ドミノ
蒼暗い空に星が浮かぶ。きっと俺のことなんて、あの星からは見えないのだろう。彼がたばこを吸い終わり室内へ一歩足を踏み入れると、どこかで嗅いだような優しい香りがした。それはお花の匂いでも石鹸の匂いでもないが、なんとなく優しい匂いだった。
彼女と出会ったのはドラッグストアの駐車場だった。いつものように安物のチョコレートを携えて帰路につこうとしたとき、駐輪場に1人の女性が立っていた。彼女を視界に捉えた瞬間、彼女の目の前にある自転車がゆっくりと傾いていった。そしてそれは隣のそれとぶつかり、ガシャンと鈍い音を立てた。あとは最後の1台が倒れるまで、ショーは続いていった。不思議だが、人はそういうとき一部始終を静観してしまう。彼は仕組まれたように倒れていく自転車をどこかおかしく眺めていた。自転車とコンクリートがぶつかる音が事態の終わりを告げると、女性は焦りの様子で最初の1枚を引き起こそうとしていた。彼が家路につくにはその現場を通り過ぎなければならない。ほんの少しの葛藤を終え、彼は女性の元へと近づいていった。
「あ、すいません。ありがとうございます」彼女が引き起こそうとしていた台を彼がすくい上げようとすると、女性は長めの髪を押さえつけてそう言った。これから午後の仕事へ向かう車が大通りを通り過ぎるなか、わずかな風があることを彼はそれを見て知った。そして髪を押しなめしている白い手と彼女の顔が、ちらと彼の目に映った。
「いえ」と彼が言ったときには、もうその瞳に彼女の姿はなかった。彼の目には彼女のものらしい幾つか傷がついたママチャリと、髪を押さえる1人の女性の面影だけがあった。
トドのように横たわった1台を起こしあげると、もうそこに倒れた者はいなかった。彼はふっと短く鼻で息をし、地面に投げ捨てていたおみやげを素早く探し当てた。
「すみません。ありがとうございました」彼女は半ば彼の進行方向をふさぐように立ち、たなびく髪を右手で押さえ頭を下げた。“いえいえ、ぜんぜん”と微風ほどの音量で彼は告げ、そそくさとその場から去ろうとした。そのとき、彼女の横を通り過ぎようとしたその瞬間、彼の鼻に嗅いだことのある匂いが漂った。そして思い出したのは、あの夢だった。天使に包まれていた、あの。
空は冬らしく澄み渡っていた。そしてそれは、今夜も星が見えることを暗に伝えていた。
天使のはね(仮) 山田 @tyakjokejdmnkogkjjdhj
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