都市伝説なお母さん

正岡紫煙

第1話

『目なし女』という都市伝説を聞いた事があるだろうか?


 世界がオレンジ色に染まる時間帯、一人ぼっちで歩くまだ幼いランドセルを背負った学校帰りの少年少女を見つけては電信柱の陰からそっと現れて『あなたのお母さんになってあげようか?』等と聞いてくる女だ。


 長い前髪で眼を隠し、赤く長いダウンコートを着たその女はいつも、秋から冬にかけての桜の花が咲くまでの寒い季節に姿を現すという。


 うっかり『はい』等と答えてしまった者は、その代償として目玉をくり貫かれ、何も見えなくなった世界で、そっと隣で『私がいるから大丈夫よ』と依存させるように甘い言葉を囁かれるのだ。


 その長い前髪の下にくり貫いた目玉を無理矢理押し込んで、血の涙を永遠に流しながらその女は嗤うのだ。


 果たしてそれは、ようやく手に入れた目玉で再び世界を見れた喜びなのか、それとも幼い子供の目玉をくり貫いてしまった悲しみからなのか…


 誰が囁き始めたか分からない都市伝説は、脚色されながら静かにゆっくりと、今日も子供達の間で広がっていくのだった。


 ***


『あなたのお母さんになってあげようか?』

「ひっ、ひいいいいーー…で、でたああーー…」


 ダッダダダダダダーー……


『ちょっ…走ると危ないわよ…はぁ……』


 九月下旬夕方四時、オレンジよりも少し赤い夕焼けが差す時間帯に、一人ぼっちで石ころを蹴飛ばしながら歩く少年に、電信柱の陰から姿を現し声をかけた赤いダウンコートを着た女は溜め息を吐く。


『あっ、だから言ったのに…』


 案の定、綺麗に両腕を伸ばしステーンと途中でこけた少年は、流す鼻血を物ともせず起き上がり、涙ながらに一目散に彼女の元から走り逃げていく。


 遠ざかっていく少年に僅かに手を伸ばした女は更に項垂れるように二度目の溜め息を吐いた。


『…誰よ、あんな変な噂流したのは…尾ひれに背びれが付いて今にも泳ぎだしそうじゃない』


 女の名前は『垂髪うないメナイ』といって巷では有名な都市伝説『目なし女』として囁かれている。しかし、その噂はあくまで噂であって実のところ彼女は単なる地縛霊であった。


(だいたい、なんで私の目玉が無いなんて訳の分からない噂をながされてるのかしら、目が見え無かったらどうやって子供達が一人で歩いてるか分かると言うのよ?ああ、噂を流した張本人を捕まえて私の代わりに生け簀に放り込んでやりたい気分だわ)


 などと感情をあらわにする彼女は、その長い前髪の下に覗く綺麗なオレンジ色の瞳を紅く紅く燃やしていた。


 享年は28歳、亡くなったのは今より大分昔でまだスマートフォンなどが普及する以前の時代だった。


 暗い性格と見た目から20代後半になるまで一度も彼氏が出来た事がなかった。社会人になってようやく出来た彼氏には拒むことが出来ず妊娠させられてしまい、それを告げた矢先にあっさりと捨てられてしまった。


 夕焼けが差す時間、泣く泣く一人で帰り道を歩いていた時に、ちょうどこの電信柱の所で車に跳ねられた。壁に頭を打ち付け膣から血が溢れ出す。自分だけならいつ死んでも構わないと思っていたが、お腹の中の新しい命まで共にあの世に向かうのかと思うと、彼女はそれが悔しくて堪らなかった。


 既に母性は芽生えていた。名前までもうっすらと考えていた。「お母さん」と呼ばれるのを夢見ていた。泣きながら鼻を啜りながら、それでも自分一人で立派に育ててみせようと決意していたのだ。


 以来、ずっと自分の子供の変わりを探し続けている。無謀な願いであるのは彼女も分かっているのだが、誰かが「はい」と言ってくれるその日までそこから動く事は出来ないのであった。


『私を轢いた犯人は今ものうのうと暮らしているのだろうか…』 


 ブレーキもかけずに一目散に逃げ去った車は、何処かで目にした記憶があるのだが、それが何処だったか今はもう思い出せなかった…


 *** 


 白髪で赤い目をした一際目を引く容姿をした少女が俯きながら歩いている。名前は倉持くらもち弥生やよいといい、いわゆるアルビノと言われる病気の持ち主だ。そんな少女は幼い子供達から差別の定義を知らない故に敬遠され、友達など一人もいなかった。


