空中庭園の記憶

奈賀井 猫(kidd)

第1話(完結)

 空は青くまぶしくて、それを反射する海面も青くまぶしくて。ここから前方に見えるビルはほぼ全て壊れて、傾いている。長年潮風に晒されたコンクリートやタイル張りの表面が、空と海のまぶしさを跳ね返している。水面から下の様子は、遠くてよく見えない。

 私は船着き場に立って、見ていた本からちょっとよそ見をしたところだった。リーダー端末の表示部は、馬に乗った騎士がマスケット銃を構えて走って行く様子を投影している。パネルの数センチほど上の空間で、騎士は銃を構えたまま馬から飛び降り、その前を鳥の群れが横切った。コラージュのような世界。骨伝導スピーカーからは雨の音がする。

 私は漁師さんの声で我に返った。

「嬢ちゃん、もう一人乗せることになったんだけど、いいかね」

 私は地元の漁港で船を持っている人を探して、ようやく目的地に向かう段取りが付いたところだった。今は船出の準備が終わるのを待っている。

 え? 相乗り?

 漁師さんの後ろに立っているのは、灰色のスーツ姿の男性だった。髪は短く、銀色のアタッシェケースを下げていた。都市部のビジネスマンが今から商談にでも行くようななりだ。

「どうも」

 男性は礼儀正しく会釈をする。男性は品の良い笑顔を私に向けた。

「短い間ですが、よろしくお願いします」

「え、あ、はい……」

 私はリーダー端末をサスペンドし、あいまいな笑顔を返した。

 今から私が向かうフクロウ海域には、高層ビルが建ち並んでいる。ただしそれらは全部廃墟だ。下半分を海水に突っ込んだ、旧世紀の残骸。そんなところにこの男性は、スーツ姿で何をしにいくのだろう。

 私の装備はチノパンに綿のシャツ、スニーカー、必要な道具や水と食べものを詰めたリュック。日暮れ前には漁師さんが迎えに来ることになっている。

 私が訝しんでいる間に、スーツの男性は軽やかに漁船に乗り込んだ。漁師さんが私を呼ぶ。私も慌てて漁船に乗った。

 揺れる船内で、男性と私は向かい合わせに座った。

「行き先が同じかたに会うとは思いませんでした」

 男性は上着のポケットから小さなケースを出すと、その中から小さなカードを一枚出し、両手で私に差し出した。私も両手で受け取る。いまどき紙の名刺とは珍しい。名刺には山と湖のマークと、男性の所属、氏名が記されている。

「スワコ・ブックマークスのミヤコシと申します。同業者のかたとお見受けしましたが……」

 私には話の流れがよくわからなかった。同業者とは何のことだろう。

「あの、すみません。プロフィールデータを送っても?」

 私はリュックからリーダー端末を出し、自分のプロフィールデータを送信する準備を始めた。ミヤコシは頷き、アタッシェケースから小型のリーダー端末を取り出した。

「最初からこっちでやるべきでしたね、失礼しました」

 ミヤコシが言う。

「てっきり本屋どうしかと……お、来た。フジ・カオルコさん、学校の先生、と」

 ミヤコシは受信した私のプロフィールデータを見て、目を見開いていた。私もミヤコシからのプロフィールデータを見た。

「スワコと言うと……ミヤコシさんは電気・機械関係のお仕事を?」

 極東で生活していれば、この山と湖のマークを目にしない日はない。スワコとは家電から巨大重機まで、あらゆるものを扱う機器メーカーである。

 ミヤコシは笑った。

「いえ、その子会社で。うちは本の配信をやっております」

「本の」

「ええ、本の」

「本の配信というと……コンテンツ生成とか?」

「ああいや、そっちの部門ではなくてですね」

 船が目的のビルに着くまで、ミヤコシと私は世間話を続けていた。

 ミヤコシが言うには、彼の仕事は『調達』。配信する本の材料を手に入れるため、フクロウ海域を訪れたそうだ。

 リーダー端末で見るストーリーと映像とサウンド、それが私たちにとってもっとも身近な読書体験だ。本とはデータであり、ネットワークで配信されるものである。

 その材料がこんな廃墟に? 人目を避けた商談でもあるのだろうか。あるいはスワコの名刺は本物なのか、どうか。私は狭い船内で、座っている身を端に寄せ、ミヤコシから距離を取った。

