汚濁の闇と、知る思い
*
まず目に飛び込んで来たのは、痛みを覚える程の刺すような悪臭だった。
視覚情報よりも先に強烈な臭いが染みて自動的に涙が滲んだ。嗅覚どころではない、脳を直接侵す刺激臭は既に暴力の域だ。涙の膜の向こうに広がるのは、黒茶けた闇だった。鼓膜が破れよく聞こえない耳にノイズのように嘲笑が響いた。
周囲は暗い、夜のようだった。びりびりの皮膚を風が撫でて痛みを与え、それ故にそこが外であると知れた。生身の膝が擦り切れてじくじくと苛んでいる。状況から、加賀地は恐らくビルの裏手の駐車スペースだろうと見当を付けた。
幾人もの人物の気配が蝮澤を囲んでいた。『役』の男達に違い無い。
繁華街の裏手に位置するこのビルの周囲は、深夜になると人の往来がほぼ無くなる。人相の悪い者が出入りするこのビルに近付こうとする者は皆無だろう。更にこの駐車スペースはブロック塀や他のビルの壁に囲まれており、人の目が届く事は無い。
そして、四つん這いにさせられた蝮澤の眼前には、──重い蓋を開けられた浄化槽の穴があった。
今は下水道の整備が進み使われなくなった、いわゆる便槽である。昔は簡易水洗で流された汚物はここに溜められ、定期的に清掃業者のバキュームカーによって吸い出されていたのだ。もう使用されなくなって久しい浄化槽には溜まった汚物がそのまま残され、腐った汚泥が黒々と闇より濃い汚濁を湛えている。
そのおぞましさに加賀地はただ震えた。心の中では蝮澤のどうしてどうしてという呟きだけが狂ったようにこだましている。立ち昇る腐れた悪臭が喉から肺から身体を内から冒していくようで、吐き気が治まらない。
ぐい、と不意に髪を掴まれ、ぶちぶちと塊となって抜け落ちる。必死で伏せて逸らそうとしていた視界が無理矢理穴へと向けられる。黒茶じみた汚泥の中、薄汚れた白がやけに目立つ。それは蛇の白骨化した死骸だった。途端、何故だか涙がぼろぼろと溢れた。
覚悟も無いままに、衝撃が身体を襲う。強制的な浮遊感に、ろくに動かない手足をばたつかせる。そんなささやかな抵抗すら無意味で、呆気なく、顔面からびしゃりと昏い腐泥の中へと突っ込む。跳ねた飛沫が身体を濡らす。息が出来ず、ずぶずぶと糞尿汚泥の中へと頭から沈み込んでゆく──。
ああ、死ぬ、死ぬ、腐った糞便に溺れてこのまま死んでいくんだ……そんな絶望と嫌悪と諦念が心を支配する。叫びすら上げられず、穴という穴から穢れが浸食し、入り込んだ汚濁が満たしてゆく。
ここで終わってしまうのか、と深い深い蝮澤の絶望が加賀地の脳を汚染する。
閉じかけた思考の中で、楽しかったであろう思い出が微かに浮かんでは消える。母と二人だけのささやかな誕生会、皆で頑張ってクラス優勝した体育祭、惜しくも準優勝に終わった合唱部のコンクール、修学旅行で行った北海道の動物園、学校帰りに友人と寄ったカフェのキャラメルラテ、そして──。
フロッグメイトで仕事をしながら交わした、他愛ない会話。浮かんだのは、加賀地のはにかむような笑顔。
とくりと淡い拍動と共に最後にその思いだけを残し、──蝮澤美鈴の思考は、ぷつりと途切れた。
加賀地は絶叫した。
それ以降、広がった闇はもう何も語らなかった。
*
自らの叫び声で加賀地は目を覚ました。
見慣れぬクリーム色の天井に、一瞬自分が何処に居るか分からなかった。室内着が大量の寝汗でべっとりと身体に纏わり付いていた。数拍置いてビジネスホテルに泊まっていたのだと思い出す。身を起こすと同時、腹の底から嘔吐感が込み上げる。
「……っ、う、ぅうう、っ、ぅうええぇえええっ、げ、お、っごぼおおっぁおごおおおっ」
慌ててトイレに駆け込み、便器に顔を突っ込み盛大に吐いた。喉を灼きながら胃の内容物がどぼりどぼりと溢れ出る。ぎゅう、ぎゅう、と何度も胃が痙攣し、びしゃりびしゃりと口から吐瀉物が逆流する。鼻に入り込んだ汁が粘膜を爛れさせ、ツンとした痛みに噎せ返った。
吐く物が無くなっても胃の痙攣はなかなか治まらず、その度に胃液が喉を灼く。酸っぱさと苦みが口内に広がり、げえげえと空気を絞り出しながら舌を突き出して涎を吐いた。鼻水が垂れ、滲む涙と共に口に流れ込んでぬるりとした塩味を齎した。
ようやく吐き気が治まると、身体から強張りが抜けて加賀地はぐったりと脱力する。便座に縋り付き、荒い息をつきながら乱暴にトイレットペーパーで顔を拭った。何度も口内の不快感を唾液と共に吐き出し、鼻をかんで痛みに顔をしかめる。酸っぱい匂いが鼻をつき、ペーパーを投げ入れて水を流した。
壁に手を突いて立ち上がり、よろよろと洗面台へと向かう。水で何度もうがいを繰り返すが不快感はなかなか消えなかった。不意にぼろぼろと涙が溢れ出た。歯を食い縛るが涙は止まらない。冷たい水で顔を洗い、流水で涙を誤魔化す。顔を上げると、ポタポタと垂れる雫は頬を伝い顎から滑り落ちた。
何度も脳裏を過るのは、蝮澤美鈴の最後の記憶。彼女に話し掛ける、はにかんだ表情の自分の顔。
「なあ、蝮澤さん。──何で俺なんだよ、……もしかして、そうだったのかよ」
もし、好意を持ってくれていたと知っていたら。もし、もう少しだけ自分に勇気があったなら。もしかしたら、彼女の運命は違っていたかも知れない。
また涙が溢れ出す。悔しさ、情けなさ、怒り、哀しみ、──何より、無力だと自分を決めつけていた、自分への苛立ち。
痛め付けられた彼女を連れ出して逃げるなんて、出来ないと最初から諦めていた。『役』の面々に反抗するなど考えもしなかった。そんな自分の愚かさが蝮澤を殺し、更に八木有里朱までもを殺す切っ掛けを作ったのだ。
次々と流れる涙の雫を乱暴に拭い、加賀地は再度冷水を顔に叩き付ける。泣いている場合では無い。後悔など、何の役にも立たない。
加賀地が夢という形で蝮澤の記憶を見たのは、偶然などでは決して無い。彼女の思いの残滓がきっと加賀地に向いていた所為だ。ならば、自分は彼女の思いに応えなければならない。──加賀地はそう、奥歯を噛む。
きっと自分にも出来る事がある筈だ。加賀地は鏡の中の自分を睨み付ける。少し赤くなった目の奥には、──決意の炎が、宿っていた。
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