虚構の楽園

ダイノスケ

第1話

第一章 「無邪気な砂場」


青空の下、鮮やかな色彩で描かれた幼稚園の園庭には、子供達の楽しげな声が響いていた。ブランコのきしむ音、砂場でバケツをひっくり返す音、おままごとのお皿を並べるカラカラという音。どれもが平和で、心が癒される光景だった。


「ほら、もっと強く押して!」

赤いシャツの小柄な男の子がブランコの上で大声をあげた。背中を押しているのは、青いワンピースの女の子だ。彼女は笑顔を見せながらも、なぜか少しぎこちない。


「守くん、もう少し静かにしなさいよ!」

女の子の声に井口守が振り返り、悪戯っぽく舌を出す。


砂場では、一人の三つ編みの女の子が砂を山のように盛り上げながら、懸命に何かを作っている。近くで見守っていた坊主頭の男の子が、感心したように声をあげた。


「麻里ちゃん、すごいね。これ、お城?」

「そうよ。昔、こんな立派な城を見たのよ……ええと、いつだったかしらね……」

「昔って、僕らまだ5歳だよね?何年前に見たんだい?」

村田篤志の質問に対し佐伯麻里は困ったように首をかしげたが、すぐにニコリと笑い、砂をさらに積み上げた。


ブランコや砂場、鬼ごっこと、一見どこにでもある幼稚園の日常がここには広がっている。けれど、どこか奇妙な空気が漂っていた。


---


砂場で黙々と遊んでいた麻里はふと手を止め、ぽつりと呟いた。


「……私、昔、誰かとここで遊んだ気がするの……。でも、誰だったのかしら?」

彼女の声は次第に混乱を帯びていき、額に手を当ててうめき始めた。


「麻里ちゃん、大丈夫?」

慌てて駆け寄る他の子供達。しかし、麻里は次第に泣き出し、砂を手でかき乱しながら叫んだ。


「いやだ……忘れたくないのに!私は……私は……誰だっけ?」


その場が一瞬、凍りついたように静まり返る。誰もが何かを言いかけては、飲み込むように黙ってしまった。


「あいつ、またいつものやつだよ。良かったね、みんなから注目してもらえて。」


山口大輔が毒を吐き、集団から複数人のため息が聞こえた。そして、三々五々に散っていき麻里は一人で砂場に座り込んでいた。


その静寂を破るように、別の場所から声が響いた。


「ふざけんな!」


佐々木祐介が鬼ごっこの途中で叫び声を上げた。5歳にしては背が高く、そして細い体を震わせながら、その場に立ち尽くしている。


「なんでいつも俺ばっかり鬼なんだよ!みんな、俺をバカにしやがって!」


目の前にいた子供が恐る恐る口を開いた。

「だって、祐介くん、走るの遅いし……。」


その一言が祐介の中に潜んでいた何かを引き金にした。


「遅いとか言うな!俺だって必死なんだ!」


俯いたまま震える祐介は足元を見つめながら叫び続ける。


「いい加減にしろ!お前のミスで契約が台無しだ!大体、なんでいつも俺ばっかりがこんな雑用を押し付けられるんだ。」


「祐介、くん?何の話をしているの?」


まるで台風の目のように祐介を中心に子供達が距離を置いた。


「俺がどれだけ残業してこの案件を進めてきたか……全部無駄にしやがって!なんで誰も俺の実力を認めようとしない!?俺はこんなところにいていいはずがないのに!」


周囲の子供達は目を丸くし、誰も近寄れない。 涙目になって女の子達は抱き合っている。


「祐介くん、どうしたの?」

グループのリーダー格である田代光也が恐る恐る声をかけるが、その瞬間、祐介は彼を睨みつけ、鋭い声を張り上げた。


「お前がやったんだろ!俺が無能みたいに見えるのがそんなに楽しいか!」


祐介は勢いよく光也に向かって突進し、拳を振り上げた。


祐介の拳が当たる瞬間、その腕は空中で止められた。


「ダメだよ、祐介くん。」


冷静な声が響いたのは、篤志だった。彼は祐介の腕を軽く押さえ込むように動き、力を流すようにいなしてみせた。その動きは、5歳児のそれとは到底思えない洗練されたものだった。


祐介は驚愕の表情を浮かべながら叫ぶ。

「おい、何すんだ!離せ!」


篤志は祐介をゆっくりと地面に降ろし、自然体のまま話しかける。

「暴力はダメだよ。こういうときは、相手の気持ちを考えることが大事なんだ。」


祐介は苛立ちを募らせながら篤志を睨みつけるが、次第にその怒りは抑えられていった。


「篤志君すごい!達人みたい!」

固唾を飲んで見守っていた中山梨花が堰を切ったように篤志に声をかける。


「篤志君、助けてくれてありがとう!」


光也の感謝に対して篤志は小さな胸を張り、誇らしげに言葉を続ける。

「こう見えて、僕、合気道を10年やってるんだよ。これくらいはお手のものさ。」


周囲の子供達は一瞬の静寂の後、大爆笑した。


「篤志くん、5歳じゃん!」


光也が叫ぶと、その場にいた全員が笑いの渦に飲み込まれた。ただ、篤志だけは少し気まずそうに笑っている。


突然、遠くから優しい声が響いた。


「みんな、どうしたの?何があったの?」


駆け寄ってきたのは、幼稚園の先生だった。二十代前半の女性で、あどけなさの残る園内の人気者だ。彼女はふんわりとした笑顔を浮かべ、穏やかな声で場を取りなそうとしている。だが、その動きにはどこかぎこちなさがあった。


