None

@NonsickSA

Prologue


私はいままで一度だって、物事を正しく行えたことがない。毎回間違えて、その間違いに気づいたときには、もう手遅れになっている。でも、と私は思った。この一度だけは、お願いだから、正しかったと言わせてほしい。冷たく暗いアスファルトの道に、無情にも雨が叩きつける。命が抜けていく手を感じながら、私は嘆く、誰にも届かなかった思いを。 

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最近ギシギシとおかしな音を立て始めたドアをゆっくり開けて、私は暗く湿っぽい我が家に入った。家の中は真っ暗で、数歩先も見えない。私は静かにリビングの電気をつけた。朝、私が出ていったときと何も変わっていない。ほっと息をつき、雨で濡れた傘を傘立てに戻した。冷たい湿気が手に残る。


靴を脱ぎ、部屋に入った途端、今日一日分の疲れが、急に思い出したかのように襲ってきた。時計を見れば、今は日本でいう朝の1時だ。本音を言えば、このままソファで眠ってしまいたいが、明日も学校だ。お風呂に入らなくては。


ジャケットを脱ぎながら、ふと奥の部屋を伺った。電気はついていない。弟はもう寝ているのだろう。心の中で、今日も一人にしてごめん、と謝った。私の家は父子家庭で、私、名前は静海しお、弟の静海うみ、そして、父の静海きょうで成り立っている。昔は両親がふたりともいたのだが、ギャンブルと競馬中毒になった父から逃げて、未だ行方はわかっていない。

 しかし、それも12年以上前のことだ。今の私の年齢は17歳、高校3年生だ。母が出ていったのは私が5歳のとき、まだ何にも気づいていなかったときだったので、「ママはどこ?」と泣きじゃくった。しかし弟はその時まだ3歳で、何もわかっていない様子だった。今でも別に気負った様子はない。父はというと、母の失踪の後でもギャンブル中毒が治るわけではなく、最終的にはわたしたちのご飯用のお金を全部使ってしまうというハプニングまであった。

 

 そんな劣悪な家庭環境の中では、どうしても子どもが働かなくてはいけなかった。長女である私は、中学生の頃から掛け持ちでバイトをし始めた。高校生になった今では、毎日3時間もろくに寝れないくらいに厳しいスケジュールで働いている。それもそのはず、3人分の食費分を高校生が稼ごうと思ったらそれぐらいは働かなくてはいけないのだ。しかし、残念なことに父は私がそこまでして稼いだ金も、すべてギャンブルに使ってしまう。毎日、食べ物を持ち去り、何もなければ家の中の金目の物を持っていく。それが彼のやり方だった。盗むという表現はおかしいかもしれない。ここも一応は彼の家でもあるのだ。しかし、父が家に顔を出すのは飯を取りに来たときか、金をよこせとせがんでくるときだけだ。さらに、最近はもっとシリアスな状況になってきている。なんと、父はいわゆる闇金に借金をしているのだ。金額はなんと1000万円。ほぼ毎日、私のもとにやって来て、金を要求してくる。父は払えないと判断したらしい。黒いベンツに乗ったいかつい三人の借金取りが頭をかすめる。黒いサングラスに、腰にある小さな拳銃。書いだだけで顔をしかめてしまうような、違法な薬物の匂い。あともうすぐで、最終手段を使ってくる気がしてやまない。明日も来るのだろうか。不安でよく眠れない。このままでは弟にも被害が出るかもしれない。そうなる前になんとかしたいのだが、家にはそんなお金はない。あるわけがない。私はそれからより一層バイトを頑張った。働く時間を増やすにつれて、もらえる額も上がった。それでも、まだまだ足りなかった。このままだと、一生経っても返せそうにない。恐ろしかった。もし払えなかったら、違法なことを平気でやってしまう大人たちが、権力も何もない私たちにどんなことをするのか。ただただ、怖かった。

 

誰もいないリビングに一人、ぼんやりと座り込む。空っぽな部屋の中で、ただ一つ心に浮かぶのは、「どうしてこんな生活をしなくちゃいけないんだろう」―その疑問だけだった。いつも、一人バイトから帰ってきて、思うことだった。普通の高校生なら、いくらだって、自分の将来のために勉強ができて、お金のことなんて心配しなくていい。自分と弟の明日の食べ物の心配なんてしなくていいし、兄弟の誕生日には甘いケーキを用意できる。なのに、私は、自分どころか弟まで金の心配をしなくてはならない、誕生日なんて、おめでとう言い合って二人でひっそりと祝うことしかできない。そんなのずるいじゃないか。親が失敗しただけなのに。すると、ガチャリと音がした。後ろを振り返ると、パジャマ姿のうみが、眠そうな目でこちらを見ていた。そして、「おかえり、ねえちゃん。夕飯美味かったよ」と、ゆったりと笑いながら言った。つかれていた心に、その優しい言葉がしみた。