 船から沖を見れば、目的のビルはフクロウ海域に残された多数の廃ビルの中でもひときわ高く、傾きもしないでその姿をとどめている。ビルの中腹には隣のビルにつながる空中庭園が見えた。

 漁師さんは船をビルに近づけると、海面近くの壊れた窓に横付けしてくれた。私は注意深く窓を乗り越えて、コンクリートの床に立つ。続いてミヤコシが、まずアタッシェケースを私に預けて、窓を乗り越える。

 私はミヤコシにアタッシェケースを返すと、その場で軽く屈伸をして、周囲を見回した。ここは事務所として使われていた空間のようだ。大きな机や椅子が汚れた壁際に散らかっている。

「フジさんは、何階まで? せっかくですから途中まで一緒にどうです?」

「私は……中層階の会議室まで」

「なるほど、私と同じだ。会議室はいくつかある筈ですが――」

「そこまでは。行ってみないと」

 私はリュックの肩紐を一度引いて、廊下に出た。階段を探すためだ。

「あ、待って!」

 後ろから革靴が駆けてくる足音がした。

「私も同じ場所に用があるんですよ。一緒に行きましょうよ」

 ミヤコシが重ねて言うので、私とミヤコシは一緒に階段を登ることになった。


 * * *


 私はリュックから懐中電灯を出した。ミヤコシは私のあとについて階段を上ってくる。壁に囲まれた暗い階段に足音が反響する。

 ミヤコシが私に着いてこようとする理由がなんとなくわかってきた。充分な装備がないのだ。何しろ街で商談に臨むような姿なのだ。

 五階ほど上がった辺りからミヤコシの靴音は乱れはじめた。さらに数階上がった辺りでミヤコシはとうとう足を止めてしまった。

「ちょ、ちょっと……ひと休み、しません、か」

 スーツに革靴の男は、壁に背中を預けて階段に腰を下ろした。私は数段上からミヤコシに懐中電灯を向ける。大きく肩で息をする姿が情けない。

「あたし先に行きますね」

「ま、待って……」

 行動を共にする義理はない。私はミヤコシを残して階段を上った。

 暗い中を一人で上ることさらに三階。懐中電灯の光にひとつのドアが浮かび上がる。階段は行き止まりとなった。するとこの先はあの空中庭園か。私は力を込めてドアを開け、足を踏み出した。

 あ、と思ったときにはすでに重心を前に置いていた。

 目に入ったのは外の眩しい日差しと、足元の床が抜けた穴、その遙か下方に積み上がった瓦礫。

 その時、私の襟が後方に強く引かれた。私は仰向けに階段を落ち、段にあちこち打ち付けたあと踊り場で止まった。何か柔らかいものを背中にしいて。

「いたた……」

 身体の下から声がする。一緒に階段を転げ落ちた懐中電灯が声の主を照らした。私はミヤコシを下敷きにして倒れていた。

「ミヤコシさん!?」

 私は飛び起きてミヤコシの横に座った。ミヤコシは仰向けに倒れたまま息をついた。

「間に合った……」

 私はさきほど足下に見た光景を思い出し、今さら顔から血の気が引くのを感じた。ミヤコシは仰向けのまま言った。

「ドア開けるときは……気を付けてください……」

「す、すみません……」

 ミヤコシは身を起こすと辺りを見回した。踊り場の隅に放り出されているアタッシェケースを掴む。ミヤコシは立ち上がって私の横を抜けて階段を上り、ゆっくりと外を窺いながらドアを開けた。

 もう一度見てみると、ドアの向こうは大きな花壇を中央に擁した広場だった。足元はちょうど一歩ぶん、床が抜けている。ミヤコシは床の抜けた穴を跨いで私を手招きした。私も飛び渡り、呼吸を整える。