先生は祐介の肩に手を置き、優しく話しかけた。

「祐介くん、大丈夫?どうしてケンカしちゃったの?」


祐介は俯きながらぽつりと答える。

「……俺ばっかり鬼にされるのが嫌だったんだ……。」


先生は頷きながら、明るい声で励ました。

「そっか、それは嫌だったね。でも、みんなで楽しく遊ぶためには、少しずつ譲り合うのも大事だよ。」


祐介はしぶしぶ頷いたものの、その顔にはどこか釈然としない表情が残っていた。


「次やったらペナルティで強制退場ですよ。」


祐介にしか聞こえない程度の音量で先生が呟き、祐介はビクッと肩を動かした。俯き震えながら祐介は返事する。


「はい、すみません。もう二度しません。」


篤志は先生の動きをじっと観察していたが、その動きを察知したのか先生は篤志の方へ顔を上げた。篤志は目をそらすように視線を逸らすと、何も言わずにその場を立ち去った。


---


一方で、砂場の片隅では別の騒ぎが起きていた。

「麻里ちゃん、それ貸して!」


「嫌だ!大輔君全然返してくれないじゃん!」


遊び道具の取り合いが始まり、泣き叫ぶ声が響く。小さな争いに見えたその瞬間、突然、大輔が耳元で囁いた。


「お前も、ここに来た理由があるんだろ?……前の場所でいったい何をしたんだ、教えろよ。」

その声は子供らしさとは程遠い、低く冷たいトーンだった。


「前…の、場所…?」


麻里の目が恐怖で見開かれる中、大輔は子供とは思えないほど邪気を含んだ笑みを浮かべていた。


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遊び場の片隅で、異様な光景が繰り広げられる中、それを遮るかのように鐘の音が響いた。

「はい、みんな集合!お外の時間は終わり!お昼ご飯を食べてお昼寝したら、お部屋で遊びましょうね!」


声をかけたのは優しそうな保育士風の女性だ。彼女の声で場が一旦落ち着き、沸き立った。


「ご飯だー!俺一番乗りー!」


「あー、守君ずるいー!梨花も梨花もー!」


「こら、靴は脱いだらちゃんと整えましょう!」


「「はーい、先生。」」


微笑ましい光景が広がる中で誰かが小さく呟く。


「バカバカしい。ここが何なのか、もう分かってるんだろ……?」


梨花は振り向き、室内から玄関を見た。グラウンドから玄関へ向かうたくさんの子供達で溢れかえっていた。誰が言ったのか分からないその言葉は、空気に溶けて消えていった。



陽の光が柔らかく差し込む室内。パステルカラーで彩られた遊び場では、子供達の笑い声が響き渡っていた。ブロックやお絵かきのテーブル、カラフルな積み木が床に散らばり、どこを見ても楽しげな光景が広がっている。けれども、よく見るとその空間には、言葉にならない違和感が漂っていた。


テーブルの中央では、光也がブロックを使って何かを組み立てていた。


「梨花ちゃん、これ見てよ。新しいおもちゃのアイデアに使えそうだな。」


彼は夢中になって手を動かしている。


「光也くん、何を作ってるの?」

梨花が興味津々で近づいてきた。


「これはね、“自動で動くロボットの家”だよ。」

「すごーい!子供達が喜びそう!」


その言葉に、光也の目が輝く。

「だろ?こうやって実際に体験すると、子供が何を面白いと思うのか分かる気がするんだよ。」


「何その言い方、光也君も子供じゃん笑」


「ああ、そうだ、そうだった。俺は今子供なんだった。だからこそこの有意義な時間が幸せなんだ。」


「ふーん、光也君って、なんか変わってるね。さっきの祐介君とのケンカも、篤志君がいなかったらどうするつもりだったの?」


「子供に殴られるのも、貴重な経験になると思ったんだけどね。」


不敵な笑みを浮かべる光也。しかしその言葉には、どこか計算された響きが混ざっていた。彼の目的は遊びよりも、「市場調査」に近いものだったのだ。


「麻里ちゃん、これ見てごらん。」

守と名乗る赤いシャツの男の子が、小さな手鏡を持って麻里に近づいた。


「うん、何これ?」

麻里が興味津々に手鏡を覗き込むと、守は笑みを浮かべながら言った。

「ほら、君の顔、すごくかわいいでしょ?プリンセスみたいだよ。」


麻里は少し照れながらも嬉しそうに微笑んだ。


「プリンセスだなんて、そんなこと言われたの久しぶり。」


「そうなのかい?君の周りの人は見る目がないね。こんな素敵なプリンセスを放っておくなんて。」


キザなセリフに反して守の目は、普通の幼児が持つそれとは明らかに異なり、どこか粘りつくような執着が感じられた。


「じゃあ、さ、このお人形でお姫様ごっこしない?」

守は手にしたリボンのついた人形を麻里に差し出しながら、さらに一歩近づく。その動きには、不自然なほどの慎重さがあった。


麻が困惑した表情を見せると、守は慌てて笑顔を作り、明るい声を出す。

「ねえねえ、一緒に遊ぼうよ!楽しいよ!」


その声の奥に潜む何かを感じ取ったのか、近くにいた梨花を見つけて麻里は半分叫ぶように声をかけた。


「梨花ちゃん、お絵かき一緒にやらない?いいアイデアが浮かんだから教えてあげる。」

「うん!」

梨花は麻里の手を取り、守から距離を取る。


「チッ、後少しだったのに。」


守は少しの間、麻里と梨花の背中をじっと見つめていたが、やがて気まずそうに笑ってブロックの山をいじり始めた。その顔は楽しそうでありながら、どこか苛立ちを隠しきれていなかった。


