沼る女、翻弄される男

天雪桃那花(あまゆきもなか)

『ある雪の日』と、『創作応援パンカフェにて』と。

 僕が暮らす八王子に『創作応援パンカフェ』という変わったパン屋さんがある。



 ここは、自身もエッセイストでありブロガーのパン屋さんが経営するカフェです。



 執筆や創作をする人たちが気兼ねなく長居出来る場所で、締め切り前の作家さんがこぞって来店する。


 作家といってもここに来て活動するのはアマチュアでもプロでも構わないし、なんなら小説などの物書きじゃなくても良いんだ。


 刺繍やぬいぐるみなどや雑貨作品をつくる人、絵画やマンガやイラストを描く人……結構自由に『創作』出来る場所なんだよね。

 あと、時には宿題をやる学生も来ている。


 カフェには、美味しい焼き立てパンの香りがいつでも漂っている。


 広い敷地にレンガ造りのお店は、動物が擬人化した絵本に出てきそうなファンタジーな外観をしている。


 ここは、ワンドリンクワンブレッドパン制で、いくらでも居ても良いっていうんだから、パンカフェの店主の懐の広さを感じるよ。

 ……それに彼は男から見てもかなりのイケメンだ。

 彼目当てに密かに通う女性もいるって話。

 イケメンでおおらかで感じが良い。理想な大人の男なんだよね、……あんな風になりたい。正直、羨ましいな。



 トマトやハーブを育てる温室を改造したイートインスペースや、庭にパリのビストロを彷彿とさせるおしゃれな空間が広がる。


 それに工房と図書館の勉強コーナーのような一人一人の空間が仕切られコンパクトな作業部屋がある。


 パンはイートインスペースのみで食べることが可能、ドリンクは作業部屋にも持っていける。

 衛生面でも絵を書いたり布を切ったりなどする工房で食べるのはよろしくないんだろう。



 僕は大学からの帰り道にこの『創作応援パンカフェ』を見つけた。


 えっと、僕の趣味は『ウエブで小説を書くこと』なんだ。


 本当は趣味にしていたくない。


 夢は『売れっ子の小説家』だ。


 でも、コンテストでは賞を獲ったことは僕はまだ一度もない。

 情けないけれど、投稿サイトの特集記事に載ったことだけがちっちゃな自慢だ。

 中学生から参加している投稿サイトでは、交流している作家さんたちからプロ作家が何人も出ていて、僕はわりと古参の作家になってしまっていたのに、いくら書いても芽が出ずにいた。


 いつしかリアルの友達にも、投稿サイトの友達作家さんにも、プロになりたいだなんて言えなくなっていた。

 実力も人気もほとんどない。

 ただ、それでも楽しみにしてくれている読者さんはいるのが嬉しい。

 これでも100作以上の物語を生み出してきた。

 長編に短編、エッセイも書いている。


 ……きっと、才能はない。

 あと、戦略や計画を入念に練る力、宣伝力も欠けているんだろうな。


 好きだから、小説を書く。

 苦しい。

 だけど、小説を書く。


 書き上げた快感と、寄せられる読者さんからのコメントやお褒めの言葉が嬉しくって書いているだけだ。


 もう、がむしゃらに取り組めて居なくて、作家として生計を立てるだなんて、僕なんかにはおこがましい願い、出過ぎた夢なんだって、そう諦めにも似た気持ちが渦巻く。

 だからそろそろ将来を見据え、時期が来れば就活に励まなくてはと親兄弟に言われれば「分かっているよ、大丈夫」と言いたい。



     ◇◆◇




 この日の、創作応援パンカフェの店内のBGMはジャズだった。


 ゆったりとした空気が流れる。

 ここでは穏やかに時間が過ぎていく。


 いつでも鼻腔をくすぐる珈琲の香りと、香ばしいパンの匂いが漂っていた。

 匂いに食欲が触発される。


 ――そして、数時間前さっきから僕の隣りの方から、ほんのりとした甘さの香りがする。


 僕は香りや匂いは五感を刺激してくると思う。

 加えて、記憶媒体にも作用するのではなかろうか。




 パンカフェでは多くの作家さんで賑わっている。

 僕は大学の課題を終え、同じパソコンで趣味に没頭していた。



 創作応援パンカフェの店主ユウタさんがにこにことしながら、僕の隣りの女性と話している。


「繁盛してるわね、相変わらず」


「おかげさまでね」


「あ〜、ちょっとは私のおかげだと思ってくれているんだ?」


「まあ、ね。登山だけしかやりたいことなかった俺に、キノを応援するという目標と夢が出来たからな」



 この女性は、店主やカフェの常連さんから「キノさん」と呼ばれていた。


 ……とっても綺麗な人だ。


 僕はこの人を、キノさんをひと目見た瞬間「なんてすごい美人だ!」ってドキンッとして見惚れてしまっていた。

 



