それを後ろで見ていたルーシーが言う。
「惜しいね。次は当たるわよ」
ルーシーはガブリエルの肩を叩き出て行った。それは次への期待であった。ガブリエルは無言でボタンを押した。
新人職員三人は車に乗っていた。運転していたのはファルコだった。助手席にジャスティン、後ろの席にガブリエルとルーシーの二人が乗っていた。そこはいつもと変わらないビル風景が窓の奥を通過していた。歩く人々は普段の日常を送っていた。
「今日の初仕事は簡単だ。記憶処理薬を飲ませ、その後に記憶拡張剤を飲ませる。それだけだ。だが相手が悪い。麻薬の大物フィクサーだ。名前はクルーニー」
ファルコは写真を胸ポケットから取り出しジャスティンに渡した。彼は上から下まで目に焼き付けるとガブリエルに見せた。ガブリエルはルーシーと二人で見れるように手を二人の中心辺りに動かし、見せた。
「取引相手は政治家連中からマフィアまで幅広い。ボディガードは二人。粘着テープみたいにくっついてる。だがその粘着テープが剥がれる時がある。バーだ。その時を狙う。御用達のバーで、奴はそこで一人になりたがるそこを狙うぞ。まずルーシー、君はクルーニーに話しかけるんだ。そこで注意を引きつける。そこで、目を盗んで記憶処理薬を入れろ。すぐ溶ける。だが次が問題だ。記憶拡張剤はすぐに溶けない。そこでだ。薬が溶けるまでジャスティンとガブリエル、二人で芝居をしろ」
ファルコは車に乗る前、近くのコーヒー店で買ったコーヒーを飲んだ。口が乾いていたのだ。
「芝居?」
ガブリエルが聞き返した。彼は演劇の経験はなかった。
「あぁ、芝居だ」
「何の芝居を?」
「ジャスティン、耳を近づけろ」
ジャスティンはファルコに言われた通りに耳を近づけた。ファルコは後ろの席の二人には聞こえない程度の声量で話した。
「というかまだ三時過ぎですけどこんな早くからバーがやってるの?」
ルーシーが疑問に思っていたことを口に出した。
「あぁ一日中やってる」
「酒豪ね」
「まったくだ」
中に入るとそこは十数人の客がいた。時間は十五時三十分を回ったところだ。木材で作られた壁や天井、カウンターまでもがその雰囲気を作り出す。店内にはジャズが流れ更に雰囲気を付け足していた。辺りを見渡した。ルーシーはカウンター席に座るクルーニーを見つけた。スーツを着込み一人で飲んでいた。ルーシーはドレスを纏っていた。それは派手ではないが目を惹きつけるのに充分だった。その魅力は彼女の顔立ちもプラスされている。顔は比較的整っている方だった。彼女は他の三人から離れ、クルーニーに近づく。他三人はそれぞれ別の席へ座りルーシーを横目で見ていた。ルーシーはカウンター席に座る。そこはクルーニーの横の席だった。
「やぁ」
話しかけてきたのはクルーニーだった。彼は横に座るルーシーにいち早く気づいたのだ。そして和かに微笑み挨拶をした。
「こんにちは」
ルーシーも返した。クルーニーはバーテンダーを呼び注文をした。
「彼女にウイスキーを」
バーテンダーはにっこりと微笑みを見せ。提供の準備を始めた。
「ここにくるのは?」
クルーニーがルーシーに言った。
「初めて」
「そうか、ここはいいぞ。酒も料理も一級品だ」
「まぁ、それならここを選んでよかったわ」
「お嬢さん、今日は一人かな?」
クルーニーが口説き始めたのはルーシーにもわかっていた。彼女は待っていたかのような笑顔を見せた。
「どうだと思う?」
彼は周りを見渡し他に彼女のツレがいないかを確認した。
「いないな」
彼女は微笑み頷いた。バーテンダーがウイスキーを彼女に出した。彼女は軽く会釈するとバーテンダーは笑みで返した。彼女はグラスをゆっくりと持ち上げ、一口含んだ。
「ウイスキーの名前の由来を知っているかな?」
彼はルーシーに尋ねた。彼女はトンっと静かな音を立てながらグラスを置いた。彼もまたウイスキーを飲んでいた。
「いいえ、知らないわ」
「ウイスキーはゲール語で生命の水という意味でね。時代を経るに従い、ウスケボー、ウイスカ——」
「ウイスキーね」
ルーシーが付け足した。彼はそうだと言わんばかりの笑みを見せた。
「そうだ。その通り。ところで名前はなんて言うんだい?」
