それいけ、アノウちゃん!

莫[ない]

街へGO!

 青く澄み渡った秋晴れの空が天に広がり、人々の行き交う大通りは喧騒で満ちています。

 道沿いに立ち並ぶ屋台の一軒から声があがりました。その屋台では色とりどりの紙が巻かれた土瓶が天板に並んでおり、二人の男女が品定めをしています


「この香水さぁ、すっごく良い香り。あんたも嗅いでみない? エータ?」


 片方の女性がコルクの抜けた注ぎ口を手で仰ぎ、甘く爽やかな香りに恍惚とした表情を浮かべます。

 エータと呼ばれた男性も同じ所作で香りを確かめます。土瓶の上で、白くなめらかな糸で織られた手袋がひらひらと揺れます。


「青林檎ですね。しかし、少々値が張りすぎではないでしょうか。それに……」


 エータはシワひとつない黒色のジャケットの襟元を整え、再び女性と視線を交わします。


「用事を手早く済ませたいのですが。アノウお嬢様」


 アノウという女性はエータの願い出を気にも止めず、香水瓶の物色を再開します。先とは違う瓶を手にとって、顔にかかる横髪を手で抑えながら香りを愉しみます。

 エータは眉尻を下げ、やれやれといった様子で鼻息を静かに漏らしました。


「あ。こっちの香りは前にも嗅いだことがある」


 アノウは瓶を卓上へいったん起き、氷柱のように細い人差し指を頬へ当てます。厚手で丁寧な縫製のコートの袖から、血色が良くシミもない手首が覗きます。


「防腐剤に使われてるやつだ。あんたの古臭くて、堅苦しい厳格な頭にぴったり」

「……ふむ。なるほど」


 香りを検分したエータは眉間のシワを思案げに寄せます。アノウの三日月目は笑みを絶やしませんでしたが、唇は覗かせていた歯を少し隠します。


(……キレた?)


 二人の間に沈黙が流れます。大通りの賑やかさもまるで遠くから聞こえるかのようです。

 静寂を先に破ったのは、エータでした。


「思い出しました。墨汁の香りに似ています」


 剣のように凛としたエータの顔が、少しばかりの笑みをにじませます。


「確かに好みだ。店主、二つほどください」

「……本気で? あ、私のもお願い」


 二人はそれぞれ好みの香水瓶を購入します。エータはそれらをトランクへしまい込みました。


「さあ。シャマナのもとへ向かいましょう」


 シャマナとは待ち人の女性の名前。この街の広場で彼女は似顔絵描きの仕事を手伝っています。

 ある人の命令で二人はシャマナに頼み事をしており、今日はその仕事の回収にやってきたのです。ある人とは、すなわち「魔王」のことですが――。


「そちらのお二方。このケーキ、きれいでしょう? よかったら見ていかないかい?」


 アノウたちはあるお店の前でふたたび呼びかけられました。容姿に優れ、比較的裕福に見える彼女らは市場の営業相手にぴったりです。


「恐縮ですが、ただいま少々急いでおりまして」


 エータが丁重に断ります。道を少し進んだ彼がふと振り返ると、アノウが彼の後方でケーキ屋と談笑しているのに気が付きました。


(アノウ!)


 この二人はこの街とは別の領地からお忍びでやってきた富豪の子息、そしてその世話人として民衆から捉えられています。

 この国の風俗は彼らにとって実際に珍しいものばかりでした。ここからもっと西方に広がる大地、黒泥に満ちた不毛の大地から生まれた彼ら「魔人」にとっては。

 アノウは自身へ向かってくるエータの気も知らず、にこやかに笑います。


「エータ。シャマナたちにお土産も必要でしょ」


 ケーキ屋の店主はそれを聞き逃さず、えいやと営業を始めます。


「お土産ですか! 素晴らしいですね。お相手はどんな方でございますか?」

「女の子。なにか良いオススメはあるかしら」


 ははぁ、と店主は大仰にうなります。


「お嬢様ということですね。私に任せてください。お誂え向きのケーキがございますよ」


 店主は携帯用の木箱をカウンター下からそっと取り出しました。箱の中は棚が設けられており、いくつかのホールケーキがそこに収まっております。

 彼はゴツゴツとした指でそのうちの一つを指し示しました。


「こちらはどうです? 試食をいまから出しましょう」


 店主はケーキの一片を手早く切り分け、白い陶器の皿に載せました。そのケーキの外面は傷ひとつない滑らかなクリームで覆われており、断面ではふんわりとした生地とふんだんに盛り込まれたドライフルーツが層を成しています。