「ねえ、橙也くんはどんな具合?」


「ふえっ?」


 いかん、変な裏声が出た。

 急にキノさんに声を掛けられて、僕は心を準備していなかったことを後悔した。


 しまった、話を振られるとは思わなかった。


 キノさんは気さくで、きっとオープンからの常連のお客さん。

 ここに来る常連の作家さんとよくお喋りに興じている。ただし、長話はイートインスペースだけだ。


 執筆作業をしている時は挨拶程度の会話なのは、キノさん自身も書く人『物書き』だから。

 気遣いはすごく出来る人、みたい。


 あと、僕と違って場の空気を読むのが得意そう。

 ……だって、締め切り間近で大変そうな人に声をさり気なく掛けている。



「橙也くんの参加してる投稿サイト、この間からおっきいコンテストが開催されてるんでしょ?」


「ああ、はい」


「えっとごめん。執筆ノッてた? もう話し掛けないから」


「い、いえ。大丈夫です」



 ちょっと残念。

 ほんとはもっとキノさんと喋っていたかった。


 もっと執筆に没頭したい時になったら、カウンターでなくって隅っこにいれば良いんだ。

 店の席はいつも賑やかで満席だけど、ユウタさんに事前に言っておけば、空席が出た時点で席を換えてもらえるしね。


 今の僕は、キノさんの隣りポジションに座れている幸運な時間を満喫していたい。



「キノはあんまり純情な大学生にちょっかいかけんなよ?」


「なによ、ちょっかいなんて。……ユウタ、妬いてるわけ?」


「妬くか! 誰がお前になんか」


「ふふっ。またまた、誤魔化そうとしても無駄よ。貴男、私に昔っから執着してんじゃない。あっ、過保護な兄って気分でいたいんでしょ? だいたいね、私だって大学生なんですから〜」


「お前のは二度目だろ。橙也くんをくれぐれも色気で迫って騙さないように。あと年齢も偽るなよ? それから俺は別に……お前の兄の気分なんかじゃ……」


「じゃあユウタは……、私の『なに』?」


「なにってお前、ただの幼馴染みだろ」


「『ただ』の幼馴染みねえ」


「そこ! へたに意味深にするな、誤解されるだろうが。俺とお前、なんもないくせに。あと不敵に笑うなよな、キノ」


 クスクスと笑う、僕のすぐ横のキノさんの声が表情が、すごく可愛くって。

 僕はドキドキが止まらない。


 キノさんと店主のユウタさんの掛け合いは微笑ましい。

 だけど、……どこか胸の奥が、……チクンチクンと刺さるように痛む。


 そっか。キノさんって社会人学生なんだ。

 もしかして、僕と同じ大学だったり?

 キノさんは店主のユウタさんともとっても仲良しだ。


 胸がズキンとヒリついて、焦がされて。

 

 ――妬ける……。


 ああ、そうだ。僕のこのチクチクは妬きもちだ。


 言葉遊び、冗談が二人の歴史と仲良しさを物語る。

 ユウタさんとの会話で楽しそうなキノさんに、心が吸い込まれそうになってしまう。


 彼女があまりにもキラキラしていた。



     ◇◆◇



 恋愛経験の浅い大学生の僕は、出会ったばかりでキノさんに一気に心奪われた。


 まさに衝撃の一目惚れ。


 一目惚れってほんとにあるんだな。


 あれから時は経ち、こんなに長くこのカフェに通うことになるなんて思いもしなかった。


 たまたま訪れた『創作応援パンカフェ』で気さくな女性、キノさんに話しかけられたのがきっかけだ。


 気づいたら僕は、二年と半年とをここに通い詰めていたのだ。


 僕の片想いは、なんの進展もないまま。


 連絡先も聞けず、ろくに会話も出来ない。

 デートになんてぜったいに誘えない。


 何も出来ない、僕は臆病者だ。

 


 キノさんは、BL小説を書いているらしい。

 その筋にはかなり有名な作家さんで新刊が出るたびにネットで話題になるしコミカライズ化が多数、登場キャラに熱狂するファンも多いんだそう。


 僕はある日、本屋さんに行って。今年来る本だよ大賞のフェアでキノさんの作品を見つけたんだ。

 純文学部門での受賞なのはBL作品で初の快挙だって。

 心の奥をえぐるような鋭さと苦しみをさらけ出す文体は、キノさんのこれまでの甘く蕩けるような恋愛が繰り広げられるBL作品とは違った。

 僕は実はこっそり、キノさんの小説を買い揃え、出版化された全作品読破していた。


 最初は、キノさんを知りたくって。制覇したかった。

 でも気づけば、キノさんの作品の純粋な虜になっていたんだ。



 冬のとくに冷え込んだ晩、僕は本屋さんに並んだばかりのキノさんの新作の本を読んだ。


 ――あれ……?