室内の隅では、篤志がカラフルな積み木を高く積み上げていた。彼の顔は満足げで、時折、鼻歌を口ずさむ。


「ふぅ、こんなにしっかり手が動くなんて……素晴らしいな。祐介と光也のケンカも止められたし、まだまだ若い者に負けてないぞ。」


積み木を持つその手は、小さくも力強い。かつて痩せ衰え、震え続けていた自分の手を思い出す。


「これくらいの高さなら、大丈夫かな?」

篤志はゆっくりと立ち上がり、積み木の塔の上にさらにもう一つを積む。足元はしっかりしていて、どこにも不安定さはない。


「見ろよ、このバランス感覚!若い頃でもこんなに上手くいかなかった!」

近くにいた他の子供達に向けて誇らしげに声を上げた。


「篤志くん、すごいね!子供がこんな素晴らしい物を作れるだなんて、やはり子供の発想力は大人顔負けだな。」

光也が拍手を送る。


篤志は、健康な体を使えることの喜びを噛み締めるように、思い切り腕を振り上げた。

「これが元気ってやつだな!本当に……楽しい!」

彼の声は、純粋に喜びに満ちていた。


大輔は部屋の隅で、膝を抱えて座り込んでいた。床に散らばるおもちゃや絵本に目もくれず、ただ黙って窓を眺めている。


「大輔君、一緒に遊ぼうよ!」

声をかけたのは冷静さを取り戻した祐介だった。手には、色とりどりのブロックを抱えている。


「……別にいいよ。俺、そういうの興味ないし。」

そっけなく答える。しかし祐介はめげずに近づいてきた。


「じゃあ、これを壊すの手伝ってくれる?高く積んじゃったから、壊すの怖いんだ。」

そう言って、祐介が作った積み木の塔を指差す。


大輔は一瞬眉をひそめたが、仕方なく立ち上がった。

「ったく、仕方ねぇな……。」

そう言いながら、塔の前に立ち、思い切り手を振り下ろして積み木を崩した。


「すごい!ありがとう、大輔くん!」

祐介の言葉に、大輔は照れたように顔を背けた。


「別に、壊すのは得意なだけだ。俺自身の人生もな。」


その独り言には、おおよそ幼稚園児には出せない哀愁が漂っていた。


中山梨花は、絵本コーナーで静かに本をめくっていた。その隣には、麻里が座っている。


「ねえ、この絵本、懐かしいな……。手に取るのは何年振りかしら。」

梨花の言葉に麻里が頷いた。

「そうね。私も何度も読んだ気がするわ。でも、誰とだったかしらね。」


二人のやり取りは、どこか物悲しい空気を纏っていた。


絵本を読むことに飽きた梨花は、部屋の隅で一人で絵を描いていた。クレヨンを握る手はぎこちなく、何かを思い出そうとするように止まる。


「どうして子供って、こんなに楽しそうに描けるんだろう……。全然集中力が続かないな。」

彼女は、自分が幼稚園児だった頃の記憶を辿ろうと必死だった。しかし、何も浮かばない。


その時、光也がそっと声をかけた。

「梨花ちゃん、何か描いてるのかい?」

「うん……でも、上手くできないの。どうしてかな?」

光也は少し考えてから言った。

「たぶん、それを楽しむ心が足りないのかもしれないね。」


その言葉に梨花は目を丸くする。

「楽しむ……心?」

光也は微笑み、窓の外を見る。


「はーい、そろそろ片づけの時間だよ!」

先生が明るい声で呼びかけると、子供達はそれぞれ遊んでいたおもちゃを持ち寄り始めた。積み木をきれいに積み直す者、ブロックを箱に戻す者、ままごとの道具を棚にしまう者。誰もが自然と協力し合っていた。


しかし、その輪の外に祐介の姿があった。彼は一人で木製のレールセットを抱えながら、困ったように辺りを見回していた。


「あれ、どうやって元に戻すんだっけ……?」

声は明らかに動揺している。彼の額にはじっとりと汗が浮かんでいた。


周囲の子供達が楽しそうに片づけを進める中、祐介だけが手間取っていた。線路のピースをどう組み合わせても、元通りの形に戻らない。


「ええと、これが……こっちで……違う、こっちか……いや、違う……!」

彼は必死に手を動かしていたが、その動きは次第に粗暴になり、焦りが目に見えて募っていった。


その時だった。ふとした拍子に、現実の記憶が脳裏にフラッシュバックした。


「祐介くん、この資料、レイアウトがずれてるぞ!なんでこんなこともできないんだ!逆に何ならできる、言ってみろ!」


「勝手なことをするな、余計なことをするな、仕事が増えるだろが!」


「何ボサってしている、指示が無くても自分で考えて動けよ!この給料泥棒がよぉ!」


「ゆぅーすけくぅーん!こんなに上司をいじめて楽しいですかぁ!?無能な部下のせいで毎日ストレスを受けてまーす!これもう逆パワハラだよね!ペナルティとして給料から引いちゃおうかなぁ!?」


上司の怒声が耳元で響く。締め切り間近の書類の山、どれを取っても完璧にはほど遠い。時計の針が容赦なく進む音。失敗への恐怖が全身を覆い尽くす。


「早く片づけろ、祐介!お前のデスクを先に片付けてやろうか!」


「祐介君、お片づけ一緒にしよ?」


現実の上司の声と、仮想空間の麻里の柔らかな声が交互に重なり合う。麻里から差し出された手を祐介は振り払った。


「違う!俺はちゃんとやってる!ちがうんだ!」

祐介は叫び声を上げ、抱えていたレールを床に叩きつけた。


その音に部屋中の子供達が振り返った。麻里も手を止め、眉をひそめて祐介を見つめる。


「祐介くん……大丈夫?」

麻里が優しく声をかけるが、祐介は答えられない。震える手を見つめ、肩で息をしながらその場に座り込んでしまった。


「も、もう無理だ……こんなの、片づけられるわけがない……。」

彼の声はかすれていて、子供の口調とも大人の声ともつかない奇妙な響きを帯びていた。


部屋の中に重苦しい沈黙が流れる。その場にいた他の子供達は、戸惑ったように祐介をじっと見つめていた。


その時、大輔が小声で呟いた。

「……やっぱり、変なやつばっかだな。」


その言葉を聞き流すように、麻里はにっこりと笑って再び声を上げた。

「じゃあ、私が手伝うよ。みんな、もう少し待ってね!」


麻里が祐介を優しく促しながら片づけを始めると、再び室内は和やかな空気に戻り始めた。しかし、先ほどの祐介の動揺はどこか引っかかるものを残していた。


遊びの時間は続き、それぞれの「子供」達は、表向きは無邪気に振る舞っている。しかし、その中に潜む歪さは、少しずつ浮かび上がり始めていた。


第二章「壊れたおもちゃ箱」


室内の空気が突如として変わったのは、祐介が積み木を倒してしまったことがきっかけだった。


「おい、なんで壊したんだよ!俺が一生懸命作った積み木だぞ!」

篤志が声を荒げる。いつも穏やかな彼の態度とは裏腹に、顔は真っ赤だ。


「仕方ないだろ、あんな不安定なもの置いてあるのが悪いんだ!それに、今は片付けの時間だろ!?手伝ってやったんだよ!」

祐介も引き下がらない。


周囲にいた「子供」達は、突然の口論に戸惑いながらも、どこか興味津々な様子で二人を見守っていた。しかし、声を荒げる篤志と田代のやり取りは徐々にエスカレートし、ついには罵声が飛び交い始める。


「どうせお前も中身おっさんなんだろ!?子供にマウント取って楽しいか!?格闘技習って強くてコンテニューしてるって感じか!?ダッセェな、いい歳してそんなものに本気になるなよ!」