「お母さん…どこ……」


 去年、少女がまだ小学生に上がる前に母親は病気で他界した。赤いランドセルの肩ひもをギュッと掴んで、この世にいない者を探し続ける。


 頭の良い少女は母親が死んだ事を理解していた。されど名前を呼んでしまうのは、それだけ母親を愛していた証拠であり、依存しきっていた証でもあった。


 幼稚園生の頃から友達はいなく、園内ではいつも一人きりで絵を描く毎日だった。誰からも誘われる事なく、勇気を出して声をかけても無視をされる。


 泣きべそをかきながらバスに揺られ、扉を開けた先でいつも優しく抱き締めてくれていた母親はもういない。


 家に帰っても誰もいない。父子家庭となった父親は懸命に働いていて、それはそれはとても優しい人だが、幼い子供が母性を求めてしまうのもまた仕方のない事だった。


『あなたのお母さんになってあげようか?』


 下を向く少女に上から声が掛かる。顔を上げれば赤いダウンコートを着た怪しい大人の女性がいる。意図せずしてここに辿り着いた少女はその噂を知っていたが、それでも例え目玉をくり貫かれる不安があろうとも、その甘い囁きには逆らえなかったのだ。


「はい、宜しくお願いします」

『……え?』


 驚いたのは都市伝説の方である。まさかまさかの返答に身体が硬直してしまう。


『あ、あなた…本気で言ってるの?私が誰だか分かって言ってるの?』

「本気です。『目なし女』さん、私のお母さんになってください」


 ギュッと握られた小さな掌から暖かい何かが伝わってくる。『目なし女』…垂髪メナイは自分に何が起こっているか分からなかった。


 視界が色付いていく。姿がハッキリと形作られていく。赤い太陽を背に足元から影が伸びていくのが分かる。


「さあ、一緒に帰りましょう。新しいお母さん」


 手を引かれ解き放たれた身体は大きな一歩を踏み出す。既に止まっている心臓の鼓動は聴こえないが、動揺しながらも色付く世界に、垂髪メナイは興奮を抑えきれなかった。


 ***


「あー…、疲れたあー…」


 と運転中にボヤくのは少女の父「孝助こうすけ」であった。天然の入ったボサボサの髪に黒縁眼鏡をかけた彼は、見た目は平凡すぎるほど平凡で武器はその優しさだけであった。


「家に帰ったら料理を作って、食べ終わったら弥生をお風呂に入れて、その間に洗濯して…ああ、もう!やることが多すぎる!」


 主婦の仕事量は年収に換算するとサラリーマンの平均年収と同等かそれ以上な事は分かっていたが、実際にいなくなってからそれをこなすとなると、こんなにも忙しいのかと、いつも家中ピカピカで暖かい夕食を用意して待っていてくれた妻の有り難みを痛いほどに実感していた。


「掃除もしなきゃな…最近あまり出来て無いし…」


 ボサボサな髪は精神的ストレスも影響していた。やりたい事があるのに身体が動かない。娘ともっとコミュニケーションを取りたいのに眠気には逆らえない。


 休日は大人しく絵を描く娘を眺めながら気付いたらソファーで眠ってしまう事が殆どだった。


 家に着いて車を降りる度にいつも思う。あの扉を開けたら妻が自分を暖かく出迎えてくれやしないかと…


 叶う事のない願いを浮かべながら、今日も家の扉を開ける。


「おかえり、お父さん」


 いつもと同じように笑顔で出迎えてくれる娘の声が聞こえる。切り替えてそんな不安を娘に悟られないよう精一杯の笑顔をつくる。


「ただいま、やよー………」


 しかし今日は何時もと違っていた。暖かい夕食の良い匂いが鼻をくすぐり、娘が立つ後ろは家中全てがピカピカに磨き上げられている。


「こ、これはまさかー…」


 自分の願いが叶ったのかと孝助が喜んだのも束の間、聞いた事のない女性の声が下の方から聞こえてきた。


「ふ、ふつつか者ですが…宜しくお願いします」

「……へ?」


 驚いて目線を下げれば、綺麗に三つ指ついた黒いタートルネックを着たやたらと前髪の長い女性がそこにいて、倉持孝助32歳は思わず頓狂な声を出してしまったのだった。

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