 登場人物が……、主人公の青年が自分そっくりだと気づく。


 僕はキノさんの新作の本を何度も何度も、読んだ。読み返した。


 物語の主人公が片想いしている相手が、和喫茶店の店主で朴訥な男性だった。


 登場人物の誰かが、キノさんの想い人をモチーフに書いているらしいと帯に書いてあって、ちょっと複雑な気持ちになっていって……。

 僕は胸が痛んで、切なかった。




     ◇◆◇




 朝から雪が降ってきていた。


 八王子市は東京都だけど、ビル群や東京タワーやスカイツリーがあったりの都会じゃない。


 山がある。


 有名なのは高尾山かな?

 天気が変わりやすいんだ。


 冬になればすっごい寒いんだ。


 きっと多くの人が想像する『東京』のイメージする場所は23区だろう。八王子市ここは東京区内より寒いんじゃないかな。


 雪が一度降り出したら、けっこう積もる。



「はあー、寒い。……雪、かなり降ってきたなあ」


 ずっと降り止まない雪は勢いを増してきて、すっかりあたりは雪景色。冷たく美しい白銀に町が埋もれる。


 僕は大学のサークル活動で文学研究部に入っていた。

 サークルが集まる部屋の建物はS棟、そこの4階にある。

 

 大学の学舎の窓は外気との温度差で白く薄曇っていた。

 手袋をつけた手で軽く窓をこすると、僕は信じられない人を見つけた。


「キノさん!」


 こんな場所でキノさんに会えるだなんて、初めてだ。


 彼女と同じ大学だったら良いなって思っていた。僕のささやかな願望が叶った瞬間だった。


 寒空の下、傘も差さずに一人で歩くキノさんがすごく寒そうで。寂しそうで。


 ドクンと恋の衝動が高鳴り、焦りを生み出した。


「声をかけなくっちゃ。」


 最初で最後のチャンスかも知れない。


 それよりなにより、あんな雰囲気のキノさんを一人にしておけないんだ。


 僕が、貴方をあたためることは出来ないだろうか。


 僕の気持ちは駆け出した。


 雪に儚く消え入りそうな、とぼとぼ歩くキノさんを追いかけて。


 まるで妖精みたいだな。白いコートはキノさんに似合ってる。

 すごく可愛らしかった。



     ◇◆◇



「えっ? えっ? ええ――っ!?」


 何がどうなってこうなったのかは分からない。


 横に、すぐ横にキノさんの寝顔がある!!


 あたりをキョロキョロ見回して、よぉーく確認したが……、僕の部屋……だよな?


 小さなベッドには、僕と憧れの人キノさんが寝ている。


 は、……裸だ。


 キノさんの方は布団から顔だけ出しているので分からないが、僕の方はまっぱ! 間違いなく真っ裸だよっ!

 うわああああああっ!

 どうしてっ?


 一糸まとわぬ生まれたままの姿だ。


「ど、どどどどうして? どうして僕の部屋にキノさんが?」


 キノさんが「うーん」と寝言を言い寝返りをうつと、美しい髪がさらりと揺れた。

 これは……どうゆう展開なんだ?


 頭がくっそ痛い。


 どうやら僕はあまり飲めもしないお酒を飲んだようで、ベッドの脇のミニテーブルにお酒の空き缶やら空のワインボトルが整列してた。


 ゆ、夢――?

 これは夢に違いない。


 僕はなんて不純な夢を……!


 恋人でもないキノさんにすっごく失礼じゃないか。


 でもちょっとだけ、もう少しこの幸せを噛み締めたくもある。

 ごめん。ごめんなさい。僕だって男なんです。


 大好きな人とのこんな夢、またいつ見られるか分からないから、もうちょっとだけ堪能させてほしい。


 けど……恥ずかしいので、パンツだけは履いた。


 キノさんの寝顔をそっと見る。


「綺麗だ……」


 天使とか女神とか本当にいるんだったら、きっとキノさんのような顔で姿をしているんじゃないかな。


 現実感がまったく無かったのに、僕は空腹を覚えた。


「お腹減ってる」


 夢のなかでもお腹は減るんだろう。


 いや、まさか。これって、やっぱり夢じゃない?


