ディナーの約束かと思ったわ
日時 十月十一日 十四時三十三分
そこは質素と表現するのに相応しい空間そのものだった。何もないに等しい廊下。目立っているのは受付係のデスクだ。リンダは暇を持て余し、受付係に話しかける。
「煙草を吸っても?」
「ダメです」
煙草を咥えながら話しかけるリンダに対し受付係は自分の書類仕事を行いながら答える。リンダは煙草を箱にしまい、ポケットに放り込んだ。
「あっそう。ダメなの。ふーん。貴方、名前は?」
リンダの質問は少々受付係を驚かせ、困らせた。名前を知るというのは大きな意味を持つものだ。受付嬢は少し迷う。見上げると期待に満ちたリンダの顔が目に入った。
「オールビーです」
オールビーは言った。彼女はファミリーネームを答える。リンダは期待していた答えではなかった。彼女の眉間にはシワが寄っていた。
「違うわよ。あなたのファーストネームを聞いてるの」
リンダはしつこく聞く。それはオールビーを更に困らせた。もしこれが仕事ではなかったから彼女はその場から逃げていた。
「ソフィアです。ソフィア・オールビー」
ソフィアは答えながらも書類仕事の手は止めない。
「ソフィアね」
リンダは繰り返す必要があった。二人の間に沈黙が流れる。それは短い時間だったが、リンダには長く感じられた。
「煙草は?」
リンダは聞いた。
「吸いません」
「いずれ吸うことになるわよ。そうしないとやっていけない」
リンダは煙草を取り出した。
「ダメです」
ソフィアは言った。今度は強く。リンダはハッと気づいたような素振りを見せ、煙草をしまった。リンダは暇を持て余しライターの火を点けたり消したりを繰り返す。一方、手を止めることなく仕事を進めるソフィアだが、彼女は手を止め一瞬、時計に目をやった。
「スミスさん。時間です。中へどうぞ」
ソフィアは手で扉を指差した。扉はダークウッドで作られ高級感を演出していたが、周りの壁が白いためそれはやけに目立っていた。リンダは扉を開け中へと入って行った。白い壁、白い天井、白い床。そこには窓はなかったが眩しいと感じるほどだった。そしてその部屋がまたダークウッドの扉の存在感を強調していた。室内はいくつか家具が置かれ、余計なものが一切なく無駄を省いた部屋だった。彼はその中央でデスクに向かっていた。横には秘書がいる。髪はかろうじて整えられ、メガネをかけ、スーツを着ている。だがそのスーツは彼に似合ったものではなかった。手にはボスの予定がびっしりと書かれたタブレットを持っている。誰もが想像する秘書の形を演出している。だがそこには足りないものがある。でもそれがどこかはわからない。そしてボスは見るからに高級そうなスーツを身につけ髪の毛は綺麗に整えられていた。それは彼が高い地位にいることを示していた。記憶改竄部門や複数の部門はCCA(Center Control Agency)という組織の一部であった。彼はその組織のボス。つまりリンダのボスであった。リンダは彼の前の椅子に腰を下ろした。
「秘書を雇ったんですか?」
リンダが切り出した。
「あぁ。そんなの一年前からだ」
ボスが言う。彼には確かにイラつきがあった。そのイラつきの正体についてリンダはわからない。
「で、要件はなんです?」
リンダは聞いた。彼女の言葉は疑問のほかには混ざっていなかった。彼女はここに呼び出された理由を告げられていなかった。ここに呼び出されるのは相当な緊急事態の時のみだ。
「記憶改竄部門の解体だ」
リンダは目を動かす。なにも言葉を発することができなかった。
「記憶改竄部門の行為は人道的ではないと判断した。人の記憶に入り、いじくりまわし、相手の記憶を奪う。どれだけ大きな事か。私は気づいた。これは私独断の判断だ」
ボスが続けた。
「なにを——」
リンダはやっと言葉が出るがその三音以外は思いつかなかった。ふと、秘書の方を見ると彼はリンダに銃口を向けていた。拳銃の扱いには慣れているようだ。
「そのため、君には辞職してもらう。重要機密事項を知っている君は殺害すべきだとユーリは言ったのだが、説得した」
ボスが言う。ユーリは横で拳銃を握り直した。
「彼は私を殺すつもりのようですが」
リンダは言った。そして続けて言う。
「お言葉ですが、今回私からも要件がいくつかございます」
リンダが言った。声は出るようになっていた。
「まず、記憶侵入剤。メモリーインベーダーが五階の倉庫からワンダース盗まれていました。これは相手の血液を三滴入れれば完成する品です。こんな事は初めてです。何者かが盗んだのでしょう。この組織内の誰かが」
「盗まれた?」
ユーリが言う。ボスはなにも言わずにリンダの話を聞く。