 アノウはケーキ屋の店主からフォークを受け取り、それで切り取ったケーキの欠片を口に運びました。彼女の舌の上をねっとりしたクリームとザラザラとしたフルーツ、ふわふわの生地が撫でていきます。


(正直に言うと、味とかよく分かんないんだけどな)


 魔人は感受性が摩耗している傾向がおしなべてあります。

 肉から生まれる人間とは違い、魔人たちは泥から生まれてきます。姿こそ人間と同じですが、彼らの感覚と精神性はヒトとは異質でした。


(ちょっと気まずいな)


 アノウからの評価を待ち望んでいる店主の視線に、アノウといえども少しばかりの気後れを感じざるを得ません。

 しかし、ケーキに散りばめられた乾果は色とりどりの輝きを放っており、視覚でならどうにか楽しめそうだとアノウは気を取り直しました。


「……なるほど」


 口を開いたアノウの一声に、ケーキ屋の店主が喉を鳴らしました。少しの間を挟んで、アノウが話を切り出します。


「二つください」

「まいど!」


 嬉々とした店主の声が通りにも響き渡りました。通行人がアノウたちの存在に気づき、ケーキ屋に人だかりができ始めます。

 エータは店主へ代金を払い、ケーキの入ったバスケットを受け取りました。


「ありがとうございます。ご贔屓ひいきに!」

「また来るわ」


 アノウは店主へ手を振ります。「さて」エータが諦めをにじませた声を漏らしました。


「今度は急ぎましょう。お嬢様」

「はいはい」


 二人は大通りを進み、ケーキの三つ入ったバスケットとともに広場を目指します。



 中央広場からはいくつもの大路が街中へと伸びており、今日のような休日ともなれば、広場になだれ込んだ人々でますます活気づきます。

 正午の鐘が家々の漆喰に染み込んでいくころ、アノウたちは広場を行き交う群衆に紛れ込んでいました。


「エータ。前が見えん」

「私にしっかりついてきてください」


 アノウの身長は140cmとちょっと。人混みを歩くには視界が悪くてしょうがありません。

 対して、エータは歩けばそれだけで目を引くほどの長身でありましたから、こんな群衆に混じっていても方向感覚を失わずにすみます。


「着きますよ」


 アノウはエータに手を引かれながら広場の一角、目的地になんとかたどり着きました。似顔絵描きが石畳の上に敷布を広げ、キャンバスに描いた見本が並んでいます。

 脚の低い木椅子に腰掛けた似顔絵描きの男性の横で、椅子に同じく腰掛けた少女がアノウたちの姿を認めたようでした。


「あら」


彼女は持っていた炭棒を筆箱に置き、その手を再び上げると、掌をアノウたちへひらひらと揺らしました。


「アノウちゃん。いらっしゃい」

「シャマナちゃーん。元気ぃ?」


 シャマナと呼ばれた似顔絵屋の少女はアノウと抱擁を交わし、周囲にいた人々はその微笑ましさに顔をほころばせました。

 似顔絵屋を営む壮年の男性は手と袖についた炭の粉を払い、立ち上がってエータと握手します。エータは持参したバスケットの中身を店主に見せました。


「お久しぶりです。これ、よかったら頂いてください」

「ほお、ケーキか。ありがたく頂戴するよ」


 エータと店主が談笑している横で、シャマナという少女が自身の着ている服を眺めまわしています。満足したのか、彼女は店主に向き直りました。


「クタンさん。アノウちゃんと少し遊んできてもいい?」

「構わんよ。ただし、日暮れまでには帰ってくるんだぞ」


 シャマナはエプロンをさっそく脱ぎ、黄土色のマントを羽織って出かける準備を始めます。