 ははっ、現実……!?


 エアコンで暖房が効いている部屋でも真冬だ。上半身裸は肌寒くて、僕は遠慮がちに布団に潜り込んだ。


 キノさんの呼吸音が近い。


 ドキドキドキ……。


 もし、もしも……だよ?

 キノさんと一夜を過ごして、そのぉ……男女がやるべきことを致してしまったのなら、僕は大好きな人のおかげで童貞卒業したんだ。


 女性との経験、キスもエッチなこともしたことがない僕。


 キノさんと過ごした初めての夜は、たぶん……いいやきっとすっごく素敵な夜だったはず。

 僕は昨夜のことを思い出せないことに悔しさを感じる。


 体に痛みとか違和感とかない。

 だるさはお酒のせいだろう。


「うわっ」


 僕はキノさんに抱きつかれた。


 彼女、たぶん下着姿である。


「橙也くん、あったかあい」

「はは。僕はあったかいですか? キノさんもあったかいです。……すごく」


 僕はキノさんのぬくもりを感じてふたたび微睡んだ。




     ◇◆◇



 ああ、たっぷり寝た。


 布団のなか。すっきりとした頭で起きると、横にはまだキノさんのまぼろしがいた。



「おはよ」


「おはようございます」


 やけにはっきりとキノさんが見える。


「んっ?」


「あの」


「んんっ?」


「あのっ! これって現実ですかっ!?」


「うんっ? 現実だよ。覚えてないの橙也くんってば。酷い、あんなに甘くって激しい夜だったのにー」


「ええっ、あの! ごめんなさいっ!」


 なんて残念なんだ。

 せっかく大好きな人と一夜を過ごしたのに、僕ってばなにも覚えていないだなんて。


「う、そ。えへへへへ」


「嘘?」


「私たち、エッチなこと何一つしてないよ。橙也くん、服は勝手に脱いじゃってた。お酒飲んで酔って暑くなっちゃったんだろうね。……残念?」


「残念です……」


 はっ! 何を言っちゃってるんだ、僕は。


「すいませんっ! 本音が出ちゃいました」


 くすくすくすとキノさんの可愛い笑い声が部屋に響いた。


「私たち、大学で偶然会ったんだよ。橙也くん、昨日さ『雪が降ってきて寒いから僕の部屋でご飯食べませんか?』って私をお家に誘ってくれたじゃない。忘れちゃったんだ」


「すっ、すいません。思い出します! これから必死に……」


「ふふっ、良いよ。そんなに無理に思い出さなくっても大丈夫」


 キノさんは眠そうで。目を閉じたあと一つあくびをした。


「僕のベッドで。キノさんと僕が一緒の布団で寝ているからてっきり……」


 キノさんは掛け布団に潜り込んで顔を隠す。


「うーん、ごめん。橙也くん、君、まだ童貞卒業してないから。私ね、嬉しかったよ。橙也くん、私を抱きしめて『キノさんを好きだ』って何度も言ってくれたから」


 は、はは恥ずかし〜い!!


 なんつうタイミングで告ってしまったんだ。



「いくらなんでも初体験を体も心も覚えてないとか、無いでしょ?」


「えっ? ……やっぱりそうですよね」


「残念だったんだ?」


「ええ、まあ。はい」



 キノさんは一瞬黙って。布団から顔を出したけど、すぐに潜り込む。

 言い辛いことを言うから恥ずかしいみたい?


「私もね、実は男性経験ないの」


「はっ? えっ?」


「いまだに処女なんだ。周りの友達はとっくに彼氏と経験して卒業してるのにね」



 キノさんが微笑う。

 そっと布団から出した顔が恥ずかしげで。ほんのり上気して桃色に染まった顔が、色気に溢れてている。


「あのね、ご飯ご馳走様でした。橙也くんのみぞれ鍋美味しかったよ。次はミートパスタを一緒に作ろうね」


「僕、ミートパスタ作るの得意なんです。わりと本格派なやつですよ。亡くなった祖母が洋食屋さんをやっていて教わりました」


「うん。昨日言ってた。私にも教えてくれるって」


 彼女の華やかさ、その垣間に時折り見せる繊細な表情に、僕はもっともっと惹かれていった。


 予想してなかったキノさんの表情、僕の予測できない言葉。



「シてみる?」


「――えっ!」


「私とシてみる? エッチなこと。初めて同士でどうなるのが正解か分かんないから、ちょうど良いような」


 理性がぶっ飛びそう!


