襲撃

日時 十月十一日 十四時四十二分


キムは数十分前に名前も知らない職員から渡された緑と黄色の記憶処理薬、そして紫と白の記憶拡張剤を胸ポケットに隠し持っていた。記憶拡張剤は数十分前に作られたものだ。そこはカフェだった。茶色と白を基調としたカフェ。コーヒーの匂いが漂い、ショーケースの中には様々な種類のケーキが用意されていた。それはパティシエが朝早く出勤し用意したものだった。だが彼が店に出勤したのは、ほんの十分前の事だった。出勤と言ってもカフェのオーナーに身分証といくつかの守秘義務書類をサインさせたことを指した。彼はカフェの店員を装い、コーヒーをトレーに乗せ、ある客の席へ向かう。そこはテラス席。胸ポケットにしまっていた記憶処理薬を取り出し、コーヒーに沈めた。緑と白の色はすぐに消え失せ、粉々に溶けていった。それは雪のようであった。席に近づくと客はこちらに気づき、視線を向けた。客は本を読んでいた。キムにその文字を読めるほどの視力はなかった。キムは商業的な笑みを浮かべた。そっとテーブルの上にコーヒーカップを置くがそれは無音ではなかった。

「他にご注文は?」

キムは聞いた。

「いや大丈夫だ」

客は答えた。その態度はキムに対して苛立ちを見せていた。キムはそれに気づいていたが気づかぬふりをしていた。キムが離れていくと客はコーヒーを飲み始めた。それは日曜日の昼下がりであった。キムは客の名前を知っていた。名前はデイヴィット・ブラウン。記憶処理薬の投与は成功した。デイヴィットはコーヒーのほかにショートケーキを一つ頼んでいた。パティシエがショートケーキを一つキムに渡した。雪化粧した生地に苺が一つ上に乗っている。紫と白の記憶拡張剤を包丁で潰した。力を上からかけ、なるべく粉々になるように。その粉をあたかも元からの装飾のように塗した。キムはトレーに乗せ運んだ。席に着くとデイヴィットは一点を見つめていた。本は閉じられテーブルの上に置かれている。記憶処理薬の効果が出ていた。記憶の欠如が感情の欠如をもたらす。それは記憶の扱い方の基本だった。

「ショートケーキです」

キムがテーブルに置いた。デイヴィットはハッと気づき食べ始めた。記憶拡張剤の投与も成功した。彼が毎週日曜日にこのカフェで同じメニューを食べている習慣が任務の成功率を上げた。記憶の改竄は成功した。パティシエのところへ行き、キムは無言で握手を求めた。パティシエは、露骨に嫌な顔をキムに見せたがそれに応じた。キムは店の裏口から外に出た。そこは路地裏だった。ビルの壁に沿うように配置されているゴミ箱に制服を捨てた。彼はもう着替えていた。路地裏から大通りの方を向くと誰かが立っていた。キムは腰にしまってあった拳銃を軽く握った。後ろへ後退りをする。逆光でキムにはその誰かの顔は見えない。

「やぁキム。調子は? 俺は絶好調」

男は愉快と表現するのが相応しい口調で言った。革ジャケットにジーンズを履いていた。キムは男を知らなかった。男はキムに歩み寄ってくる。それと同時にキムも後退りをし距離を取る。

「記憶の改竄とは、褒められるような事じゃないねぇ」

男が言う。キムは何も言わない。顔が見え始める。顔は髭面という言葉がよく似合うほどの髭を生やしていた。

「記憶改竄部門所属は一般市民にまで記憶改竄を施すのかい?」

キムは何も言わない。もう一つの大通りがキムの背後にはあった。

「これだからヴァンパイアは」

男が腰から拳銃を取り出し、キムを狙った。銃声はサプレッサーと大通りの騒音によってかき消された。銃弾は足元に着弾し、キムには当たらなかった。キムは大通りに逃げた。男もその後を追いかける。歩行者の間をすり抜け、走っていく。男は歩行者を押し倒しながら走っていく。信号が赤になる。キムは渡る寸前で止まった。後ろを振り返ると男が追いかけてきている。キムは小さなジャンプを数回し、走り出した。彼にとって初めての信号無視だった。キムは少量の罪悪感を抱えつつ、命の危機も感じていた。彼は走り男から逃げることしかできなかった。腰の拳銃はあまり使いたくはなかった。彼は人に危害を加える事が苦手だった。勢いよく曲がり路地に入った。そしてすぐに曲がる。それを繰り返し男から逃げようとするが、男はついてきた。キムはふと立ち止まり、後ろを向いた。拳銃を取り出し、男に向けた。男は咄嗟に他の路地に身を隠した。キムは勢いよく走り出した。男はキムが逃げたことに気づくのが数秒遅かった。それがキムの狙いだった。男がキムを追跡することはできなくなった。それほど距離が開いてしまったのだ。彼の作戦は成功だった。キムは逃げ切り自分の車まで戻ってきた。息を整えながら車に乗りこんだ。ポケットを手で探り、車のキーを取り出した。エンジンをかけ、車を走らせた。バックミラーには男が写っていた。キムは息をすることを忘れていた。息を大きく吸い込み肺に酸素を強引に入れた。

