第2話 ”友達”の家に行くたびに、そういう関係が深まる気がするんだが?

01.

慧の部屋に足を踏み入れると、泰夢はいつもの調子で声を張り上げた。

「ただいま~、って俺ん家ちゃうけどな!」

「お前、毎回それ言うのな。」

慧は冷静に答えながら、ソファの上に置いていたノートパソコンを膝に引き寄せた。

慧の家は、彼の両親が「一人暮らし用」に用意した一軒家だ。地元では有名な弁護士一家の生まれで、現在は法学部の優等生。慧も将来、家業を継ぐべく弁護士を目指している。大学の理事である叔父の推薦もあって、彼の生活は何一つ不自由がない。

整然とした部屋に足を踏み入れると、泰夢は溜息をつくように感心した。

「ほんま、慧の家ってどないしたらこんな綺麗に保てるん? 俺ん家なんか、掃除する気なくすほど散らかっとるわ。」

「片付ける気がないだけだろ。」

慧はさらりと返し、パソコンの画面に目を落とした。

泰夢は鞄をソファに投げ出し、気に入った席に座り込む。リビングのテーブルには、慧が用意してくれたホットコーヒーが湯気を立てていた。

「お前、ほんま気が利くな。俺、”友達”に恵まれてるわ。」

「…自覚があるなら、少しは自立しろよ。」

慧の淡々とした口調に、泰夢は苦笑した。

ソファに腰を落ち着けると、泰夢は鞄からレポートの資料を取り出し、テーブルに広げた。

「今日はこれ終わらせるん、手伝ってな?」

「またか。お前、自分でやろうとしたことあるのか?」

慧はため息をつきながら、泰夢の資料に目をやった。

「いやいや、慧みたいな天才が近くにおるんやから、活用せんともったいないやろ?」

「自分で考えることも大事だぞ。」

「そやけど、一緒にやった方が楽しいやん。」

泰夢は悪びれることなくニコニコと笑った。

慧はその笑顔に少しだけ気を緩めたようで、隣に腰を下ろした。

「どれどれ……お前の『傑作』を見せてみろ。」

「うわ、言い方ひどっ!」

泰夢は資料を慧に手渡し、肩肘をついて様子を眺める。

慧が資料を真剣に読み始めると、泰夢は横顔をじっと見つめた。

「なあ慧、ほんまに男前やな。」

「……何の話だよ。」

「いや、こうして見ると改めて思うわ。俺、こんなカッコええ友達おるって幸せやなって。」

「うるさい。」

慧は目線を資料に戻しつつ、耳を赤く染めていた。


02.

時間が経つにつれ、泰夢の集中力は次第に切れ、ソファにどかっと体を預けた。

「おい、もう休憩か。」

「いやいや、ちょっとだけやん。疲れたから休憩させてや。」

「お前、始めたばかりだろ。」

慧は呆れながらも、それ以上咎めることはしなかった。

「なあ、慧の論文、見せてや。」

「まだ途中。」

「ええやん、どんな内容か気になるし。」

慧は少しだけ考えた後、パソコンの画面を泰夢に向けた。

「ほら、これだ。」

専門用語がびっしり書かれた文章を見た泰夢は、驚きの声を上げた。

「すごっ! なんか映画の台本みたいやん!」

「これは学術的な表現で書いてみたんだ。」

「俺もこういうの書けるようになりたいなあ。」

「努力すれば、可能性はあるんじゃないか。」

慧の真面目な答えに、泰夢は声を上げて笑った。

「慧、ほんま優しいな。」

「…お前だけだからな。」

慧の口から零れたその言葉に、泰夢は思わず動きを止めた。

「今、なんて言うた?」

「何でもない。」

慧は目をそらしながら答えたが、その耳がさらに赤くなっているのを泰夢は見逃さなかった。

「慧、ほんま可愛いな!」

「うるさい。」

慧は泰夢の頭を軽く叩いたが、その仕草には優しさが滲んでいた。


03.

慧の部屋のリビングは、時計の針がゆっくりと進む音だけが響いていた。泰夢はソファに腰掛け、慧が勧めてくれたホットコーヒーを片手に持ちながら、レポートの資料に目を通している。慧はその隣でノートパソコンを膝に乗せ、タイピングを続けていた。

