【2】美貌の鬼は幸運の子
〈悪死鬼〉。いつからか東都に現れるようになった、化け物だ。
それは人の身を装いながら、決して、人ではない。
額から伸びるのは、黒くそそり立つ禍々しい二本の角。
目は不自然に赤く染まり、歯は獣のように鋭く尖る。
そして――彼奴らは人間を、喰う。
ヒバナの前にいる〈悪死鬼〉は、男を喰っていた。
男は事切れているのか。プラリ、と手足を力なく落とす。右腕は既に欠けていた。
「〈悪死鬼〉め」
ヒバナの低い、ドスの聞いた声に、〈悪死鬼〉はギョロリ、と視線を向けた。
男の死体を容易く放り投げ、口からダラダラと涎を流した〈悪死鬼〉はヒバナに襲いかかろうとする。若い女の肉体は、柔らかくて美味いと考えたのだろうか。
氷柱のように鋭利な爪が、ヒバナを切り裂こうと眼前に迫る。
ヒバナはそれをさらりと躱し〈悪死鬼〉の背後に回ると、抜いた脇差で勢いをつけて切りつけた。
(やはり、硬い)
〈悪死鬼〉は化け物だ。肌は人のそれよりも強靭である。
今も、思いっきり切りつけたつもりでも、表皮を切り裂いた程度の攻撃しか与えられていない。
(だったら、こうだな)
乾いたくちびるを舐め、ヒバナは歌うように囁いた。
「剱に、力を。迸れ、邪を滅する光よ」
脇差が淡く光るのを確認して、〈悪死鬼〉が振り返るよりも先に、ヒバナは頸に向けて素早く一閃を放った。
切り離された首が落ちる。それとともに、〈悪死鬼〉の姿はサラサラと、砂のように消えていく。
〈悪死鬼〉が完全に消失するのを見届けて、ヒバナはようやく、緊張を解いた。
「やはり、魔術を使わねば、〈悪死鬼〉は倒せぬか」
躰がわずかな疲労感を覚えているのは、愛刀に魔術による強化を施したせいだ。
魔術。特殊な祝詞を用いて、火を起こしたり、風を作り出したり、自然現象を操る技法を指す。
ヒバナはどうやら魔術の素養があるらしく、師から剣術とともに、武器に強化を付与する術を学んでいた。
素養があっても、ヒバナができるのは武器を強くすることと、ちょっと身体能力を高めることと、そして……つまらない、まじないのようなもの。それ以外の魔術の心得はない。
指先に灯る火球を作るのにも大変な勉強が必要となるのだ。ヒバナは小難しい学問の類は苦手としていた。
「生き残りは、……いないか」
血の海となった路地裏には、食い散らかされた人間の死体がいくつかある。
生きている浮浪者たちは我先にと逃げ出した後なのだろう。あの、ねめつけるような視線は感じられない。
探るヒバナの視点が、一点で止まる。
(ん? あの布袋、妙だな……)
人がちょうどすっぽりと納まるような、大きな麻袋。
中に何かが入っている。違和感しかない。
まさか、まさかな、と思いながら、ヒバナは慎重に麻袋へと近づいた。
ざらついた麻の感触。その下に柔らかで温かい存在を感じる。
(人間が入っているのか?)
生きているかもしれない。わずかな期待とともに、ヒバナは麻袋の口を開ける。
そして、麻袋を顔の下まで引き下げ――唖然とした。
(こいつは、人間か……?)
麻袋の中身は人間だった。
人間のはずだ。だが、同じ人間とは思えない。
だって、あまりにも美しすぎるのである。
ヒバナは麻袋を刀で裂いて、中身を慎重に検分する。
若い男だった。ヒバナよりも、ふたつみっつほど、年上か。
恐ろしいほどに整った美貌の持ち主である。
日頃から手入れがされているのだろう。艶やかな黒い髪は襟足まで伸ばされていた。肌は白く透き通っている。爪は桜色で、かたちよく整えられていた。
背は高いが、体つきは華奢な方だ。身に纏うのは、黒い着物。ヒバナは多少目が肥えているので、それが高級な仕立てであるとすぐに見抜いた。
幸いなことに、目立った怪我はない。少々、衣類が乱れている程度だ。
どこかの貴族の子息だろうか、とヒバナはあたりをつける。
おおかた、人売りに攫われたのだろう。そして人目を避けた人売りは、路地裏を選んで通った結果、不幸にも〈悪死鬼〉に喰らわれたか。
可哀想に。ヒバナは男に同情が湧くが、しかし残念なことに、ここ東都ではありがちな話なのである。
男の意識はない。脈はあるので生きているようではあるが。深い眠りについているのか、頬をペチペチと軽く叩くも、まったく反応がない。
(この男、どうしようか……)
このまま捨て置けば、彼は浮浪者たちの餌食になるだろう。
着物だけでなく、髪の毛や臓物に至るまで、彼奴らは骨までしゃぶりつくす。まるで、〈悪死鬼〉のように。
だからといって、ヒバナの勤め先に持ち帰れば、それはそれで面倒なことになりそうだ。
ヒバナは頭を抱え、しばし考えた。
しかし困ったことに、ヒバナはあまり賢くない。
考えるよりも、躰を動かす方が好きだ。なぜなら、武力はあらかたのことを解決するし。
考えて、頭が悪いなりに、閃いた。
(人売りは死んだ。つまり、『商品』は拾った者の所有物にならないか?)