ルーシーは少し考えた後言った。
「レイアよ」
「レイア。いい名前だ。ハワイ語で天使だね」
「まぁなんでも知ってるのね」
「あぁこの世のことならなんでも」
「どこで働いてるの?」
「教授だ」
レイアの問いに対してクルーニーは笑って返した。クルーニーは教授とも呼ばれていた。
「あら、それならもっとあなたの知識を聞きたいわ」
「知識を聞きたい女性なんて始めてだよ。変わってるね」
レイアは少しムッとしたが流し言った。
「ねぇ知ってる? 女が魅力を感じるのは、筋肉、顔、性格、財力、力、権力、どれもあり得るけどもう一つあるの、それは圧倒的な知識を見せつけられた時よ」
魅惑的なその目はクルーニーを見つめた。それは全てを引き込むような目だった。それにクルーニーは引き込まれた。彼は自分が彼女に吸い込まれる危険を察知し目を背けた。その瞬間、彼女はバックから記憶処理薬をクルーニーのウイスキーに入れた。彼が視線を戻す前に溶けていく。クルーニーは視線を彼女に戻すと言った。
「サピオロマティック」
クルーニーは呟くように言った。それは哀愁さえ感じさせた。
「それも知ってるのね」
ルーシーはオーバーとも言えるほどのリアクションをとった。
「君は本当に魅力的だ」
彼はウイスキーを飲み干した。それは自分の自我を保つための行動だったが、その行動は彼女にとって待ち望んだものだった。ルーシーは角の席に座っていたファルコに目で合図を送った。彼はそれを確認するとジャスティンに手で合図を送った。店内には客がどんどんと増えてきた。店内が騒々しくなる。カウンター席も埋まり、ほぼ満席に近い状態だった。ルーシーの横にもクルーニーの横にも客が座っていた。クルーニーの瞳孔が開く。ボーッとしている。記憶処理薬が効き出している兆候だった。彼女はバーテンダーを呼び、ウイスキーを頼んだ。
「あぁ、ありがとう」
彼は我に返りバーテンダーと彼女にお礼を言う。ジャスティンはその一連の行動を見ていた。彼は席から立つとガブリエルの所まで歩いていく。その足取りは千鳥足だった。
「何見てんだ?」
ジャスティンが言う。ガブリエルは困惑した表情を見せ言った。
「なにが?」
「だから何見てんだって言ってんだよ」
ジャスティンは大声で言った。まるで見てられない酔っ払いのようだ。その声は店内の客全員の視線を奪った。それはクルーニーとルーシーも例外ではなかった。ガブリエルは席から立ち上がった。彼は馬鹿ではなかった。そもそも頭脳が足りてなければこの職に就くことはできない。それは静かに始まった。彼は腕を引き、手に力を込めジャスティンの顔を殴る。ジャスティンはよろけながらも殴り返す。周りにいた客が盛り上がった。そこには喧嘩を助長する者、止めに入る者、ただ傍観する者の三つに分かれた。ジャスティンは殴られると大きく演技しカウンター席に近づいた。それが彼の目的だった。彼はガブリエルの肩を掴むとクルーニーに向けて投げた。ガブリエルとクルーニーが激しく衝突する。クルーニーは椅子から転げ落ちた。ルーシーはカバンから記憶拡張剤を取り出し、クルーニーのウイスキーに入れようと手を伸ばした。だがそれは叶わなかった。記憶拡張剤は入れられなかったのだ。横の席の男に阻まれた。彼はルーシーの腕を掴んでいた。そして彼女の横には拳銃が突きつけられていた。彼は革ジャケットにジーンズを履いていた。
「やぁレイア。いやルーシー」
ルーシーの血の気が引いた。ジャスティンとガブリエルは殴り合っている。クルーニーはまだ立ち上がれてはいなかった。ジャスティンの目線が一瞬ルーシーに向いた。彼の観察力は群を抜いていた。その観察眼はルーシーに起こっている事を瞬時に脳に送り処理した。ガブリエルを蹴り飛ばし革ジャケットの男に当てた。男は席から転げ落ちた。その手に握られた拳銃にファルコが気づいた。彼は部門へ電話をかけた。
「ファルコだ。異常事態発生。赤の女王のクソ野郎が一人。応援をよこしてくれ」
ファルコはそう言うと電話を切った。赤の女王は単独行動を好む。それが集合体となって赤の女王という組織を作り上げていた。その事を彼は知っていた。新人オリエンテーションの一つだった。彼の若い頃の記憶が鮮明に蘇っていた。彼は隠していた拳銃を取り出しルーシーたちの元へ向かった。