「お会いしたばかりで恐縮ですが、私もついていってよろしいでしょうか」


 エータは眉尻を下げ、店主であるクタンへ申し訳なさげに願い出ます。


「気にしないでくれ。子供二人だと心配だし、君がついていてくれるなら安心だ」

「ありがとうございます」


 シャマナは靴を履き、ハンドバッグを携えて敷布の外に出ました。


「クタンさん。行ってきます」

「気をつけてな」


 アノウとエータもクタンへ頭を下げ、三人は広場の雑踏に足を踏み入れていきました。いくつかの道を曲がり、彼らの前方に赤いブロック塀と、それに沿って一列に並ぶ木々が見え始めました。

 アノウたちは透かし細工の施された門を潜ります。ここは街の運営する公園で、街なかにしては広大な敷地と豊かな緑が民衆の間で大変良い評判となっていました。


「この辺でいいか」


 アノウは遊歩道沿いの白いベンチを指し示しました。三人が並んで座るには充分な広さの座面です。

 中央に座ったシャマナがハンドバッグから巻布を何枚か取り出しました。炭で描かれた下描きにインクの線が載っています。


「こちらが依頼されていた場所の外観と構造。あとは人相書きですね」


 シャマナは広げた布をアノウやエータに見せます。


「さすが。シャマナの腕前は達者だねぇー」


 アノウはスケッチを眺めながら、シャマナを褒め称えました。そこに描かれた図像はまるで視界をそのまま写し取ったかのように写実的です。

 それもそのはず。シャマナは、アノウやエータと同じく魔人です。

 魔人は各々おのおのが固有の異能を持っており、シャマナのそれは「一度見聞きしたものを忘れない」というものです。


「アノウちゃんもきっとできますよ」


 シャマナは両手の指先を合わせて胸の前に構えました。彼女が何かを説明するときに良くする癖です。


「キャンバスに見えたものをそのままなぞればいいんですよ」

「簡単に言ってくれるなぁ……」


 アノウがぶうたれている一方で、反対側に座るエータがジャケットの懐から小袋を取り出しました。彼はその中身を掌へ流し出していきます。


「これからもよろしくお願いいたします」

「はい。私でよければ」


 シャマナは礼金を受け取ります。彼女はそれを自前の銭袋にしまったあと、アノウの方へ向き直りました。


「アノウちゃんも」

「わたし?」


 シャマナが掌をアノウへ差し出す一方で、アノウは判然としない様子です。公園の木々が風でざわめき、そして止みました。


「……なんかあったっけ?」

「友達料」


 シャマナはそう言うとにっこり笑いました。


「えぇ?!」


 アノウは目を見開いたかと思うと、よよよとしなだれてしまいます。顔に両手を当てて、どこかわざとらしい悲しみを声に滲ませます。


「私たち、お金だけの関係だったのね。悲しい……。ところで、いくら必要なの?」

「うふふ」


 シャマナはくすくすと忍び笑い、やがてアノウも手のひらの奥でニヤつき出します。

 シャマナは両手をアノウの背中へ回し、アノウもそれに準じました。


「友達料ぉー」

「友達ぃー」


 二人はお互いに上体を寄せ合い、ひとしきり笑いきったあと、やっと体を離します。

 アノウたちが一連の芝居を楽しんでいる間、エータはといえば、晴れ渡った青空を飛び交う鳥たちや、公園の遊歩道を散歩する人々を眺めながら、ひたすらにベンチで座っていました。歩いている子供とときどき視線が合えば、手を振り返したりなどもしています。