「なぜあそこにいた?」

その疑問は誰かにでもなく、自分にでもなく、そこに広がる虚空に放たれていた。彼はしきりにバックミラーを見た。彼は追跡の可能性を考え、恐怖していたのだ。彼はスマホを手に取り、番号を打ち込む。相手はなかなか出ない。

「もしもし」

リンダが言った。キムは安心という感情が湧きましたが、すぐにそれを抑え込み言った。

「キム・カラスです。赤の女王の襲撃を受けました。バレてます。僕の名前も知っていました」

キムは要件をまとめ言った。

「えぇ、キム。私もそれは懸念していた。私たちの中にスパイがいる。手を貸して欲しいの」

リンダが言った。

「スパイですか?」

「えぇスパイ」

リンダは声の抑揚なく言う。キムは状況を理解するのにしばしの時間を用いた。

「わかりました。手を貸します。スパイの目星はついてるんですか?」

「いえ、まったく」

「大仕事ですね。もうすぐ部門に着きます。追跡されてる様子はないです」

キムは再度バックミラーを見ながら言った。

「そう。私も少ししたら戻るわ。こっちでも何かとあってね。部屋で待ってて」

リンダが言う。キムは電話を切り、運転に集中した。改竄部門まではあと五分ほどだった。キムはガムを取り出し口に放り込んだ。味はミントだった。彼にとっての気分直し。黒い車が横を並走する。四車線道路は並走をするのには、最適だった。その並走には理由があった。キムは並走してきた黒い車に即座に気づき、車内を見た。そこにはさっきの男が助手席に座りこちらに銃口を向けていた。咄嗟に体を横に反らした。窓に二つ穴が開く。キムは体制をそのまま保ってハンドルを黒い車は目掛けて切った。キムの車は黒い車にぶつかる。黒い車はそのまま歩道に突っ込み建物の壁に激突した。キムは体制を立て直し、アクセルを踏んだ。黒い車は動かない。キムはスピードを上げ、距離を取った。地下駐車場に入り、車を止めた。そこは部門の駐車場だった。部門は一般企業と偽り、ビル群にその影を潜めていた。キムはため息をつき、全身の力が抜けた。数秒、目を瞑り、車から降りた。備え付けられたごく普通のエレベーターに乗り込んだ。四階のボタンを押した。そこはリンダの個人用オフィスがあった。二階でエレベーターは止まった。乗ってきたのはノアだった。片手にはホットドックを持っている。乗り込むと五階のボタンを押した。

「キム。調子は?」

「襲われた」

キムは他人事のように答えた。ノアは齧り付いたホットドッグを咀嚼する。その時間はキムにとって長いものだった。それを飲み込むと彼は言う。

「女にか?」

そんなわけはなかった。

「違う。男にだ。命を取られるところだった」

「そりゃ一大事じゃねぇか」

ノアはホットドッグにかぶりつく。口元にケチャップが付くが彼は手でそれを拭き取った。ノアは急ぎ飲み込む。

「で、報告しに行くのか?」

「あぁ。ボスのところに」

キムは多少の苛つきを覚えた。会話は発展しない。

「食うか?」

ノアは食べかけのホットドッグをキムに差し出す。

「腹いっぱい」

キムは断った。エレベーターは四階に着いた。キムはエレベーターから降りた。

「幸運を」

ノアは閉まるエレベーターの隙間から言った。キムはリンダのオフィスに向かった。ガラスでできた扉の前にはアリスが立っていた。その後ろガラス越しにリンダが確認できた。

「中へどうぞ」

そう言いながらアリスは扉を開けた。ガラスと言っても防音ガラスだった。情報漏洩などへの徹底した対策の一環だった。

「キム。待っていたわ」

リンダは言った。椅子から腰を上げた。リンダは続けて言った。

「追手はどうなったの?」

「ええ、なんとか」

「そう」

その会話は実に淡白なものだった。その理由はすぐにわかった。

「赤の女王のスパイの件を話してもいいかしら?」

彼女にとってキムが襲われたことなどどうでも良かったのだ。彼女は今必要な行動の最善の選択をとっている最中だった。

「スパイは何らかの方法で我々の中に紛れ込んでいる、と言っても見分ける方法はない。記憶を弄られてたら尚更ね。だからあなたには探りを入れて欲しいのバレない程度にね。私の方でも探すわ。よろしく」

リンダの決定は半ば強制だった。そして簡潔だった。キムに頷く以外の選択肢はない。

「随時報告します」

キムは声を低くし言った。リンダは何も言わなかったが、表情は満足のようだった。キムは軽く会釈をし部屋から出ていった。彼はエレベーターに乗り込み五階のボタンを押した。静かに扉が閉まった。

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