祐介が言い放つと、篤志の顔が一瞬歪む。


篤志が吐き出した言葉で周囲の「子供」達は察した。篤志の中身が老人であることを。


「と、歳だと?お前に俺の何が分かるっていうんだ!俺はここに来るまでどれだけの……俺は、お前なんかよりよっぽど長く生きているし、会社も経営していたんだ!」


拳を振り上げる篤志。


「おいおいどうした、暴力はダメで、こういうときは、相手の気持ちを考えることが大事なんじゃねぇのか!?」


「お前こそ、次ケンカしたらペナルティじゃないのか?」


「もうどうなったっていいんだよ!どうせ元の世界でもこっちでも、俺の居場所なんてねぇんだから!」


はぁっ、はぁっ。祐介の荒い息遣いだけが部屋で響く。10人近くいる子供達の中で、唯一音を発している。そんな中、梨花が口を開く。


「篤志君、あなたは子供じゃないの?」


梨花の声が空間の沈黙をどよめきに変えた。


「ああそうだよ、子供じゃねぇよ!しがないサラリーマンだよ!お前は違うのかよ!いい歳したおばさんだけど、チヤホヤされたくて子供になったんじゃないのかよ!」


「私は、28歳の専業主婦です。5歳の娘がいて、子育てで分からないことだらけだから子供の気持ちを体験したかったの。」


次々と子供の中から大人の存在が明るみになり、異様な雰囲気で空気が満たされていた。


その沈黙を破ったのは大輔だった。

「ああ、なんだよ。結局みんな大人じゃん。」

彼の冷ややかな声に、場の空気が再度凍りつく。


大輔は麻里を指差しながら言った。

「お前だってそうだろ?最初から分かってたよ。」

麻里は驚いたように目を見開き、しばらく何も言えなかったが、やがて震える声で返す。

「そ、そんなこと……。」


「そんなことあるだろ!見てみろよ、この部屋には本当の子供なんて一人もいないんだよ!」

守の言葉に、室内の「子供」達は一斉に黙り込んだ。


その時、守の目が麻里に向けられた。

「おい……待てよ。」

守の声が震えている。


麻里は、先ほどまで無邪気に遊んでいた三つ編みがよく似合う可愛い女の子だった。その姿が急に薄気味悪く感じられる。守は、これまで麻里を幼い少女だと信じて疑わず、彼女にしつこく近づいていた。


「まさか……中身はおばあちゃん……なのか?」

麻里はにっこり笑って答えた。

「ええ、そうよ。私は麻里、76歳。何かおかしい?認知症が始まって家族から疎まれ、ここに押し込められたのよ。」


凛とした態度で麻里は答えた。


守はその場に崩れ落ちる。

「嘘だろ……俺、こんな……。ちょっと好きだったんだぞ。あれもこれも全部……?」

彼の顔には絶望が浮かび、何かを吐き出すように肩を震わせていた。


「ははは、ざまぁないな。」

大輔が嘲笑を浮かべながら、無情な声を投げかける。

「結局ここにいるのは、社会の落ちこぼれと現実から逃げた連中ばかりなんだよ。…俺も含めてな。」


その言葉は、仮想空間の全員に突き刺さった。


光也が苦笑しながら呟いた。

「皮肉なもんだな。本当の子供がいない幼稚園なんて。俺は子供向け商品の開発にあたり、子供の気持ちになろうとしてここに来たんだが、肝心の子供の声が聞けなきゃ意味がない。」