 大きな花壇からは伸び放題の雑草が溢れ、タイルの敷き詰められた床を侵食している。花壇の中央では低木が、つる性の植物に絡みつかれながら枝葉を伸ばしていた。頭上からは日の光が降り注いでいる。海鳥が飛んでいくのが見える。

 花壇の向こうには隣のビルの壁と壊れたガラス扉。ここは二つのビルの間に挟まれた空間なのだ。

「近隣のビルへの渡り廊下の役割をしていたようですね。屋上ではなく中層に庭園を置くなんて珍しいな」

 ミヤコシは感心しきりと言ったふうだ。

「強度とか大丈夫なのかしら」

「今でも傾いてないのが強度の証明になるでしょう」

 ミヤコシは花壇のふちに腰を下ろした。

「私、これでも少しは場数踏んでるんです。どうです? 二人で行動した方がいいと思いません?」

 私はもはや同意しないわけにはいかなかった。ミヤコシは真面目な顔で私にたずねた。

「最初は『紙の本』を探しに来た同業者かと思ったんです。でもプロフィールでは学校の先生。ペース配分からドアの開け方まで、たしかに慣れてない様子だし……私が言うのもナンですが、フジさん。こんな危険な所に、どうしてお一人で?」

 私はミヤコシの問いより、その前の言葉に気を取られた。

「『紙の本』?」

「私の仕事はあらゆる物理メディアを持ち帰ることなのです。『紙の本』もね」

「じゃあここには本当に『紙の本』があるんですね?」

「というと?」

 私はここに来るまでのあらましをミヤコシに話すことにした。私はミヤコシの隣に座った。

 話は数ヶ月前、曾祖母の死から始まる。曾祖母は大戦を知る最後の世代で、しばしば若いころの思い出を聞かせてくれたものだった。曾祖母は若いころ、物語を作る趣味の会のような物に属して、交流会などに顔を出していたと言う。

「ちょっと待ってください。ひいおばあ様は作家でいらした?」

 ミヤコシが口をはさんだ。

「いえ、そんな話は聞いたことも」

 私の返事を聞いたミヤコシは顎に手を当てて難しい顔をした。

「……続けてください」

 私は曾祖母の話を信じていなかった。

「VRマガジンの小話でさえコンピュータ・システムの生成コンテンツがないと作れないというのに、曾祖母みたいな普通の人がゼロから物語を作るなんてこと、できるとは思えないでしょう?」

 統制と大戦の時代、世界が陸の半分を海中に失ってから、人類は土地と物資の奪い合いに明け暮れた。これは歴史の授業でもやる内容だ。

 重要なのは、その苦難の数世代の間に、人類が本の中身を創る力を失ったことだ。『紙の本』が材料と置き場所を失ったように。本はデータに、本の中身はコンピュータ・システムによる生成物になった。平和になった今、人類はそれをそこそこ楽しんでいる。

「たしかに大戦以降、人間による新作は世に出ていません。いま配信されている本の八割は物語生成理論によるコンピュータ・メイドのコンテンツです」

 ミヤコシは硬い表情を崩すことなく言った。私は話を続けることにした。

「ところが、曾祖母の遺品を整理していたら、印刷物が出てきたんです」

 それはとある催し物の案内だった。『作品』を持ち寄って交換し合う、同好の士を募る内容のチラシ。そこに記された開催場所こそ現在のフクロウ海域、このビル中層の会議室である。

「曾祖母の話では、世界が海に沈んだ日はちょうど『イベント』の開催日で。会場からみんなで避難したと言っていました。このビルがその会場かどうかはわからないけれど――」

 知ってしまったからには、確認しなければ我慢できなくなったのだ。曾祖母は物語を作ることが出来たのか、どうか。

 ミヤコシは腕を組んで私の話を聞いていたが、おもむろに口を開いた。

「フジさん。さきほど私は、本の八割はコンピュータ・メイドだと言いました。残り二割は『紙の本』から得たデータを元にして表現を追加した――サルベージされたコンテンツです。私はその二割のためにここに来ました」