  「うん、ただいま。遅くなってごめんね」私はできる限りの優しい顔で言った。うみは、まだ眠そうに、「ううん、大丈夫だよ。遅くまでありがとう。」そして一つ可愛らしいあくびをしたあと、「もう寝るね、姉ちゃんも早くねなよ。おやすみ」といって部屋へ戻った。涙が溢れそうになるのを必死でこらえ、「おやすみ」と小さく呟いた。心の中でうみに、ありがとうと、そう思って。なんだか部屋が幾分明るくなった気がする。今までの暗い気持ちはもう吹き飛んだ。顔をパチパチと叩いて、頭をリフレッシュする。シャワーを浴びるよう。うみだけが私の生きる理由だ。うみがいれば私は平気だ。どれだけ疲れていても、どれだけ辛くたって、うみがいるなら頑張れる。こんなに厳しい生活を続けられている一番の理由だ。私は、あんな父親にお金を渡すために働いているわけじゃない。私は、うみが笑っていられるように、ずうっとうみと一緒にいられるように、がんばっている。うみがいるだけで、私は世界で一番幸せな女子高生になれる。 パジャマに着替え、ふわふわの布団にくるまった瞬間、胸があたたかく満たされるのを感じた。うみがいるから、私は何も怖くない。


次の日の朝、私は朝の5時から2人分の朝食を作っていた。父は昼と夜以外は飯を取りに来ないので二人分で十分だ。解いた卵をフライパンにいれる。ジュージューと美味しそうな音がした。あと一時間くらいしたらうみが起きてくる。制服を着て、まだ眠そうにしながらパンにかじりつくんだ。その様子を考えながら、丁寧に卵巻きを作る。小さな頃から料理は作り慣れている。これくらい朝飯前だ。さて、ときれいに巻き終わった卵焼きを皿に盛り付けてから思った。今の時刻はちょうど午前5:40分、あと20分ほど、仮眠でもしようかな。そんなことを思っていると、急にドアが大きな音を立てながら乱暴に開いた。私はすぐに振り返り、目に写ったのは黒尽くめの大人たちだった。その瞬間、私の心臓が痛いくらいに鳴りだした。どうしよう、どうしよう、どうしよう。その言葉で頭が埋め尽くされる。三人の大人たちは皆、顔に不敵な笑みを浮かべている。一歩、二歩と後ろに後退る。それに合わせて、大人たちは土足で家の仲間で詰めてきた。いつかこんなことになるんじゃないかと思っていたことが、起こってしまった。借金取りが家を押しかけてくること。違法な大人たちのことだ、私の家の住所くらい調べるまでもないのだろう。私はとっさにさっきまで使っていたフライパンを構えた。震える手で一生懸命に武器を構える。すると、大人たちの中のひとりが腰から拳銃を見せびらかすかのように持ち上げた。「嬢ちゃん、フライパンで戦うなんて、どっかのプリンセスに憧れてでもいるのか?」ザラザラと耳に残る声で笑った。私は震えて声を出すことさえできない。「そろそろ金返せ。期限すぎるっちゅうねん。」関西なまりの口調でそういったのは、一番小柄な男だった。「ご、、、ごめんなさい。お、、お金が、、、足りないんです」震える声をなんとか抑えて、私は言う「あと、もうちょっとだけ、、、、ちょっとだけでいいから、待ってください、、、、、お願いします!」所々で声が裏返ったせいで、よく聞こえなかったのかもしれない。いや、きっと聞こえてはいたのだろうが、相手に聞く筋合いはない。「金返せつってんだろ?返さねぇならこっちも違法な手使うぞ?」いや、人のうちに勝手に入って拳銃を向けている時点で違法なのだが。そんな常識は通用するはずがない。そんなとき、さっきまで無口だった男が付け足した。「たとえば、嬢ちゃんの弟の命をいただく、、とかな」その目は玄関の写真立てに向いている。私は一瞬考えることができなくなった。さっきまでずっとしつこかった震えもピタリと止んで、今、私の頭の中にあるのは、弟を守らなければならないということだけだった。 私は膝から崩れ落ちるようにして、床に額を付けた。なんだか、妙に心が落ち着いていた。「今ある分のお金はすべて出します。それで足りない部分は、行動で補います。何でもします。」必死に言葉を絞り出す「だから、弟だけは、弟だけは、やめてください。」目から水が一筋たれた。それが涙だとは、どうしても思えなかった。今まで心のなかにあった迷いがすべて、この一滴で流れ落ちたのだと思った。この大人たちの考える、

”なんでも”とは、人として絶対にやってはいけないような、非道なことばかりなのだろう。それでも、弟の命と私の人としてのプライドなんて、重さの加減が違いすぎる。私には、うみしかいないのだ。私の命なんて、どうでもいい。うみが笑顔で生きていけるなら。頭上でふっ、と笑い声が聞こえた気がした。背の低い男が近づいてくる。「言ったな?」私は再度コクリと頷いた。その言葉に従うしかない。そうすることで、うみを守れるのなら。それだけが私の唯一の希望だ。男は一度頷いてから、さらりと続けた。「今日の午後二時に、この近くの車倉庫に来い。そこでやることを教えてやる。」私は再度コクリと頷いた。もう怖いともなんとも思わなかった。大人たちはそのままさっさと家を出ていった。リビングに残されたのはひとり座り込んでいる私と、もう冷めきってしまった卵焼きだけだった。

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