昇る螺旋と、響く音


  *


 その『蛇』は月光の下でぐねぐねと身体を捻り、くねらせ、空を掻くようにのたうちながら八階の窓へと近付いてゆく。びちゃびちゃと穢らわしい臭いを放つ粘液を撒き散らしつつ、生理的な嫌悪感を催させる歪つな動きを繰り返す。


 ──このままではまた、死者が出る。どのような悪人であれ、生命は一方的に奪われて良いものでは無い。は、と我に返り、スガタは慌ててポケットから端末を取り出した。


「封印解除申請! スタレ・スガタの〇一段階限定解除を申請する!」


 スガタが端末に向かって叫ぶ。今張ってある結界はただの人払いに過ぎず、建物を壊したり一般人に見られて困るような大型の什器は使えない。せめてライフルで狙撃でも、というつもりなのだろう。


 ムクロは唇を引き結ぶと、覚悟を決めた。近距離でしか戦えない自分がどうするべきか──考えるまでもなく、身体が動いていた。


「私、行くわ主任」


「ムクロ嬢、行くって何処へ!?」


 封印解除の申請が降りたらしきスガタが、虚空から長い銃を取り出しながら問う。ムクロは既に走り出していた。バサリとコートを翻し、ワインレッドの髪を靡かせながら叫び返す。


「当然、──八階よ!」


 返答など聞かぬままにムクロはビルに飛び込んだ。一気に闇の気配が濃く押し寄せる。がりがりと不穏な霊気がうなじを、背骨を引っ掻き、肌を粟立たせる。


 エレベーターにちらり目を遣るが、ランプは八階に灯っている。今から一階まで呼んでいたのでは遅いと一瞬で判断し、コンクリートの階段を強く蹴る。さほど広くは無い螺旋状の空間に、ヒールを打ち付ける音が高くこだまする。跳躍を繰り返し、七段飛ばしで階段を進む。


 旋風のようにムクロは駆ける。髪が乱れ汗がつぶてとなって落ちる。踊り場を照らす薄暗い照明にコートの黒革がギラリと光る。暗闇に包まれたフロアに一瞥もくれず、ひたすらにヒールを鳴らす。五階、六階、七階──より強く跳躍すると手摺りをひらり乗り越え、そして驚異的な速さでムクロは八階に到達した。


「こっちね」


 くん、と鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ方向を定めると、歩みを停める事無くムクロは走る。ヒールの音は壁に天井に高く反響し闇の気配を切り裂いてゆく。元は綺麗だったのであろう廊下は埃まみれで、枯れた観葉植物の鉢が転がっている。荷物やダンボールが積まれたままの薄暗いその空間を一気に抜ける。


 現場と思しき明かりの漏れるドアに到着すると、ムクロは勢いそのままに荒々しく取っ手を握り強く、引いた。


 バン、と生温かい空気の塊が扉から一気に溢れ出た。眩い空間に転がり込んだムクロの目に飛び込んで来たのは──。


「蛇、が……!」


 それは、阿鼻叫喚だった。


 汚濁を撒き散らし空間を汚染しながら蠢く巨大な蛇、その脅威から逃げようと右往左往する青年達。まるで結界を張ったかのように彼らは部屋の一定のラインから外には進めないようで、誰もが蛇のターゲットになりたくない一心で他の者を盾にしようと醜く争っている。


「どいてッ! どきなさいッッ!!」


 ムクロは強く床を蹴り跳躍すると、コートを翻し前腕と下肢から勢い良く骨を伸ばした。スナップが一気に弾け飛び、メリメリと肉を裂き血を飛び散らせながら白い骨が光に映える。


 大口を開けた蛇の前では、一人の青年ががたがたと震え小水を漏らし座り込んでいる。腰が抜けているのだろう、必死で後ずさろうとするものの力が入らず上手く進めないようだ。


「たす、誰か、助け、ひい、あああああ、嫌だ、死にたく、」


 うわごとの如く震える声をぼろぼろと零しながら、青年は涙と鼻水と涎を垂れ流す。悪臭を放つ蛇の牙がギラリと光り、ボタボタと汚泥を垂らす舌が青年へと伸ばされる。意味を成さない叫びが青年の口から漏れ、ぎゅう、と無意識に目が強く瞑られた。


 ──その、刹那。


 白い孤が、瘴気を割る。蛇の頭が幾筋もの軌跡によって切り裂かれる。怒りにのたうつ蛇の瘴気がうねり、おぞましき咆哮が空気を揺るがす。


 青年はそろりと閉じていた眼を開いた。何度か瞬きをし、自分の前に立つその人影をゆっくりと見上げる。


「あ、あんた、誰……」


 それは背の高い後ろ姿だ。艶やかなワインレッドのストレートヘア、袖を抜いた黒革のロングコート。高いヒールを履いた足は揺るぎが無い。ちらりと見える手足からは、白い牙のようなものがそれぞれに何本も突き出している。


 そんな女が、蛇の前に立ちはだかっていた。


「誰だと思う? 正義のヒーローとでも名乗ろうかしら?」


 少しハスキーな、しかし凜とした声が聞こえる。その声色は僅かに笑みを含んでいて、青年はワインレッドの髪から眼が離せない。


「あんたが誰だか知らないけど、助けてくれる、のか? あんたが、俺を」


「別にあなたがあなただから助ける訳じゃないわ。この穢らわしい蛇に殺されそうになってる人間を助けるだけよ」


 それでも結果的に青年の生命は助かるのだから、青年にとっては同じ事だ。周囲からは仲間達のざわめきが聞こえる。いや、青年にとって彼らはもう『仲間』では無かった。自分が助かりたいが為に青年を生贄にしたのだから、もう仲間だなどと思える筈が無かった。


「危ないわ、出来るだけ下がってなさい」


 青年の目の前で、ムクロが踊り始める。腕を振るい、足で蹴り上げ、白い軌跡を走らせて瘴気を割り、蛇の皮膚を裂いてゆく。汚濁が跳ね、ヘドロめいた血飛沫が飛び、糞泥に似たぬめりがそこらじゅうに飛び散る。


 舞うムクロにはそれらのおぞましい穢れは一滴たりとも掛からない。流れ靡く髪の毛の一本からそよぎはためくコートの裾に至るまで、全てが艶めかしく美しいままだ。


 青年はただ、その光景に見入っていた。いや、魅入られていた、と言うべきだろうか。眼を見開き、微動だにせず、ただムクロに見惚れていた。凄惨である筈の戦いの舞踏が、──ひたすら、美しく思えたのだ。


 それはムクロが蛇を八つ裂きにするまでの間、そしてぼろぼろになった蛇が窓からぬるりと抜け出し掻き消えるまで、数分間続いたのである。


  *

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