ヒバナが彼を買ったということにして、とりあえず連れ帰ろう。だったら誰も、文句は言えまい。
意識を取り戻した彼は、家族の元に帰りたいと言うだろう。
ヒバナは奴隷を従える趣味はないので、彼の頼みを喜んで聞く。そうしたら、多額の謝礼金が手に入るかもしれない。それならきっと、雇い主も文句は言うまい。
これは妙案だと、ヒバナはうんしょと男を担いで、機嫌よく遊郭へと戻ったのだった。
***
「なあなあ、ヒバナちゃんよぉ。俺さぁ、アンタには酒買ってこいって頼んだよな? 男を買えとは、言わなかったよな?」
ヒバナの雇い主、遊郭〈夜鷹〉の主である男サクヤは、呆れ顔でヒバナにぼやく。
その言葉に、ヒバナはハッとした。
「すまない。確かに酒は買ったのだが、道端に置いてきてしまった」
すぐに戻ると身を翻すヒバナの首根を、サクヤはヒョイ、と猫のように掴み上げる。
「馬鹿たれ。戻ったところでとっくに盗られているだろうよ。テメーの小遣いで買い直せ。だが、それは事情を説明し終えた後にしな」
サクヤはベッドに眠る男を一瞥し、ヒバナを乱暴に椅子に放り投げた。
あれから遊郭〈夜鷹〉に帰ったヒバナは、裏口からコッソリと泥棒のように入って、男を自室のベッドに寝かせた。
おおっぴらに帰るのはマズイ、特に兄にバレるのは良くない…‥と思っての行動である。
(この男なかなか目覚めないが……どこか目に見えないところに、怪我をしているのか?)
不安を覚えたヒバナが男の着物を寛がせたその時、サクヤが部屋に押し入ったのだ。使いにやったのに、なかなか顔を見せないので心配に思ったのだろう。
部屋に入った彼が目にしたのは、ベッドに寝かせられた美貌の青年と、彼に跨って衣服をひん剥くヒバナの姿。
青筋を立てて、顔を引き攣らせた雇い主は、「このクソガキが一丁前に色気づきやがってよぉ!」と怒鳴り、ヒバナの頭にガツン、と拳骨を落としたのだった。
そして、今に至る。
ヒリヒリと痛む頭を撫でながら、ヒバナはサクヤへと視線を向けた。
遊郭〈夜鷹〉の主、サクヤ。三十を少し過ぎた、中年男性である。
聞けば、どこぞの貴族の三男坊なのだとか。
ただし、見た目はお上品なお貴族様とは程遠い。胸元まで伸ばされた癖の強い灰褐色の髪は、首の後ろで雑に結われている。
顔にはうっすらと髭が生えていて、眼光は鋭い。笑顔を作ったとて、顔の怖さが台無しにしてしまうのだ。
長身で瘦せ型なのは、食が細いためか。毎日酒ばかり呑み暮れているので、もしかしたら腹に余分な肉がついているかもしれない。
そして彼の身なりは特徴的だ。
東都では前合わせの長着が好まれる。現にヒバナもそうだ。
だが、サクヤは大陸でよく着られるシャツやズボン、ブーツを履いている。いずれも経営者らしい質の良いものだが、彼は胸元を大きく広げ、だらしなく着こなしていた。
なまじ顔のつくりは悪くないため、「遊郭〈夜鷹〉のご主人様は、退廃的な雰囲気が素敵だわ」とマダムから好評をいただくこともあるようだが、ヒバナからすれば日頃の言動も相まって「だらしのないオッサン」という印象がどうにも拭えない。
机に身を預けて立ち、癖の強い髪を掻きむしった彼は、苛立ちを紛らわせるためか、胸元から取り出した煙草をプカプカとふかし始める。
それを横目で見つつ、ヒバナは簡潔に説明した。
「人売りに攫われた男を拾った。人売りは死んでいたから、奴隷は拾ったわたしのものだ。だから、持って帰った」
「おいヒバナ。テメーは言葉が少なすぎる。なんで人売りは死んでいたんだ?」
察しがいいサクヤは、訊ねながらも気がついているらしい。戦った痕跡は残していないはずなのだが。
だから、ヒバナは素直に答えた。
「〈悪死鬼〉に襲われたようだ。到着が遅れて、人売りは助からなかったのだが……。ふん、悪党に相応しい末路ではあるな!」
「……俺昔っからさぁ、厄介ごとには首突っ込むなよって、テメーのちいせぇ耳たぶ引っ張ってしこたま言い聞かせたよな? また反省するまでケツ叩かれたいのか?」
懐かしい想い出を持ち出すサクヤに、ヒバナは尻に手を当てて反論する。
「〈悪死鬼〉は倒したし、わたしもこうして無傷だ。何も問題あるまい?」
「問題おおありだよ。こいつはどーすんだよ。まさか、死んでないよな?」
「おそらく、生きていると思うが……」
ヒバナが口籠ると、ベッドに近寄ったサクヤが、男の顔を覗き込む。
「おい、奴隷くん。生きてるかー?」
「馬鹿サクヤ、乱暴はよせっ」
サクヤが頬を叩くと、男の黒く長い睫毛が震えた。
意識を取り戻したのだろうか。ヒバナはほっと胸を撫で下ろす。
しかし。
「……おいおいおいおい、マジかよ、マジかよ……」
ふらりとした足取りでベッドから離れたサクヤは、信じられないものを見るように、目を見開いている。
いったいどうしたというのだろう。
どこか不穏なサクヤの様子が気になりつつも、ヒバナは男へと視線を向ける。
そして、硬直した。
目覚めて、まだ夢心地だろう。
宙を見つめる彼の瞳の色は、血のように濡れた濃い赤。
黒い髪に、赤い瞳。
それは奇しくも〈悪死鬼〉を思わせる、不吉な色合わせだった。
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