「じゃあ、まさか」

「私もそれなりに情報収集して来ているんです。ひいおばあ様のお話、本当かもしれませんよ」

 ミヤコシは立ち上がり、アタッシェケースを片手に提げた。

「行きましょう。展示ホールはこの先です」

 私とミヤコシは隣のビルへ進んだ。暗い廊下が続いている。ミヤコシは上着のポケットからペンライトを出した。壁の上の方を光が撫でる。『第1会議室』と書かれている。壁のすぐ続きに大きな扉があった。

 扉をゆっくりと開くと、室内の空気が静かに流れ出すのを感じた。室内は闇に包まれている。私は懐中電灯で足元を確認し、それから室内に光を向けた。

 簡素な机が見えた。机が真っ直ぐに列を作って、通路のようなものを構成している。

 ミヤコシはその場にしゃがんでアタッシェケースを開けた。ペンライトを口にくわえ、中から何か引き出している。

 急にあたりが明るくなった。開いたアタッシェケースの横に組み立て式のランプが据えられていた。アタッシェケースには内蓋のようなものがはまっている。離れたところで光がうっすらと反射し、そこに白い壁があることが判った。

「こんな光量では足りませんが、無いよりマシでしょう」

 ミヤコシはペンライトを会議室の奥に向け、ゆっくりと中に入っていった。私もその後に続いた。

「ミヤコシさん、これ」

 机の上にはそれぞれ、小さな棚や絵看板が据えられ、印刷物が積まれている。ミヤコシは片手で印刷物を一部手に取り、ペンライトの光を当てた。机に積まれていた印刷物は薄い『紙の本』だ。

「状態がすごくいいな……ずっと閉め切ってたからかな」

 ミヤコシは紙の本の表紙を眺め、ひっくり返して裏側を眺める。表紙には絵が描いてある――肌も顕わな美少年の。

「あ。……失礼!」

 ミヤコシは我に返ったと言うように私を見て、紙の本を机に戻した。

「少年愛を扱ったコミックのようですね」

 ミヤコシは平然としている。

「少年愛……?」

「説明するより読む方が早いかと。でも、それはあとにしましょう」

 私とミヤコシは奥へと進んだ。机の列は突き当たりの壁の手前で曲がって、会議室をぐるりと一周するように作られていた。

 机に積まれた紙の本の内容は多岐にわたる。ところどころで手に取って覗いただけでもコミック、文章、短歌、詩、旅行記、資料集。美少年、美青年、美おじさん、女装美少年、擬人化された小動物。

 通路をたどり、私とミヤコシはホールの入口に戻ってきた。

「すごい密度だった……」

 入口に置いたランプの明かりの前で私は息をついた。

「だいたい美少年ものでしたね……」

 ミヤコシは机から持ってきた何冊かの内容を検めている。美青年の華麗な絵が紙の本の表紙を飾っている。

 私は最初の机にあった紙の本を手に取ってみた。古式ゆかしいコミック表現。繊細な絵と台詞が枠線に区切られて続いている。美少年どうしの憧れから始まる恋の物語だった。

 それは今までに見たVRマガジンのどんなコンテンツより叙情的で、私の意識を引きつけた。これを普通の人間が――え、濡れ場あるの。

 私は慌てて本を閉じた。

「曾祖母はここで何をやっていたのでしょうか……」

 私は会議室の奥の暗がりに目をやった。

 曾祖母のチラシから私が想像していた『催し物』はもっとささやかなものだった。物語を創る稀有な人間の、同好の士。そんなに集まるものではあるまいと。それが会議室をひとつ埋めている。机一つがひとりの作者の席だと仮定して、いったい何人の『同好の士』が集まったのか。美少年コミックだけで。

 ミヤコシを見ると、別の一冊をちょうど読み終えたところだった。

「純愛だった……泣ける……」

 ミヤコシは本を閉じた。

「流通コードがない。これが……個人の作? ……全部?」

 ミヤコシは暗い会議室を見回した。

「ひいおばあ様はすごいかただったんですね」

「そう……なのでしょうか」

「ここにいた人たちのひとりだったんでしょう? 一冊一冊に意思と気迫を感じます。たぶんリビドーというやつだと思いますが……良いものです。コンピュータ・メイドでは出せないものでしょう。ひいおばあ様のペンネームはわかりますか?」

