惨い記憶と、続く夢


  *


 『蛇』の核は行方不明の女性のどちらか──その言葉に、加賀地は息を飲んだ。その意味を上手く理解出来ず、加賀地はムクロとスガタの顔を縋るような眼で交互に見遣った。そんな加賀地を憐れむような目でスガタが見遣る。


「あれは恐らく、死んだ女性の魂を利用し何者かが作り出したものでしょう。その意図や目的は分かりませんが、社員の誰かの仕業と思われます。襲われている人員が下の構成員ばかりというのも、何らかの意味があるのでしょう」


 スガタの解説に加賀地は唇を噛む。ただの化物だと思っていた蛇が女性達に関係があるという事、それから仲間だと思っていた社員の誰かが関与している可能性──、それらが加賀地の感情をぐちゃぐちゃに掻き乱す。


「加賀地君は気にする必要なんて無いわ。悪いのは女性をこんな目に遭わせた『役』の連中と、それを利用して人を襲わせている奴なのよ」


 ムクロの慰めにそれでも加賀地は眉根に強く皺を寄せた。あどけなさを残す顔はくしゃりと苦悶に歪んだ。堪えるように微かに首を振る加賀地に、すみません、とスガタは申し訳無さげに声を掛ける。


「最後に一つ。──この、酒月蝶華という人物について、知っている事を教えて貰えますか。他の二名の女性がそのような扱いを受けたのに対し、何故この人は『役』の組に入れられているのか、その理由も出来れば」


 ああ、と加賀地は声を漏らし、深呼吸して気分を落ち着かせる。そうしてから顔を上げ、やがて酒月蝶華について語り始めた。


 ──どうやら酒月蝶華は河津の恋人であるようだった。しかし加賀地は、彼女がいつから河津と付き合い始めたのか分からないと言う。気付かない内に自然と輪の中に溶け込み、気付いた時には既にグループの中で存在感と発言権を有していたようだ。誰も彼女には逆らわず、河津も会社そのものも彼女の言いなりなのだそうだ。


「少しキツい感じの美人で色っぽいてかエロいってか……でも社員て扱いじゃなくて、気ままに気が向いた時だけ来るって感じだったかな。俺は好みじゃないからそんなでもなかったけど、マジ惚れしてる奴は女王様みたいに崇めてたよ。今考えると妙だよね、これ」


 首を捻る加賀地に、二人も揃って顔を見合わせる。どうやら、その女性三人が今回の事件において鍵である事は疑いようが無い事実のようだ。


 それからしばし会話を重ね、夜が明ける前に三人はそれぞれの部屋で眠りに就いた。


 それまでは何日かに一度襲って来た蛇だったが、恐らく獲物を仕留め損ねた今回は連続で現れるに違い無い、とスガタは考えていた。次の真夜中で事件を終わらせる──スガタはそう決意しながら意識を手放した。


 今夜には『彼』も到着する筈だ。あのような痛ましい、哀しみだけの存在を次こそ葬らねばならない、とムクロは固く瞳を閉じる。意図せず他人によって穢された魂の辛さは、──自らが一番、知っている。深く、昏く、呼吸を整えムクロは鼓動を確かめた。


 そして加賀地はなかなか眠れずにいた。それまでの四人の死に加え、自分が襲われたという出来事は、加賀地の魂を揺さぶるのに充分な体験だった。自分を見捨てた仲間達、ヒーローの如く救ってくれたムクロ、蛇のおぞましい匂い、そしてあのビルと社員達の闇──。


 今迄目を背け見て見ぬ振りをしていた真実が、心の内に刃物のように突き付けられる。蝮澤美鈴の笑顔や朗らかな声が、痛々しい姿と絶叫に塗り潰される。這い寄る闇に、心が鷲掴まれて染められて行く。疲れが、動揺が、眠りという形で心を蝕んで行く。


 ああ、俺、蝮澤さんの事好きだったのかな──。加賀地はぼんやりとそう思い浮かべながら、濃い黒の中へと飲み込まれていった。


  *


『──ぃぎゃああぁあぁあっっいぎぃいいひぎぇああっっああぁああっっ!!』


 ──絶叫が脳を掻き毟る。


 覚醒しない意識が状況を飲み込めず、押し寄せる全身の不快感に加賀地はただただ呆然とする。相変わらず濁音だらけの絶叫は鼓膜を突き破り脳を抉り続けている。訳も分からないまま、それでも少しでも不快な物を遮断しようと眼を閉じ耳を塞ごうとするものの、身体は一切動いてはくれない。