「あ。終わりましたか?」


 ベンチから立ち上がったアノウに気づいたエータが声をぼんやりと吐き出しました。

 アノウは腰へ拳を当て、大げさにむっとします。


「なんだ。羨ましいのか?」

「心底どうでもいいですね。さて、戻りましょう」


 三人は公園をあとにし、街の広場に帰着。そして、アノウとエータはシャマナたちに別れを告げました。

 ふと、アノウが振り向いて手を上げます。日の傾き始めた広場は先よりも人数が減り、アノウでも遠くにいるシャマナを捉えることができました。


「バイバイ」

「またねー」


 手を振り返すシャマナと店主のクタンを残し、アノウとエータは帰途につき始めます。低空に浮かんでいる太陽が無事に務めを果たした彼らをオレンジ色に染め上げていました。

 二人の長い影は歩くたびに形を変え、アノウの鼻歌が空高くへと吸い込まれていきます。

 そして、魔王が喜んでくれると思うとアノウの心はわくわくし、魔王城へ少しでも早く戻るべく、いつもと違う帰り道を選びました。



 日の傾き始めた空を仰げば、建物の陰は青く染まっており、街路には長い影が落とされています。

 本道の華やかさは姿を消し、路地はひっそりと静かで薄暗く湿っていました。アノウとエータは知ってか知らずか、治安の大変な悪さでその名の知れ渡った通りに足を踏み入れてしまいました。


「金を出せ」


 一本道に立ち尽くしているアノウとエータから少し離れて、武装した数人の男たちが道を阻んでいます。

 着古した服をつけるのが一般的な市民に比べて、アノウたちの身なりは優雅なものでしたから、追い剥ぎに目をつけられても不思議ではありませんでした。


「服でもなんでも、金目のもんは全部置いていけ。死にたくなけりゃあな」


 男の一人が短刀の先をチラつかせます。


「へへへ……」


 取り巻きたちの笑い声が、彼らの口を覆うボロ布の向こうから忍び漏れました。

 アノウは隣のエータから銭袋を受け取ると、それを逆さまにするやいなや紐を一気に緩めます。中に入っていた色とりどりの硬貨が石畳に音を立てて落ちていきます。


「こんなもの、いくらでもやるよ」


 アノウは含み笑い、彼女の三日月目がいっそう鋭い弧を描きます。


「欲しいんだろ? 拾ったらどう?」

「あァ? 喧嘩売ってんのか」


 追い剥ぎの男たちのうち、最初に声を上げた男がアノウをにらみます。最初は後ろでニヤついていた彼の仲間も、いまではトカゲのように冷たい視線をアノウたちへ向けていました。

 そんなことは気にもせず、次にアノウはコートを脱ぎ始めます。


「おじさんたちこわーい。優しくしてぇ〜」


 アノウが猫なで声を上げながら肩をあらわにします。エータは内心、アノウの声色が気色悪かったのでゾッとしながらも、表情はいつもの微笑を浮かべるに留めておりました。


「私、まだ初心うぶな子供だからさあ〜〜〜〜〜〜ぁ」

「殺す」


 追い剥ぎの一人がそうつぶやき、腰を落として刃を構えます。アノウはコートを脱ぐのをやめ、背骨を曲げて上体を屈めました。

 少しのあいだ彼らの誰もが微動だにせず、やがてアノウがその静寂を打ち破ります。


「へ、へへ」


肩を震わせながら笑うアノウが面を上げました。見開いて四白眼になった彼女の瞳孔に、追い剥ぎたちも彼女の尋常無さを感じざるをえません。


「そんなにケンカ買いたいならさぁ。売ってやるよおぉ!」


 アノウがそう叫んで、彼女の瞳がキラリと光を放ちます。ミシリ、とどこからともなく音が立ちました。


「へっ。見ろよ」


 追い剥ぎたちの先頭に立っていた男が鼻で笑い、短刀の先でアノウを指します。


「あいつ、威勢のいいこと言う割には、膝が震えてやがる」

「違いますよ。親分!」


 先頭に立つ否定された男が後ろにいる仲間へ振り返ります。親分を否定した男の顔は視線を右往左往させ、その顔に明らかな狼狽ろうばいが見て取れました。


「あいつらだけじゃない。俺らが、いや、『街自体』が『揺れ』てるんスよぉ!」

「――なにぃ?!」


 親分と呼ばれた、追い剥ぎのリーダーが素っ頓狂な声を上げました。

 地面の揺れはますます激しくなり、地面や空からとてつもなく巨大な物同士がこすり合わさるような不快音が響いてきます。慌てはじめた追い剥ぎをよそ目に、アノウの隣に立つエータは状況を冷静に傍観していました。