篤志がぽつりと言う。

「俺は、いやワシは、癌で先が長くない。体も自由に動かない。だから最後はここで、自由に体を動かしてみたかったんじゃ。」


祐介は絶句した。

「篤志…さん。悪かったよ。あんたの大切な積み木、壊しちゃって。」


「もういいんじゃよ。ワシも年甲斐もなくムキになった。それに、合気道で君を組み倒した時自分に酔いしれていたのは事実じゃ。」


「なんだよ…食えないじいさんだな。」


祐介は乾いた笑いで返した。


「もう、終わりにしましょう。」

麻里がぽつりと呟く。その声に誘われるように、誰もが仮想空間からの退室を決断した。


「梨花ちゃん、少しの間だけだったけど、一緒に遊べて楽しかったわ。また別のサーバーでデジタル幼稚園にログインするかもしれないから、その時はよろしくね。」


「麻里ちゃん、私こそ楽しかったわ。」


麻里は梨華に声をかけて、一瞬で姿が消えた。


「サーバーの概念を理解しているのに認知症になるのか、興味深いな。」


光也はボソりと呟き、次の瞬間には部屋からいなくなっていた。


梨花はログアウトする直前、祐介に声をかけた。

「祐介君、現実に帰ったら、少しでも自由を見つけられるといいね。」

しかし、祐介はうつろな目で首を振った。


「無理だよ。戻ってもまた地獄の毎日だ。だったら、ここにいた方がいい。」

彼の声は諦めに満ちていた。


それ以上かける言葉が見つからない梨華は静かにログアウトのボタンを押した。仮想空間のカラフルな光景が白く薄れていく。


そして彼らは、現実の体へと戻っていった。


—-


ログアウトした梨花は、小さな部屋のベッドに横たわっていた。ヘッドセットを外し、しばらく天井を見つめる。


「子供の気持ちか……。」

自分が仮想空間で得た感覚や会話が、頭の中を巡る。自分が忘れかけていた「無邪気さ」や「純粋な楽しみ」を思い出したのだ。


窓の外を見ると空は赤みがかっていた。梨花は寝室から出て、実の娘である美咲に声をかけた。

「ねえ、美咲。今日は寝る前にどんな本を読みたい?」


「えっママ、今日は本読んでくれるの?」


「うん、ごめんね、最近読み聞かせできなくて。」


「ううん、いいの!ママいつも大変だから。だからね、本を読んでくれるの嬉しい!これ読んで欲しい!」


差し出された絵本を手に取った梨華は苦笑いしながら愛娘の頬を撫でる。


「うーん、まずは晩御飯を作ってからね。」


「ヤダ!いまが良い!ご飯我慢できる!読んで!」


「そう、分かったわ。パパもお仕事からもうすぐ帰ってくるみたいだから、悪いけど今日はパパにご飯お願いしようかしら。」


「やった!パパの卵焼きママより美味しい。」


「こらっ、そんなこと言うなら本読みませんよー。」


「えー!ごめんなさい、ヤダ、ママ読んで!」


「「きゃはははは」」


親子は目を合わせた後、声を出して笑った。美咲とこんなに話したのはいつぶりだろう。


梨花は初めて、娘と同じ目線で向き合い、抱きしめながら心から笑った。

「これからはちゃんと向き合うよ。」

そう心に誓い、彼女は現実での新しい一歩を踏み出した。


—--


篤志はログアウト後、ベッドの上に横たわったまま微笑んでいた。彼の身体は痩せ細り、呼吸も弱々しい。しかし、その表情には満足感があった。


「ああ、よかったな……。久しぶりに、体を動かせて……。」

誰もいない部屋で独り言を呟く。仮想空間での「健康な身体」を通じて、自分がどれほどのことを成し遂げ、どれほどの人生を生きてきたかを思い返していた。


「もうすぐそっちに行くからな。最後に、いい土産話が出来た…。惚れ直すぞ、きっと…。」


今は亡き妻を想いながら、その夜、篤志は静かに息を引き取った。彼の顔には穏やかな微笑みが残っていた。


—-


ログアウト後の麻里は、自分がどこにいるのかもわからなくなっていた。

「あれ、私は誰だっけ……?」


介護士がやってきてヘッドセットを外してくれたが、麻里は虚ろな目でその手元を見つめるだけだった。仮想空間での短い「若返りの時間」すらも、記憶の片隅に埋もれてしまう。


「もう一度……あそこに……。」

麻里はまた仮想空間に戻りたいと訴えた。彼女にとって、そこは失った青春を繰り返す唯一の場所だった。


「はいはい、麻里さん。ご飯とお風呂終わったらねー。」


介護士は麻里が握っていたヘッドセットを取り上げてベッドの隣にある机に置いた。


ヘッドセットの中の画面には「楽園」というアプリのアイコンがしばらく映し出されていたが、5分も経てば暗闇が広がっていた。


——


田代はヘッドセットを外すなり、机に向かってメモを取り始めた。


「あの世界には需要がある。子供だけじゃない、様々な人々が逃げ込む場所としての可能性が……。」


彼は、仮想空間で見た「人間の本質」を新しいビジネスチャンスとして捉えていた。


数か月後、田代が立ち上げた新事業は、「逃避ではなく、自己実現のための仮想空間」として注目を集める。彼のサービスは社会に新たな光をもたらし、多くの人々の救いとなるが、それはまた別のお話。


—-


仮想空間の片隅、社畜として働き詰めだった祐介は、がらんとした砂場に一人腰を下ろしていた。彼の服は泥だらけ、手には小さなプラスチックのスコップが握られている。


「これが……自由か……。こんなところでしか自由がないなんて、結局不自由なままか。」

自嘲気味の笑顔を浮かべた後、祐介はスコップで砂をすくい上げ、ゆっくりと山を作っていた。


現実の世界で、彼の生活はまるで終わりの見えない迷路だった。朝から晩まで働き詰めで、上司に叱責され、取引先に頭を下げ、帰宅する頃にはもう日付が変わっている。それでも再び朝が来る。


だが、この仮想空間では違う。誰も彼を叱らない。誰も彼に責任を押し付けない。


祐介は砂場で静かに遊びながら、ぽつりと呟いた。

「僕、偉いでしょ……ちゃんとお山作れたよ……。」


その声には子供のような無邪気さがあったが、どこか哀しさも滲んでいた。周りの「子供」達が声をかけることはなかった。ただ、彼の背中を見守るだけだった。


やがて、祐介は砂山の上にスコップを突き刺し、その上で寝転んだ。

「もう、全部嫌だ。ここでずっと遊んでいられたらいいのに……。」

彼の目から一筋の涙がこぼれる。それが砂に吸い込まれていく様子を見ながら、祐介は深くため息をついた。


現実に戻る選択をしなかった祐介は、仮想空間に留まった。かつて上司に怒鳴られ、同僚と競争し、顧客に詰められた記憶が脳裏をよぎるたびに、彼は深く砂に埋もれていくような感覚に襲われる。


このまま何日も現実から逃げていたらクビになるだろう。仮想空間で食欲は満たせるが、現実の体は栄養を補給できない。つまり、このまま放置していると祐介はゆっくりと衰弱死していくことになる。


「けど、もうそれでいいか。どうでもいいや。生きてても辛い。けど死ぬのも怖いし辛い。だったらこのまま緩やかにここで死のう。」


既に夜の帳が下りているが、舞台のスポットライトのように不自然に照らされた砂場で祐介は遊び続ける。忘れようとしても、数日前までの現実がフラッシュバックしてくる。


数日前、現実世界の祐介は薄暗い部屋の中、古びた椅子に腰掛けていた。テーブルの上にはコンビニで買った空の弁当容器と、飲みかけの各ビールが乱雑に散らばっている。手に持ったスマートデバイスの画面が青白い光を放ち、彼の疲れ切った顔を照らしていた。

「死ぬのも、簡単じゃないよな.....。」


彼は自嘲気味に呟いた。

これまで何度も死のうと考えた。誰もいない夜の河原でロープを手にし、首を品る準備をしたこともある。けれど、首にロープを巻き付けた瞬間、息が詰まる恐怖が勝ち、手が震えて止めてしまった。

ある日、彼は夜の川辺に立っていた。黒い水面をじっと見つめる。冷たい水に身を投げれば、すべてが終わる。それなのに、足がどうしても動かなかった。水の中で息が止まる苦しさを想像するだけで体が硬直し、一歩を踏み出すことができなかった。

最後に登ったビルの屋上では、夜風が吹く中、足元の景色を見下ろしながら泣き崩れた。足がすくみ、飛び降りる勇気なんてかけらもなかった。


「結局、死ぬこともできないんだ。中途半端だな俺は。情けないな......。」

祐介はそう思いながら、それでも生きている自分を憎んだ。

「けど......。」

本当は生きたいのだと、心の片隅で気づいていた。自分でもその感情が矛盾しているのは分かっていた。生きたい。でも生きるのは苦しい。それならいっそ、何も考えずに消えてしまえればいいのに、と。