「手を上げろ」
ファルコが男へ向かって叫んだ。それが彼の失態だった。店内はただの喧嘩ではないことを察知し混乱に陥った。客は外へと逃げ出していく。男は観念したかのように手を挙げた。男は挙げた手を銃の形にし自分の頭に突きつけ言った。
「バンッ」
ファルコの胸には穴が空いた。彼は膝から崩れ落ちた。彼はいつから赤の女王は単独行動を好むと記憶していたのだろう。彼の三メートル後方には拳銃を握ったもう一人スーツを着た男が立っていた。そしてその銃声はジャスティンやガブリエル、ルーシーの視線を釘付けにした。最初に我に返ったのはジャスティンだった。彼は男に殴りかかろうとしたがそれは叶わない。頭を撃ち抜かれ、その場に倒れた。次に我に返ったのはガブリエルだった。彼は椅子を蹴り男にぶつけた。そして半分パニックになりかけていたルーシーの手を掴み店から出るため走った。革ジャケットの男が何発か撃ったがその弾は当たらなかった。
「ジャスティンが!」
ルーシーは言った。同僚を失ったのだ。それは彼女の中で大きなモノだった。彼女は店に戻ろうと手を引っ張るガブリエルとは反対方向へと走ろうとした。
「バカか! 今戻ったら全滅だ!」
同僚を失ったということは彼も同じだった。そのままファルコが運転していた車へと駆け寄るが鍵を持っていないため車の扉が開かない。
「クッソ」
と扉に拳を叩きつけ、ガブリエルはまた走り出した。バーでは三人を残して他の客やバーテンダーはいなくなっていた。そしてその一人のファルコは死にかけていた。スーツを着た男が革ジャケットを着た男の手を持ち立ち上がるのを手助けする。
「ありがとな。ジェイ」
「あぁ、大丈夫か? ケイ」
ケイは革ジャケットを整えた。
「いつだ……記憶は……」
ファルコは言った。
「さあな」
ジェイはそう言うと拳銃を構え狙いを定めた。大きな銃声と共にファルコは死んだ。ケイのスマホが鳴った。
「あぁ、俺だ。二人片付けたがもう二人は逃げられた。教授は今そばにいる。大丈夫だ。こっちで確保している」
その足元ではジェイに銃を突きつけられたクルーニーがいた。
「なんなんだ。私を誰だと思っている?」
クルーニーは焦るような口調で言った。二人は軽く無視した。ガブリエルは走る足を止めなかった。ポケットからスマホを取り出し、番号を打ち込む。それはオリエンテーションで教えられた緊急連絡先だった。オペレーターが電話に出る音がした。
「緊急事態だ。赤の女王の襲撃を受けた!」
「そちらに緊急派遣部隊が向かっています。あと五分ほどで到着します」
オペレーターの声はガブリエルとは違いひどく落ち着いていた。ガブリエルは逃げるしかなかった。その手に繋がれたルーシーはまだ状況が把握できてはいなかった。五分ほど走るとガブリエルはビルとビルの間の路地に入った。そこは薄暗く、空き缶がいくつか落ちており灯りも乏しい場所だった。だが身を隠すのには丁度いい。彼らはそれなりの長い距離を走ってきていた。彼らの額には汗が滲み出していた。それを拭った。ルーシーは壁にもたれかかり疲れているがその顔には動揺が浮き彫りになっていた。
「なんで……今日が私の初日なのよ。ジャスティンは……」
ルーシーはジャスティンの状態については触れたくはなかった。
「あぁ、死んだ」
そのガブリエルの言葉がルーシーの心を突き刺す。
「そんなのわからないじゃない。まだ生きてるかもしれない」
ルーシーは反論する。彼女は必死だった。
「死んだんだ。見てただろ、頭を撃ち抜かれたんだ」
「そんな……」
ルーシーの心はボロボロだった。ガブリエルは彼女に近づき優しくハグをした。彼女はそこで今まで抑えていた涙が抑えられなくなってしまった。
「あぁ、嘘よ。そんな……神様」
彼女は涙が止まらない。ガブリエルは彼女を抱きしめることしかできなかった。ガブリエルも不安と仲間を失ったことによる悲しみに押しつぶされそうだったがそれを噛み砕き感情には出さなかった。その路地には二人以外いなかった。
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