 薄暗い部屋、微かな糞尿の匂い、古びたマット、手首の痛み、肌寒い空気、喉に絡む苦み、皮膚を覆う汚濁、関節の軋み、胃を苛む吐き気、腹に響く鈍痛、内臓を押し上げる圧迫感、滲み霞む視界、熱を持つ頬、貼り付く髪の毛、そして──心をなぶる嘲笑と、それを掻き消す程の絶叫。


 ああ、とここで加賀地はようやく理解した。これは、夢なのだ。蝮澤が受けて来た仕打ちを、夢で体感させられているのだと。


 やはりあの『蛇』は蝮澤だったのだろう。蛇に対峙した事で、自分が蛇に残った彼女の記憶を追体験してしまっているに違い無い──加賀地はそう納得する。それが今一番、この状況にしっくりと来る応えであった。


 ぼやけた目で周囲を見渡す。やはり場所はあの地下の部屋だ。『役』の男達の姿が何人も見えた。身体の圧迫感に呼吸が詰まる。それでも吐き出す息は叫びとなり、吸う息は喘鳴と嗚咽に変わる。


 揺さぶられる度にたぷたぷと水分で膨らんだ腹が揺れて苦しみを増す。深く穿たれる度に内臓が押し上げられて嘔吐感が喉を灼き、折り畳まれるように押さえ付けられた脚が更に苦痛の圧を増やした。


 シュッ、と誰かがライターを擦る音が鼓膜を震わせる。漂い始めた紫煙の香りに反応しびくりと身体が強張る。満足に動かせない腕が掴まれる。そして不意に、鋭い痛みが脇を貫いた。身体が痙攣する。濁音が喉を灼く。笑いと叫びが絡み合い、そして杭が引き抜かれた奥から小水と汚濁が漏れ出して皮膚の焦げる匂いと混ざり合った。


 ──どうして、どうして、とそればかりがぐちゃぐちゃに荒らされた脳の中で繰り返される。


 幼少の頃に父が亡くなり、母は苦労して蝮澤を育て上げた。高校を出て就職すると同時に自らの役目は済んだとばかりに母は病気で呆気なく他界した。近しい親戚もおらず天涯孤独の身となった蝮澤が入社した会社は酷いブラック企業で、精神を病み二年程で耐えかねて辞職した。


 アルバイトを転々としながら何とか食い繋ぎ、必死で再就職先を探した。しかし手に職も無く通院歴のある小娘を雇ってくれる会社はそうそう無かった。そんな中、インターネットの求人サイトで応募した会社の一つが好感触で、ようやく面接までこぎつけた。即採用となった蝮澤を待っていたのは雑用ばかりの日々だったが、それでも満足な、筈、だった──。


 腹に誰かの爪先がめり込んだ。おごぅ、と喉が痙攣する。次いで胃の内容物が駆け上がり、口から、鼻からごぼごぼと噴き出した。粘り気のある吐瀉物は黄色みを帯びた白濁ばかりで、べしゃべしゃと乱れた髪や肌に絡み付いた。生臭い匂いに何度もごぷごぷと胃が搾られ、噎せる苦しげな咳に嘲笑が混じった。


 どうして、どうして、という蝮澤の思考に加賀地は絶望を覚える。こんな仕打ちを蝮澤は受けていたのか、と彼女を忘れ動こうとしなかった自分に怒りが湧いた。滲む視界の向こうに『役』の男達の顔が霞む。


 ──不意に、意識が黒く塗り潰される。恐らく蝮澤が気絶したか眠ったか、とにかく意識の無い状態になったのだろう。これは夢だ、と自分に言い聞かせながら加賀地は待つ。自らの意識は蝮澤の記憶とは違いはっきりしている。


 拍動らしき音のみが響く闇の中で、加賀地は呼吸を殺し、ただ待った。蝮澤が目覚めるのを、記憶の時間が再び動き出すのを。


 ──そして再び、視界が開けた。


 見開かれた目に飛び込んできた光景に、──加賀地はただ、絶望した。


  *

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