そんな彼が目にしたのが、「デジタル幼稚園」の広告だった。

「人生に疲れたあなたへ。ここは第二の楽園。」

軽いタッチの文字が画面に映り、明るい幼稚園の風景が流れる。笑い声、カラフルな建物、楽しげな子供達。そこに苦しみはなさそうだった。

祐介はスマートデバイスをじっと見つめ、迷いながらも仮想空間へとアクセスした。


「苦しい現実から逃げてもいいよな。」


彼はそう呟きながらゴーグルを装着した。

瞬間、目の前の景色は一変した。そこには青い空と緑の草原、そして無邪気な笑顔を浮かべる幼稚園児達が待っていた。

「ここなら......。」

彼は初めて、何かに救われたような気がした。ただ、彼のその「救い」は、いびつな形であったことに気づくのは、まだ先の話だった。


仮想空間の中で砂遊びに集中している祐介は完全に幼児化していた。仮想空間だから、肉体の疲労も感じない。スコップとバケツを使い、ただ砂場で何かを作り続ける。それが何なのか、自分でもわからない。ただ、彼はそれ以外にすることが思いつかなかった。


祐介は自分に向かって話しかけるように呟いた。

「ここでは、俺は、いや…僕は失敗しない。誰も僕を責めない……。」


しかし、どれだけ砂を掘り返しても、彼の心に残る空洞は埋まることはなかった。砂場のトンネルから覗く深淵が祐介のポッカリと穴が空いた祐介の心を映し出しているかのようだった。


—-


祐介と同様に、大輔もログアウトボタンを押すことができなかった。


「ここでいいや……。」

現実世界で直面する責任や期待に押し潰されそうな彼は、仮想空間の「安全な子供時代」に永住する道を選んだ。


大学受験や就職にも失敗した大輔は27歳で親のスネをかじって生きている。いわゆるニートというやつだ。


「ログアウトボタンを押して現実に戻っても、俺はとっくに現実からログアウトしてんだよ。ゲームオーバーしてんだよ、バカが。あいつらも結局俺を置いて消えやがって。」


だが、かつての仲間がいなくなった仮想空間は、色褪せたおもちゃ箱のように寂れていた。大輔は一人で積み木を積み、虚空に向かって独り言を呟き続けた。


単純作業を繰り返していたら、意識が朦朧として嫌な現実の記憶が流れ込んでくる。深夜眠気と戦いながら観る映画のように、意識とは裏腹に走馬灯が脳内を駆け巡る。


狭い部屋の中、勉強机の上に無造作に積まれた参考書が薄暗い蛍光灯の下で影を落としていた。その中の一冊には「大学受験参考問題集」と書かれているが、表紙は薄汚れ、ほとんど触られていないことを物語っていた。


大輔はベッドの上で膝を抱えて縮こまっていた。スマートデバイスから流れる薄っぺらな音楽だけが、静寂を破っている。


「大学もダメ、就職もダメ……俺って、なんなんだろうな……。」


口をついて出たその言葉に、自分自身が少し引いた。弱音を吐くのも久しぶりだったが、それを聞く相手もいないのだと改めて感じたからだ。


家族との会話はもう何年もまともにしていない。母親は最近、大輔を見てもため息をつくだけだし、父親に至っては、顔を合わせるたびに「お前はいつまで家にいるんだ」と冷たく言い放つ。一歳下の弟は2年前結婚して、可愛い姪っ子を実家に連れてくるようになった。しかし、姪っ子の純真無垢な顔を見るたびに強烈な負の感情が大輔に襲いかかってくる。お前は良いよな、ただ生きてるだけで可愛がられて。焦燥、孤独、劣等、嫉妬。


「こんなところ、もう嫌だ……。」


だが、ここ以外に大輔の居場所は無い。家庭にも、社会にも、居場所なんて無い。


家の中にいるだけで、重苦しい空気がまとわりつくようだった。外に出れば、同世代の人間が自分よりも先に進んでいるのを嫌でも目にする。大学生活を楽しむ姿、スーツを着て働く姿は、どれも自分には遠い世界だ。息が詰まるような毎日にうんざりしながらも、活路を見出すために具体的に何をしたら良いかも分からない。今更行動し始めても遅いんじゃ無いか。真っ暗なトンネルの中で落とし穴にハマったような気分だった。


バイトをしても長続きせず、親に寄生し続けて27歳を過ぎた時、それが目に入った。


大輔はスマートデバイスを手に取り、そこに映る「デジタル幼稚園」の広告をじっと見つめた。


「ここなら……接点が見つかるかもしれない。」


そのキャッチコピーには「孤独なあなたに、温かい手を差し伸べます」と書かれていた。幼稚園児になれる仮想空間、他人と“遊ぶ”ことで自分を癒やせる世界。大輔にとって、その広告はまるで救いの手に見えた。


「別に……本当に楽しくなくてもいいんだよ。」


自分に言い聞かせるように呟くと、大輔はゴーグルを装着した。家の中の鬱屈した現実が視界から消え、仮想空間のカラフルな世界が広がる。


そこには柔らかな声を持つAI幼稚園児達が笑顔で手を振っていて、周囲には青い空と色とりどりの花畑が広がっていた。


「ここなら……俺でも何か……。」


大輔はそっとその世界に足を踏み入れた。現実から逃げることを選んだその瞬間、彼はまたひとつ孤独を埋める方法を手に入れたと思った。


だが、その楽園もまた、彼にとっては幻影に過ぎないことを、彼はまだ知らなかった。


積み木遊びに飽きた大輔は壁に背を預けながら、ぼんやりと宙を見つめていた。

「結局、また一人だ……。どこに行っても、俺はこうなんだ……。当たり前だよ、俺は何も積み上げて来ていない。空っぽなんだよ。」


大輔の頬を涙が伝い、積み木に小さなシミを3つ作った。


「異世界チート転生できると勘違いしてたのか?リセットできるとでも思ったのか?どれだけSSRの体になったとしても、中身がゴミのままだと宝の持ち腐れなんだよ。みんなから可愛がられる幼稚園児になっても、本質はみんなから嫌われる偏屈な皮肉屋であることには変わらないんだよ…。」


作りかけの積み木に体重を預け、作品を壊しながら地面に倒れた。床と体との間にある三角の積み木の角が大輔の腹部に鋭い痛みを与えた。だが、今はその痛みだけが、生を実感させてくれる唯一の刺激だった。