「ペンネーム?」

「昔の人はものを書く時に変名を用いたんですよ」

「知り合いにメッセージを送るときに、よく変名を使っていたので、それかと思います。『フジヤマ大暴発』」

「ンッフ」

 ミヤコシは吹き出した。

「いい名前ですね」

「本当にそう思ってます?」

 私は床のランプと懐中電灯の光を頼りに、机に積まれた紙の本を調べていく。最初のページから順番に、作者名を探して。

「たいていは、最後のページに作者名が載っている筈です」

 ミヤコシが言う。

 私とミヤコシは黙々と紙の本を手に取り、最終ページを確認する。

 会議室を半周ほど回った壁ぎわの席に、それはあった。やや厚めのコミックの最終ページにはタイトルと、発行年月日、そして『描いた人:フジヤマ大暴発』の文字。

「あった……!」

「ありましたか!」

 ミヤコシはペンライトを片手に走ってきた。その間に私は表紙を見る。デフォルメのきいた画風で、体格のいい青年二人が抱き合って半ベソをかいている。

 私はこの一冊を抱えて、ミヤコシは同じ一冊を片手に持ち空いた手にアタッシェケースを持って、会議室を出た。私たちは空中庭園でページを開いた。

 曾祖母のコミックは男性カップルが初めてベッドをともにする際にあれこれと失敗を繰り返すコメディで、最後はめでたしめでたし。表現は少々どぎついけれど――面白かった。

 隣ではミヤコシも読み終えたようだ。

「ひいおばあ様、コメディが得意だったんでしょうかね?」

「どうでしょうね」

 とにかく、曾祖母が自分で物語を創っていたことは確かめられたというわけだ。

 私は曾祖母が最初から最後まで濡れ場で出来ているような物語を作っていたことに少々困惑していた。話は本当に面白かったのだけれど。

「これにて一件落着……私も自分の仕事をしなければ」

 ミヤコシはアタッシェケースを開いて内蓋に片手を載せる。内蓋の鳥の図案が白いLEDの光を放ち、小さな音とともに開いた。

 中には譜面台のような台座が見えた。ミヤコシは中から小さなアームを引き出して譜面台の回りに立て、そこに曾祖母のコミックを置いた。

 ミヤコシは譜面台の端を指で撫でた。アームがゆっくりと動き出す。二本のアームがページをめくり、三本目のアームは先端から赤いレーザー光を発しながら紙面を撫でていく。二本のアームが再び動き、ページをめくる。

「これは、何を?」

「『紙の本』をデータ化しています」

「データ化……?」

「本にするんです。企画が通れば、アーティストの手でVR化され配信されます。描き込みの緻密さをリーダー端末で再現できるか難しいところですが――」

「曾祖母のエッチなコミックを、本に!?」

 譜面台の上で開かれた紙面では、美青年が引き締まったボディを晒している。

「ウチには成人向けのレーベルもありますので。需要に応える良いものができるでしょう」

「ええー……」

 困惑し続ける私に、午後の光が降り注いでいる。

 私の手には曾祖母の創った紙の本がある。明るいところで見るとそれは結構痛んでいて、時間の経過を感じさせた。

「ミヤコシさんは、これを本にして売るんですよね」

「ええ」

 私の心には、うまく言葉にできないが抵抗感のようなものがあった。ミヤコシは私の顔からそれを読み取ったのか、真面目な顔を私に向けた。

「フジさん。モノを創るというのはたいへんなことです。実際、今の人類には出来ていない」

 ミヤコシは言った。

「モノを創るというのは特別な才能の持ち主にしか出来なかったのだと思われがちです。でも、そうじゃなかった。あなたのひいおばあ様のように、普通の人が物語を創っていた。その証拠があった」