 どっ、どうしよう?


 僕はキノさんに、からかわれてる?


「そういや橙也くん、私の名前ちゃんと知ってるのかな」


「キノさんの? 本当の名前。ううん、そういや知りません」


雉原紀香きじはらのりかっていうの私。すごい有名な女優さんに似てるから、あんまり自分の名前が好きじゃないんだ。あんまりにも美人で皆知ってる人に名前が近いってプレッシャーじゃない? で、あだ名を付けてくれたのが悠太ゆうたなのね。あいつ、私が落ち込んでたら考えてくれたんだけど。捻りもあんまりないし安易だよねー」


 そっか、そんな経緯があったんだ。


 キノさんのペンネームは「KINO」だ。


 きっと、とっても気に入ってるんだろうと、僕は思った。

 ユウタさんはキノさんにとって特別で、彼女は彼をたぶん好きなんだろう。……ずっと好きで。胸に核心めいたことは秘めて、彼には隠してる。


「キノさん、美人だし。名前負けなんか全然してませんよ」


「ありがとう。……橙也くん、あの……。じゃあ、……する?」


「えっ? ええっ!」


 冗談じゃないんだ。


 二人のあいだに確実に甘い雰囲気がしてる。



「私とシてみる?」


 ううっ、理性が崩壊しそう。


「大切にしなくちゃ……駄目ですよ? キノさん、ユウタさんのこと好きですよね」


「えっ、うっ……。ゆ、悠太はただの幼馴染み! あいつと私は、今さら男と女の関係なんかなれないもの。……厄介な腐れ縁な仲だよ。それに――」


「それに……?」


「処女なんてもうこの年になったら、私はさっさと捨てた方が良いの。だってどんどん足枷みたいになってきて。心が軽くならないから」


 キノさんのトロンとした可愛い顔が迫ってくる。


 軽く唇が触れ……た。


 フニッて音がしたかもしれない。


 柔らかくって、心地いい感覚。


「びっくりした。……女の人の唇ってすっごく柔らかいんですね」


「そう、柔らかかった? ――えっと、貰っちゃった。私が君のはじめて」


「はい、はじめてです」


「そっか。もらいました! 大切な記念日だね」


「ああ、はいっ。記念になります」



「橙也くん、可愛いね。この先もシてみる?」


 キノさん、貴方は本当に僕とシたいの?

 さっさと処女を捨てた方が良いに決まってるのかな。


 僕はどうしようもない報われない恋に落ちて――、キノさんのどうしようもない深い甘い沼にはまる。


 彼女は魅惑テキで小悪魔テキ!


 なかなか本心を見せて認めてはくれないキノさんと、今一歩が踏み出せない僕、橙也。始まりそうで始まらない。


 勇気が出ない。


 じれじれな恋心、エッチ寸前、付き合う一歩手前!


 僕なんかが、キノさんの初めての相手で良いのか?


 キノさんの初めては、キノさんが大好きな人とするべきでは?


 僕の方は……キノさんが大好きだけど。



「キノさん」


「なあに?」


「やっぱりやめましょう」


「えっ? 私じゃ駄目なの?」


「いえ、違います! 貴方はすっごく魅力的で……正直言うとキノさんとならシてみたいです。だって僕は貴方が大好きです。……だから」


「だから?」


「キノさんには……、貴方には大好きな人と結ばれて初めてを体験して欲しいです」


 布団のなかで、僕はキノさんの両手を握りしめた。


 グスグスと泣く声がした。


「橙也くんのばか」


 嗚咽に混じり、キノさんが小さく呟いた。


「私は勇気を出して貴方にお願いしたのに」


「こんなこと、好きでもない男にお願いしたら駄目です」


「好きでもないことないよ? ごめん、ユウタの次に好き」


「分かってます。あの〜」


「うん?」


「キノさんはユウタさんに振られることなんてないとは思うけれど。もしユウタさんが貴方を受け入れないなら……。振られたら、……その時は僕のとこに来てください!」


「…………」


「キノさん」


「うん」



 雪はまだ降っているんだろうな。

 外がやけに静かだもの。


 キノさんは僕にしがみつくように抱きついたまま。


「勇気、出してみる。……ありがとう、橙也くん」


「うん、頑張って。頑張ってキノさん。……大好きだよ」


 今、腕のなかに大好きな女の人がいるのに、僕はダメダメだなあ。


 僕の体の昂っていた欲はおさまっていた。


 まるで子猫を抱いているみたいな気持ちで、僕はキノさんを抱きしめ返して、微睡みに身を任せた。





      おしまい






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