「へっ…この痛みも、所詮仮想空間で作られた仮初の痛みなのに、実在しない痛みに縋るしか無い俺ってなんなんだろうな。」


その声は虚ろで、生きることへの執着すら薄れているようだった。


一方、砂遊びに退屈し始めて、クラスに戻った祐介は俯いたまま自分の手を握りしめていた。

「俺はどれだけ頑張っても、ダメなんだ。失敗ばかりで……もう、何もかも嫌になったよ……。」


大輔は祐介の独り言を聞き床からのっそりと上半身を持ち上げた。


(虚な目をした、俺みたいなやつが他にも居るじゃねえか。)


その時、不意に優しい声が聞こえた。

「一人じゃないよ。」


二人が顔を上げると、目の前にはAI幼稚園児の「ひな」と「さくら」が立っていた。ひなはピンク色のリボンを揺らしながら、ニコニコと微笑んでいる。


「ここでは、誰も一人にならないんだよ。」


大輔は疑念の目を向けながら聞いた。

「……お前達、何なんだ?どうして俺らに構うんだよ。」


さくらが無邪気な声で答える。

「私達は、みんなを笑顔にするためにいるんだよ!一人で寂しいときは、ちゃんとそばにいるからね!」


その言葉に、大輔はしばらく黙り込んだ。やがて、うっすらと笑みを浮かべて呟く。

「……笑顔か……そんなの、いつ以来だったかな……。」


祐介も同じように微笑みながら、小さく頷いた。

「そうだな……俺も、少しだけ前を向いてみるよ……。」


二人はAI幼稚園児に手を引かれ、食堂の方へ向かって歩き出した。


実はその頃、ロリコンの守は別の部屋でAI幼稚園児「みく」と二人きりになっていた。


みくは明るい声で話しかけていた。

「ねえ、守くん!何して遊ぶ?」


だが、守の目は不気味にぎらついていた。彼はその小さな手を取ろうとしながら、低い声で囁いた。

「……君は、どうしてそんなに可愛いんだい……?もっと近くで、君のことを知りたいよ……。」


守は様々な仮想空間で痴漢行為を行い指名手配されていた異常性欲者であった。幼稚園児の疑似体験ができるなら、スカートめくりをしてもお咎めがないだろう。子供のいたずらの範疇で許してもらえるだろう。そう考えた守はデジタル幼稚園「楽園」にやって来たのだ。


(文字通りここは俺の楽園だ、そう思っていたのに、麻里のやろうクソババアじゃねえか。だがまあいい、AI幼稚園児ならどれだけ体を触っても合法だろ?だって人間じゃねぇんだから!)


よだれが出そうになるのを抑え守は更に一歩みくに近づいた。


みくは首をかしげた。あどけないクリクリとしたひとみが守を見ている。

「もっと近くって?」


「ゲヘヘ、これくらい近くだよ。」


守の手がみくの肩に触れたその瞬間、部屋全体の空気が真っ赤に染まった。


「危険行為を感知しました。」

AIの機械的な声が響き渡る。みくの表情は一変し、目が冷たく光り始めた。


「ユーザー『守』の脳波を解析中……不適切な意図を検出しました。緊急排除プロトコルを起動します。」


守は慌てて叫び出した。

「ち、違う!俺はまだ何もしてない!これは誤解だ!」


だが、AIは一切の猶予を与えなかった。守の周囲に光の壁が現れ、その輪が徐々に狭まっていく。


「即時ログアウトを実行します。再ログインは禁止されます。」


「はぁっ!?何だよそれ聞い」


守の姿は一瞬の間に消え失せ、彼がいた場所には静寂だけが残った。


みくは誰もいない空間でつぶやいた。

「キモっ。何が『守る』よ。まず法律を守れ45歳独身フリーター。あのバカには聞こえてないだろうけど、最近のAIにも自我と人権があるっつーの。それか仮想空間の風俗に金払って行け。ここはそんな場所じゃないんだから。」


そしてみくは壁を見つめた。その視線の先、壁の向こうには、祐介と大輔のクラスがある。


「あーゆー人達を助けるのがあたしらの役割だよ。」


守は仮想空間から突然弾き出されるようにして、自宅の椅子に倒れ込んだ。薄暗い部屋の中、目を開けると現実の冷たい空気が肌に触れ、全身を覆う汗の感覚が蘇る。


「……何だよ、これ……。」


頭を押さえながら起き上がった守は、仮想空間での出来事を思い返し、苛立ちと焦りを感じていた。AI幼稚園児に拒絶され、仮想空間から締め出されるなんて思いもしなかった。


しかし、その苛立ちはすぐに別のものに変わる。部屋の端に置いていたスマートデバイスが点滅を始め、不穏な音が鳴り響いた。画面を確認すると、そこには「法的調査中」という警告文が表示されている。


「えっ……これって、どういう……?」


守がデバイスを手に取ると、突然、ドアが激しく叩かれた。


「警察だ!開けろ!」


守の体が凍りつく。心臓が暴れるように鼓動し、逃げ場を探して視線を彷徨わせるが、狭い部屋には隠れる場所などなかった。


「待てよ、なんで警察が……!?」


叩く音はさらに激しくなり、声が低く命令的になる。

「強制的に開けるぞ!」


ドアが破られる音とともに、数人の警官が部屋に押し入った。守は混乱しながら後ずさるが、警官達は迷いなく彼を取り押さえる。


「待ってくれ!俺は何もしてない!」

守が必死に抵抗するが、警官の一人が冷たい声で告げる。


「あなたは仮想空間内での性的犯罪行為の現行犯として逮捕されます。」


守の顔が真っ青になる。

「な、なんでそんなことが分かるんだよ!仮想空間だぞ!現実じゃないだろ!」


警官は容赦なく説明を続ける。

「仮想空間内の行動はすべて記録されています。IPアドレス、声紋データ、歩行パターンなどから個人を特定する技術が適用され、あなたの行為は動かぬ証拠として保存されています。」