 私は両手で持ったままの紙の本を見た。曾祖母、『フジヤマ大暴発』。

「自分の物語を紙の本にして、誰かに読ませようとした人達がいた。それが誰の手にも渡らないまま、暗闇に閉じ込められているのが、私は残念に思うのです」

「でも、そのう……内容が……」

「面白かったでしょ? コンピュータ・メイドのやつより」

「それは……」

 最初に見たコミックのあの情緒、美しさ。曾祖母のコミックの軽快な笑いと色気。VRマガジンより乏しい表現しか持たないはずの旧時代のメディアが私を夢中にさせた。

「たぶん書いた人の気持ちがこもるんじゃないですかね……作り込みとか、そういうところに。そういう本があるなら、私はそれを読み、そして誰かに読ませる」

 ミヤコシは微笑んだ。

「そういうものが世にあふれて、多くの人が触れられるようになれば、この時代にも物語を創る土壌が出来るかもしれない。私たちの次の世代ぐらいには」

 私は黙っていた。これは祈りだ、と私は思った。ミヤコシはいま、この時代の人間の手による物語が欲しいのだ。

「だから、どうか許してください。ひいおばあ様と仲間達が遺したものを世に出すのを」

「……わかりました。私が決めることじゃない気もしますけど」

 ミヤコシは礼儀正しく頭を下げた。

 ミヤコシは会議室に戻り、さらに何冊かの紙の本を持ち出した。それをパラパラとめくり、次にデータ化する本を選んでいる。

「何冊かのデータを会社に送って、回収チームの派遣を申請するんです」

 それからしばらく、私とミヤコシは会議室から持ち出した紙の本を読んで過ごした。ときおりミヤコシはアタッシェケースに乗せる本を交換した。ミヤコシはデータ化が終わるまで、ここで紙の本を読んで過ごすつもりのようだ。

「読み放題ですよ。これだから本屋はやめられない」

 ミヤコシは会議室に戻っては、さらに何冊か抱えてもどってくる。私も紙の本を読み終えては次の本を取りに行く。

 紙の本を読む合間にミヤコシはリーダー端末で何かメッセージを確認している。

 やがて日が傾き始め、空中庭園にはビルの影が差すようになった。ミヤコシはアタッシェケースの内蓋を閉めた。

 私のほうもそろそろ、帰りを考えなくてはならない時間になっていた。漁師さんが海面近くの階まで船で迎えに来てくれることになっている。私は曾祖母のコミックと、何冊かの気に入った紙の本をリュックに詰め、残りは会議室に戻した。私はミヤコシにいとまを告げた。

「私も一旦引き上げますので。一緒に降りましょう」

 結局私はミヤコシと一緒に、足元に気を遣いながら暗い階段を降り、最初のフロアに戻った。


 * * *


 ビルと空中庭園が遠ざかって行く。揺れる船内からそれを眺めながら、私はリュックに詰めてきた数冊のことを考えていた。

 あの本に出ていたあの二人、彼らはどのようにして出会ったのかしら。こっちの本に出ていた当て馬役の青年のその後は? 本編で描かれなかったことが気になってくる。

 ふと、あのキャラクターにはあんなことがあったかもしれない、あるいはこんなことが、などといった想像が断片的に頭をよぎった。

「どうしました?」

 ミヤコシが言った。

「ずいぶんと、楽しそうだ……ひいおばあ様のこと、わかって良かったですね」

「ええ」

 私が応えると、ミヤコシは満足げに頷いたのだった。


 * * *


 あの空中庭園での一件から三カ月ほどが経った。

 私のリーダー端末に一通のメッセージが届いた。差出人はスワコ・ブックマークスのミヤコシ。

 メッセージには、あのビルで回収した物理メディアからサルベージしたデータを元に、いくつかの本の制作・配信が決まったと書かれていた。タイトルと作者名のリストの中には、『フジヤマ大暴発』の名も含まれていた。

 私は空中庭園で聞いたミヤコシの祈りを思い出した。

 消費される成人向けコンテンツの中からでも、その願いが叶えられることはあるだろうか。あると良いと思う。誰かの書いた物語が雑多なほどに溢れる世界こそ、きっと彼の目指す世界なのだ。

 私は書きかけのまま進まない恋物語のファイルを閉じ、メッセージへの返信文を考え始めた。


《了》

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空中庭園の記憶 奈賀井 猫(kidd) @kidd_mmm

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