「メモリーインベーダーを盗むのは記憶の改竄を行うほかありません。誰かの記憶が改竄されているはずです。そしてボス。あなたが私たち記憶改竄部門を解体するのはあり得ない。あなたが人道的ではないと言うことだけで部門を解体するような人間ですか?」
ボスもユーリもリンダの上司への無礼な態度へ驚きつつも彼女の話に耳を傾ける。
「私たちは今まで、大統領選への関与、敵対組織による記憶改竄のカバーストーリーの流布、予防接種と偽った全人類への特定記憶の処理、数々のテロ行為の未然阻止。そして第三次世界大戦の阻止。これほどの大成を成した部門を解体? 笑わせないでください。ミスタークラーク」
彼女は発言に強みを持たせるためファミリーネームを呼んだ。ボスは名前を呼ばれることを嫌っていた。なので部下には自分をボスと呼ばせるようにしていた。
「無礼だぞ!」
ユーリが激昂する。だがそれは声だけだった。威嚇なのかは彼女にはわからない。
「ユーリ」
ボスが静かにそして威圧的に言った。リンダはボスとユーリの様子を見つつ続ける。
「記憶改竄はボス、あなたに使われたのでしょう。誰かに記憶の改竄を行われ、その影響で記憶改竄部門の解体という行動に至った。あなたに会えるのは組織の中で、そう多くはない」
床に置いたカバンに手を伸ばす。ボスは、カバンからリンダが何かを取り出すのを頷き許可する。彼女はカバンの中に手を突っ込んだ。何かを取り出した。その瞬間、ユーリの胸に三発の銃弾が撃ち込まれた。ユーリは撃ち込まれた時の衝撃と驚きから後ろの壁に向かって倒れこんだ。彼が自分の拳銃の引き金を引く時間は用意されていなかった。リンダは椅子から立ち上がる。リンダの手には拳銃が握られている。ボスは呆然としながら目を白黒させている。立ち上がったリンダはユーリに近づき銃口を向けた。彼には手に握られた拳銃の引き金を引く力はもうない。
「すべてが甘いわ。坊や」
「なぜ……」
ユーリが言い終わるのを待たず、リンダは四発目の銃弾を頭に撃ち込んだ。ユーリは動かなくなる。胸からの血がスーツに染み込む。目は開いたままだった。リンダはマガジンを抜き取り、そっとボスのデスクの上に置いた。
「彼が貴方の記憶を改竄した犯人です。他にも複数名いるでしょう。どこかで貴方の血液を採取し、消去し、改竄した」
彼女は淡々と説明していく。ボスはその光景に安堵、驚き。そして恐怖を感じていた。
「だがユーリは一年前からいた」
「その記憶は真実ですか?」
リンダは苛立ちを覚えながらもそれを押し殺し言った。ボスは黙っていた。
「それではお尋ねしましょう。彼の席はどこですか? 一年前彼はいなかった」
部屋にはボスのデスクしかなかった。
「彼はどこに収まるのですか?」
続けてリンダが言う。
「それじゃあ、記憶改竄部門の解体も……」
「えぇ、彼もしくは他の仲間が植え込んだ記憶でしょう。あなたが私たちを嫌う理由を作った。それをピンポイントで突いています。相当な手慣れでしょう」
リンダは言い終わるとポケットから煙草の箱を取り出し一本抜き取った。口に咥え、ライターを取り出す。リンダはボスの方を見て煙草を吸っても良いかを確認した。彼は圧倒され、頷くほかなかった。火を付け吸う。鼻から煙を出した。全身の力が抜けた感覚を味わった。
「記憶は脆く強固なものです。まだスパイがいるでしょう。どうします? 始末しますか?」
椅子に腰掛け足を組み煙草を片手に言った。それは上司へのボスへの態度ではなかった。
「あぁ。始末しろ。一人残らずだ」
ボスは言う。リンダはその言葉を聞きたかったかのように瞬時に立ち上がり部屋から出て行こうとする。
「私の記憶はどうすればいい?」
部屋の扉に手をかけていたリンダに問いかけた。リンダは顔だけ振り返り言う。
「そのうち処理班が来ます。彼らがあなたの記憶を元通りにします。彼らの指示に従ってください」
リンダは部屋から出ていく。部屋を出て受付の前を通る。
「スミスさん」
ソフィアが言った。リンダはキョトンとした顔でソフィアの方を向いた。
「禁煙です」
ソフィアが言った。リンダは彼女の顔に浮かぶ怒りに気づいた。リンダは自分の勘違いに気づき微笑み、ゆっくりとソフィアに歩み寄った。
「ディナーに誘われるかと思ったわ」
リンダは咥えていた煙草をソフィアの口に咥えさせる。その行為にソフィアは戸惑い、驚き、困惑した。彼女は何が起こっているのか、理解できず動けなかった。ソフィアは去っていくリンダの背中を見る。彼女が見えなくなったところで我に返った。口に咥えていた煙草を指と指の間に挟み眺める。
「禁煙なのに……」
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