(アノウ。やはりキレてしまったか)


 シャマナが「一度見聞きしたものを忘れない」ように、アノウやエータも魔人としての特異能力をまた有しています。

 アノウのそれは「穴を開ける」こと。アノウに力をこのまま思う存分に振るわせれば、この一帯を飲み込む巨大な穴が地面に開くでしょう。


(だが、そのとき私たち二人も無事では済まないかもしれない)


 アノウはエータから見て感情の制御が未熟です。力をコントロールして追い剥ぎたちだけを飲み込む穴を作ることも理論上では可能なのだろう、とエータは思案しつつアノウを盗み見ます。


「へへ、へへへ」

(これは、無理だろうな)


 エータはアノウの無鉄砲さ、天真爛漫さに長く付き合わされてきました。しかし、彼も彼女と心中する気になれるほどには、世をまだいとってはいませんでした。

 エータはアノウの能力行使までに猶予があることを幸いですが知っていました。まだ間に合うのです。


(私がやらねば)


 さて、季節は秋。空低くで浮かぶ夕日は街並みを横から照らし、彼らの立つ裏通りを長い影で染め尽くしています。

 影はエータにとって、またとない友人でした。


(――影よ)


 エータは祈り、その願いは聞き届けられます。

 追い剥ぎたちの周囲から無数の剣が勢いよく生え、彼らを余すことなく貫きつくします。公園の芝生のように生い茂った剣の向こうで、追い剥ぎたちが絶命しました。


「……ガキども。いま、腹一杯にして、やる……」


 追い剥ぎのリーダーはそう呟くと、彼の手から落ちた短刀が石畳とぶつかりました。

 甲高い金属音が路地にこだまし、やがて元の静寂が帰ってきます。地鳴りもいつの間にか止んでいて、エータはアノウの顔を覗き込みました。


「は? つまんな」


 ぼんやりとした目でアノウはエータを見つめ返し、低い声で毒づきます。


「つまんな」

「静かに。一度聞けば十分だ」


 エータはアノウが脱ぎかけたコートを掴み、彼女の肩へそっと羽織らせ直しました。

 それから、彼は地面に散らばった硬貨を拾い集めだします。そのとき、頭上でなにかがカタンとぶつかり合う音が鳴り、路地に響き渡りました。


「ひっ」


 いつの間にか開いていた頭上の窓の奥で、住民がエータたちをおぞましいものでも見るような目で見つめていました。

「はあ……」エータがため息を付き、顔を右手で覆いました。

 蛇のように鋭い瞳孔が指の隙間からキラリと光りを漏らします。


「また叱られる」


 裏道に面した家々の中から次々と静かな悲鳴が鳴り響き始めます。

 エータは能力を路地に面した建物のうち窓を向けている住居へ手当たり次第に使いました。さすがのエータも予定外の出来事へ動揺を抑えきれず、魔王様の耳にもこの事件についてきっと入ることになるでしょう。


「アノウ、引き上げますよ」

「あーあ」


 アノウは血まみれの石畳に反射する夕焼けの空を踏みつけながら、なにかうまい言い訳がないかどうか思いを巡らせました。



 夜の魔王城は大理石のようにしんと静まり返り、広間の壁際ではいくつも並んだ燭台が、暗い室内をぼんやりとしたオレンジ色で照らし出しています。

 部屋の床では、三人の影が火に切り出されて揺らめいています。アノウとエータは街でのちょっとした騒ぎを乗り切り、いままさにシャマナから買った情報を魔王へと報告しているところでした。


「ふむ」


 魔王は革張りのソファへと腰掛け、黒光りする木の肘置きへ上体を預けます。彼の瞳がかすかにきらめいたあと、視線の先にある卓上の蝋燭で火が灯りました。

 彼もまた魔人であり、発火能力を有しています。

 その一方で、凍てつくような寒さと張り詰めた空気のなか、鏡のように磨かれた石のタイルの上でアノウとエータは正座していました。彼らは床へ目を落とし、少なくとも表向きは沈痛そうな表情を浮かばせています。