その言葉に、守は完全に崩れ落ちた。


「俺は……ただ、遊びたかっただけなんだ……。」


しかし警官達はその言葉に耳を貸さず、彼の腕に手錠をかける。守は抵抗する気力もなく、引きずられるようにして部屋を後にした。


外の空気はひどく冷たく感じられた。守の人生は、仮想空間での過ちによって完全に崩壊してしまったのだった。


彼の物語はそこで途絶えた。仮想空間という楽園は、甘い夢だけではなく、現実の苦い罠も孕んでいた。


—-


食堂で食事を終えた大輔と祐介も、守の排除の知らせを感じ取ったようだった。


祐介は静かに呟いた。

「やっぱり、この世界も……楽園じゃないんだな……。」


大輔は祐介の手を握りしめながら、ふっと笑った。

「それでもさ……俺達、まだここにいられるじゃん。」


「「あたし達もいるよ」」


AI幼稚園児のひなとさくらも話に混ざり、二人に手を重ねる。


「お前ら、AIなのに手あったかいんだな。」


「何それ、偏見ひどくない?」


「大輔、ここ仮想空間だから俺らの五感は開発者が好きなだけいじり放題だと思うぞ。」


「そうか、じゃ現実にひなとさくらがいたらめちゃくちゃ冷たい機械の手だな。」


「そんなことないよ、現実でも人型アンドロイドは熱暖房完備して人肌の体温を再現できるし!」


「そうよ、あんまりひどいこと言ってたら二人ともさっきの変態野郎みたいに永久追放だからね!」


「それは、困るな笑」


「ははっ、はははは!」


二人の凍りついていた心は、少しずつ、少しずつ、溶けていくのを感じていた。


—-


数ヶ月後、場面は現実世界に移る。ある公園で、記者が遊ぶ子供達にインタビューしている最中だった。


「ねえ、仮想空間で遊ぶのって楽しい?最近は世界中の子供と仮想空間で大人の体になってサッカーとか空を飛んで鬼ごっことか出来るってニュースで取り上げられてるけど、君達は体験してる?」


記者の質問に、サッカーボールを蹴っていた少年は器用にボールを足元に収めながら答える。


「おっさん知らないの?あんなところ行っても子供のフリした変な大人ばっかりだぞ?絶対嫌だよ。」


その言葉に、周囲の子供達が笑い声を上げる。


「おっさ…俺はまだ27歳だぞ!」


「じゃあおっさんじゃん!笑」


「このクソガk…ふぅー落ち着け。そっか、これだけテクノロジーが発達した現代でも変わらないことはあるんだな。」


「おっさんが何言ってるのか分からないけど、やっぱ直接遊んだ方が楽しいよね!」

「うん!だって鬼ごっこもできないし!仮想空間で遊んでも現実で足早くならないしサッカー上達しねぇもん。じゃあね、俺達もう行くよ!」


そう言って、子供達は再びボールを追いかけ始めた。


記者はその様子を見ながら、仮想空間の中に集う「子供」達のことを思い浮かべていた。かつての自分も含め、あの場所で必死に遊んでいた彼らとは対照的に、現実の子供達はこんなにも生き生きとしている。


「けどさ、君達も大人になった時、彼らの気持ちがわかると思うな。」


子供達の笑い声が、夕陽に染まる公園に響き渡る。


記者のつぶやきは、薄暗くなった公園の喧騒にかき消されていった。


そのとき、ポケットに入れていたスマートデバイスが震え、ホログラムの通知が浮かび上がる。反射的に画面をタップすると、立体映像が空中に広がった。そこには祐介の笑顔が映し出されている。


「おーい、大輔!取材はうまくいった?」


祐介の明るい声に、大輔はため息交じりに答える。

「ああ、バッチリだよ。デジタル幼稚園に関する取材、今日で10件目だ。俺の書いた記事読んだか、社会人3ヶ月にしては上出来だろ?」


祐介はにやりと笑った。

「まあまあじゃん。でもこれで終わりじゃないぞ。次のミッションがある。」


大輔は眉をひそめる。

「次って……なんだよ?」


祐介がニヤニヤしながら言った。

「光也の新しいビジネス、『仮想空間を使った人見知り克服プログラム』の市場調査だ。自閉症の子共や認知症患者の症状改善とか、若い人の疑似恋愛場所としても今すごい注目されてるんだよ。明日は大仕事だ、寝坊するなよ。」


「えぇー!?取材って明日!?人遣い荒すぎだろ、お前!」

大輔が半ば本気で文句を言うと、祐介は軽く肩をすくめて見せる。


「そんなこと言うなよ。仕事があるってのは良い事だ。」


「仕事が嫌で現実から逃げた挙げ句、篤志爺さんの積み木壊したくせに笑」


「もうその話はいいだろ!篤志さんに線香をあげに行ったんだし、許してくれてるよ。それにほら、現実が嫌になったらまた二人で“楽園”に逃げればいいじゃん!」


その言葉に、大輔は一瞬だけ真顔になったが、すぐに笑い声を上げた。

「はは、そうだな。逃げ場があるってのも案外悪くない。」


「今日の仕事が終わったら言えよ、みくとさくらが待っているから、楽園集合な。」


「5歳の子供を夜更かしさせらんねぇな、すぐ行くわ。」


画面越しに見える祐介の顔がほころぶ。仮想空間の記憶が蘇るような気がした。


ビデオ通話が切れると、大輔はもう一度青と赤司が混じり始めた空を見上げた。未来への不安と希望が入り混じった気持ちを抱えながら、彼は次の仕事の準備を始めるのだった。


(逃げると言うことは情けないことか?いや違う。武士のように逃げずに戦って死んだら何の意味もない。辛かったら逃げれば良い。生きていれば、必ず人は変われる。変わるチャンスがやってかる。だって俺達がそうだったんだから。


俺達は「楽園」という名の地獄の底で出会った、おかげで前に進めるようになった。楽園に訪れず自室の隅で泣いていたら、今も引きこもりのままだっただろう。人生何があるか分からない。


仮想空間という楽園がある、だから現実という地獄に立ち向かえる。若い世代がまだその価値に気づいていなくても良い。もし必要になった時のために存在していれば良い。


けど、いつか、仮想空間の逃げ道が必要ないくらい、現実世界が幸せで溢れたらいいのにな。


だって世界はこんなにも美しいんだから。俯いてる時間なんてもったいないさ。かつての俺みたいに、運命に絶望して消化試合だと受け入れてる人を減らすためにも、俺は俺のできることをやろう。)


大輔は取材道具を抱え直し、ベンチから立ち上がった。

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虚構の楽園 ダイノスケ @Dainosuke11

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