第一章:月影に泳ぐサーペント
退屈な日々と、奈落の底
*
「あら、主任も今からお昼?」
「ああ、はい、ムクロ嬢もですか。その様子だと、調整は無事終了したようですね」
皇紀二六八四年、十二月初旬。明石海峡大橋での戦闘から二日後、スガタとムクロは無機質な通路でバッタリと顔を合わせ、そのまま並んで歩き始めた。
淡路島に存在する『組織』の地下、研究区画の最下層──通称『奈落』。
そこが彼ら『第〇〇遊撃隊<パルチザン・ダブルオー>』が隔離され、生活を営んでいる場所だ。組織西支局本部の地上階はダミーであり、広大な地下にその機能の大部分が集約されている。研究区画はその性質上大半が下層に集中しているが、『奈落』はその中でも最も奥深く、何十もの扉や結界を越えた『底』に存在していた。
「メンテナンスって言っても、今回の戦闘は短時間だったから殆ど必要無かったわ。主任もそうでしょ?」
「確かに小生も封印解除は第一段階のみでした故、確認程度で終わりました。ま、何事も無いに越した事はありませんね」
「そうね。それにあんまり酷い状態だと、担当の研究員に文句言われるのよね。……ああ、御飯、丁度着いたみたいだわ」
二人は通路の突き当たりに設置された輸送用小型エレベーターのボタンを押して扉を開け、中に並んでいた各々のトレイを取り出す。直ぐ近くに設けられた休憩室へ入ると、二人は向かい合って座りテーブルにトレイを置き料理に被せられていた蓋を取った。ふわり、湯気と良い匂いが辺りに広がる。
「ムクロ嬢はグラタン……いや、ドリアですか?」
「冬だし、温かい料理が食べたくなって。此処に居ると別に寒さは感じないけれど、気分って奴よね。そういう主任はいつもの日替わりセットなの? よく飽きないわね」
「飽きるも何も、日替わりの中身はいつも変わるので大丈夫なのですよ。何より迷う必要が無いですから」
「そういうものかしら……まあいいわ、冷めない内に食べましょ」
いただきます、と二人は同時に手を合わせて食事を始めた。具沢山のミートソースドリアにはサラダとスープもセットとなっており、ボリュームや栄養もさることながら味も申し分無い代物である。また本日の日替わりランチのメインはタルタルソースたっぷりのチキン南蛮で、こちらも野菜の付け合わせや根菜の味噌汁が付いてバランスも味も満足の逸品だ。
スガタとムクロは他愛ない会話を交わしながら食事を味わう。──その間、この休憩室を利用する物は他に誰もおらず、また廊下を通り掛かる者も皆無であった。
奈落の中でも、この区切られた狭い居住区画に存在するのは『第〇〇遊撃隊』のメンバーのみなのだ。文字通り隔離された中で、彼らは出動の命令が下るまで、或いは身体のメンテナンスなどで他の区画に移動する時以外は、この空間から出る事は許されていない。
区画内だけで生活が出来るよう、各人の私室や休憩室以外にもトレーニングルームやサウナなどが設置されており、また必要な物資などは端末から申請すれば直ぐに届けられる仕組みになっている。食事や飲み物なども先程のエレベーター経由で上階の食堂から出来立て熱々が届けられるシステムだ。暇を潰したいなら、端末やモニターを使えばどんなコンテンツも見放題である。
確かに不自由は無かった。むしろ閉じた中だけで全てが完結するのだから、便利と言っても過言では無いだろう。しかし──。
「……退屈ね」
食後の珈琲を口にしながら、ムクロがぽつりと零した。ジャムを入れた紅茶を啜りながらスガタがたしなめる。
「生きていられるだけで、幸福ではありませんか。小生らの任務は死と隣り合わせ、日常を送る事そのものが贅沢だと言っても過言ではありません」
「それでも、──飼い殺しには違い無いでしょ」
苦い顔に少しの笑みを乗せ、ムクロは視線を伏せる。スガタは干したティーカップをトレイに戻すと、柔らかな笑顔をムクロの為に作った。
「けれども小生は、ムクロ嬢が生きていてくれてこうして一緒に食事が出来る、それだけで充分幸福ですよ」
「……それ、本気で言ってるの?」
「勿論です」
真顔で答えるスガタの眼をじっと見詰め、ムクロはハァ、と溜息をついた。恐らくスガタは自分が爆弾発言をしている事に全く気付いていないのだろう。「一緒にいられるだけで幸福だ」などと軽々しく異性に告げて、意識するなと言う方が間違っている。
「まあいいわ、主任だもの。きっと他意は無いのよね」
呆れたように苦笑を漏らすムクロの態度に、小首を傾げながらスガタは視線を泳がせる。──その時不意に、スガタの着ている白衣の内側がもぞり、と動いたのだ。
チィ、と高い鳴き声が上がり、次いでのそのそと姿を現したのは、もこもこつやつやとした毛皮に覆われた小さな蝙蝠であった。
ハツカネズミに似た顔立ちで、真っ黒な体毛に紅色のつぶらな瞳、そして首の周りには襟巻きの如くふさふさとした毛を生やしている。種類は不明だが、背中にある一対の皮膜を張った羽根が、蝙蝠である事の何よりの照明であった。
「あらニィ、起きたの?」
ムクロの呼び掛けにニィと呼ばれた蝙蝠はまたチィと鳴いた。この蝙蝠、ニィはスガタの飼っているペットである。ペットと言いつつも愛玩としてだけでなく、第〇〇遊撃隊において重要な役割をも担っていた。
「そろそろ片付けましょうか。小生もニィさんに餌をあげねばならないですし」
「そうね、そろそろ動かないとね──午後はジムで少し運動でもしようと思っていた所なのよ」
そうして二人が立ち上がり、トレイを手にしようとした、その瞬間。
スガタのポケットに入っていた端末が、無機質なメロディを奏で始めたのであった。
*
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