赤の女王
日時 十月十一日 十三時二十三分
空気を切断するような音が無数に聞こえる。彼女の任務ではそれが日常だった。いや、日常と言うには非日常すぎた。記憶改竄部門特殊部隊。通称『チェシャネコ』ガスマスクを被り、黒い戦闘用スーツを着用した彼女らの任務は敵対組織の排除であった。見つけ次第排除する。彼らは部門が阻止したテロや戦争の数々は起こるべきものであり、それが人類の進歩につながると考えていた。『同じ場所にとどまるためには、絶えず全力で走っていなければならない』ルイス・キャロルの小説『鏡の国のアリス』の登場人物赤の女王の言葉が理念となっていた。彼らは自分たちを『赤の女王』と名乗った。そんな彼らは分厚い壁、そして数メートルの廊下の先にいた。彼女、ミア・ハーネスはチェシャネコの隊長だった。今年二十七のミアは二年前に部門に所属した。それにもかかわらず、その圧倒的センスや身体能力で隊長の地位についていた。廊下は薄暗く、劣化で塗装が剥げている。任務の遂行は計画通りだった。誰一人負傷者が出ていない状態で相手を建物の隅に追い詰めていた。海の近くにあるこの建物はすでに他隊員によって包囲されている。そしてほぼ全ての敵を排除した。完璧な作戦だった。だがミアのアサルトライフルの銃弾は尽きていた。隊員からもらうことも考えたが、その考えをミアは嫌い、拒絶した。自分の責任だったからだ。腰から拳銃を取り出す。コルトガバメント。彼女の愛銃だった。それは敵を排除し、自分の身を守るには充分な代物だった。壁から廊下の先を覗く。敵の数は確認できない。だがミアの中では二人と結論づけていた。彼女は深呼吸し自分の高なる心臓の鼓動を落ち着かせる。目を閉じ覚悟を決めた。
「廊下の先にいるのは二人。ここで排除するわ。合図するからそれに合わせて」
ミアは隊員たちと、ガスマスクからうっすらと見える目を見つけ、合わせる。防弾の盾を持った隊員が前に出る。その影に隠れるようにミアたちは後に続いた。敵はそれに気づき持っている銃を撃つが、銃弾は全て盾に弾かれた。二メートルほど近づいたところで、敵が弾切れしたのに、ミアは気がつき、影から飛び出した廊下の先の少しの空間に案の定、二人いた。左にいたチンピラ風の格好をした男に拳銃で二発銃弾を浴びせる。男が倒れる前に右にいる男に拳銃の銃口を向ける。ミアの行動が一瞬止まった。男は不思議な格好をしていた。いや、不思議ではなかった。ただこの場所にふさわしくない格好だった。綺麗なシワ一つないスーツを着て、ネクタイには大きなネクタイピンをつけている。年齢はミアと同じほどの年齢だろう。男は拳銃を降ろそうとしていた。それはこの場ではあり得ない行為だった。
「ミア——」
彼は言った。ミアは我に返り、銃弾を撃ち込んだ。二発目は頭に穴をあけた。彼はミアの名前を知っていた。その理由はミアにはわからなかった。彼女の名前が外に漏れることはない。それも漏れたとして、死ぬ間際に名前と顔が一致するだろうか。ミアは思考を巡らせるが、どこも行き止まりだった。彼女は倒れた男に近づき顔を見る。知人でもなんでもなかった。初めて見る顔だった。ミアは彼の胸ポケットに身分証が入っていることに気がつく。しゃがみ、そっと引き抜いた。そこには彼の顔写真と名前が書いてある。『ローガン・ハーネス』彼の名前だった。ミアは体が固まる。なぜ固まるのだろうか。彼は自分と同じ名前を持っている。理由として彼女には足りなかった。そして彼の声色が理由に付け足しされる。彼女の脳裏に焼きついた彼の声は悲しげで愛を感じていた。
「調べて」
ミアは立ち上がり隊員に言った。隊員は敬礼をし身分証を持って出ていった。他に所持品はないかと、息をしていないローガンのポケットを調べる。まだ残っている体の熱が手に伝わる。何か感触を感じた。ポケットから取り出すとそれはUSBだった。ミアは本能的にそれを拳銃ホルダーに入れ、上から拳銃で蓋をした。それは誰にも気づかれないための行動だったが、彼女の無意識下で行っていた。彼女にはなぜそうしたのかはわからなかった。
ミアは部門がある支部に戻り調査の結果を待っていた。カフェテリアで舌が痺れるほど濃く淹れられたコーヒーを片手に誰にも関わることがないだろう奥の方の椅子に腰を下ろしていた。彼女は多少の疲労感を感じていたが気にしてはいなかった。すでに一時間ほど経過していた。彼女のボスであるリンダに話すことも考えたが不在だった。昼休憩はすでに終わり、カフェテリアには数人しかいなかった。その中でもミアは目立っていた。彼女自身は気にしてもいなかったが戦闘用スーツのままであった。そんな彼女は調査の結果を持ってきた職員にとっては見つけるのを容易にした。その大柄な職員は情報班に配属されていた。ミアは彼に気づき立ち上がった。
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