(とほほ)

(くっ。なぜアノウだけでなく、私まで……)


 心のなかでエータは苦虫を噛み潰しました。魔王様に敬意を評して、眉間の皺を実際に寄せるわけにはいきません。


「買い物は楽しめたか?」


 魔王は報告書に目を通したまま尋ね、アノウが目を見開いて唇をひらきます。


「も、もちろんです。魔王様のご厚意で外出を許可していただき誠に感謝――」

「ずいぶん賑やかだった、みたいだな」


 魔王は面をなお挙げません。彼が書類のページをめくった音が石の広間へ染み込んで、消えていきます。

 アノウは床へ視線を落とし、胸へ手を当てました。


「あっ、えっと、それは……」

「――まあいい」


 魔王は報告書をピシャリと鋭く閉じ、突然に湧いた大きい音で二人は背筋をいっそう伸ばしました。

 しばしの沈黙が続き、耳鳴りに慣れてしまいそうな時間さえ経った頃合いに、魔王は顔をようやく上げました。


「いい買い物をしたな。シャマナから受けた情報は有益だった。彼女の顔と働きに免じて、今日起きた貴様らの行いは不問とする」


 エータは安堵し、息をふっと静かに漏らしました。その横で正座するアノウとなると、喜びで目尻を歪ませます。


(魔王様〜〜! ずっと付いていきます!)


 彼女のランランとした瞳の先で、魔王はソファを座り直し、肘をついて両手を組みました。


「シャマナによれば、近々、人間たちが魔人討伐に繰り出すらしい。今からそれへの対抗策について説明する。まあ、座れ」

「はい!」


 シャマナが声を元気よく上げます。

 魔王は彼女をいちべつし、そして二人の後ろへ視線を向けました。アノウたちの後方で待機していた魔王の配下が木椅子を抱えて向かってきます。


「ああ、そうだ」


 自身の爪を見つめていた魔王は、やにわに顔を上げました。


「椅子は一つしかないぞ」

(えっ……)


 二人の後ろで、椅子を持ってきた魔人が忍び笑いします。仕方なく、アノウはエータの膝の上へちょんと腰掛けました。

 アノウは魔王の話へ耳を澄ませながら、魔王の手元にある燭台で揺らめいている蝋燭の炎を見つめます。彼女の瞼はなんだか重くなってきましたが、粗相をまた見せるわけにもいきません。


(……おい)


 時折、アノウはエータに肩を叩いてもらいながら、頭へ魔王様の読み上げた作戦をなんとか刻んでいきました。



 今や、魔王のありがたいお話を聴き切ったアノウの頭は眠気で満ちていました。

 アノウとエータは広間から退室し、廊下の途中で彼女はエータとも別れます。アノウは石のように重たい体を引きずるかのようになんとか歩き、寝室にたどり着くやいなやベッドへ突っ伏しました。


(ねむ……)


 魔王城に帰ってすぐに湯浴みしておいてよかった、とアノウは過去の自分へ感謝します。さらさらとしたシーツに頬をなじませているうちに、彼女はどんどんまどろんできました。


(今日買った香水、食べたケーキ、シャマナちゃんとクタンさん、なんかムカつくやつら、あとは、魔王様の、えっと……)


 泥から生まれたアノウは泥のように寝そべり、まぶたを閉じます。彼女の意識は湿って黒い土のように暗い闇、その奥底へと吸い込まれていきます。

 降った雨が地中深くへ染み込むように、今から彼女も深い深い眠りにつくのです。


(明日もきっと、楽しい日だよ……)


 アノウの表情が緩み、やがてお腹が膨らんでは縮むを繰り返しはじめたころ、ねぐらのはるか上空にて雲間からお月さまが瞳を覗かせました。

 お月さまはアノウの寝顔をいとおしそうに眺め、柔らかくほほえみます。


(おやすみなさい。アノウちゃん)


 やがて月は姿を隠し、秋の夜は深々と冷え込んでいきます。


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