ふと、泰夢が資料をテーブルに置き、伸びをする。

「はぁ、なんか疲れたわー。」

「お前にしてはよく頑張ったな。」

優しい慧の言葉に、泰夢が突然、慧の肩に体重を預けてきた。

「おい、重い。」

「疲れたから休憩させてや。」

慧は押しのける素振りを見せるものの、その力は強くない。泰夢が肩に寄りかかるのを止めようとはしなかった。

「なあ慧、こうやって一緒におるの、なんか安心するわ。」

泰夢はそう言いながら、慧の肩にさらに顔を擦り付ける。慧はちらりと泰夢を見たが、視線をすぐに画面へ戻した。

「お前、無駄に距離が近いんだよ。」

「ええやん。俺と慧の仲やし。」

その軽い口調に、慧の胸が少しだけざわついた。

「……調子に乗るな。」

慧が低く呟いたが、その声にはどこか力がなかった。

「……お前、自分がどう見られてるか分かってるのか?」

慧の声が少し低くなる。泰夢は不思議そうに首を傾げた。

「俺がどう見られてるって?」

慧は答えず、じっと泰夢を見つめる。その視線に気づいた泰夢は、冗談めかした笑みを浮かべた。

「なあ、慧。お前、もしかして俺に見とれてる?」

その言葉に、慧の表情が一瞬固まる。次の瞬間、泰夢の腕を掴んで引き寄せた。

「おいっ、何すんねん!」

「お前、軽々しくそういうことを言うなよな。」

慧の声は低く、静かだがどこか張り詰めたものがあった。泰夢は驚いた表情を浮かべながらも、慧の顔をじっと見つめる。

二人の間に漂う微妙な空気。泰夢は慧の手を振りほどこうとはせず、逆にさらに顔を近づけた。

「慧……そんな怒んなよ。俺、冗談やなくて本気で言うてるかもしれんで?」

慧の瞳が揺れた。その一言が胸に深く響く。

「……本気で言っているなら、余計に簡単に口にするな。」

「ほな、慧も本気で応えてくれるん?」

慧は泰夢の言葉に答えられないまま、目線を唇に移した。そして、ほんの数秒だけためらった後、手を伸ばし泰夢の頬に触れる。

泰夢が目を細め、慧の手に頬を預ける。二人の距離はどんどん縮まっていき、二人の影が重なろうとしたその瞬間――

一線を越えるその一歩手前で、慧は深く息を吐いて手を下ろす。

「お前、本当に人を翻弄するな。」

「え、何やねんそれ。」

泰夢が少しムッとした顔をすると、慧は困ったように笑う。

「いいから、レポートを終わらせろ。」

「なんや、それ。……まあええけど。」

泰夢は不満げな顔をしながらも、資料に手を戻した。

慧は深呼吸をして、心の中で呟く。

(あと少しで踏み込むところだったな。)

二人の関係はきわどいところで保たれたまま、穏やかなリビングに再び作業の音だけが響いていた。


04.

泰夢が再びレポートを終わらせるため作業に没頭している。慧も論文に目を通し始める。だが、視界の端にいる泰夢が気になって仕方ない。

泰夢の均衡のとれた美しい横顔、頬杖をついている姿、ふとした仕草で髪を掻き上げる様子――その全てが慧には愛おしく思えた。

ふと、泰夢のスマホが鳴った。ちょっとごめんな、と慧に目配せすると、泰夢は電話に応じた。

「もしもし。どないしたん?…おー!そうなんや!ちょっと待ってや」

キャッキャと無邪気な笑みを浮かべながら盛り上がる泰夢を、慧は複雑な表情で見つめている。

「なあ、俺のゼミの奴からやねんけど、今度飲み会するんやて!慧も一緒に行けへん?」

「行かない」

慧は眉を顰めて答える。

「あっ、わかった…言うとくわ」

泰夢はその後2・3言電話の相手と会話を交わした後電話を切った。

「お前、ゼミの奴らとばかりつるんでるんじゃないだろうな。」

「つるむって……別に普通に仲ええだけやで?慧も来たらええのに、みんな楽しいで。」

泰夢が軽い口調で返すと、慧の胸に棘が刺さるような感覚が広がった。

「そういえば、今日の講義でな、来斗がめっちゃええこと言うてたんよ!」

泰夢が楽しげに話し始めると、慧の指先が僅かに止まる。

「……そうか。」

淡々と返す慧の声には、微かに冷ややかな響きが混じる。

「来斗ってさ、ほんまに頼りになるよな~。あいつおらんかったら、俺絶対単位落としてたわ。」

泰夢はケラケラと笑うが、その言葉に慧の胸がざわつく。

「お前、最近やたらとゼミの連中やら、その来斗って奴の話ばかりだな。」

「え、そうか? たまたまちゃう?」

無邪気な表情でそう言う泰夢に、慧は目を細めた。

「お前は誰にでもそんな顔して…ほんとずるいな。」

誰に言うともなく呟いたその言葉は、夜の静けさの中に消えていった。

「え?なんか言うた?」

「何でもない。さっさとそれ、終わらせろ。」

泰夢にとっては、何気ない友人との日常。それでも慧にとっては、その一瞬一瞬が特別だった。言葉にできない想いを抱えながらも、彼は泰夢と過ごす時間を誰よりも大切にしていたのだ。

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