第5話 狼と馬

 おそらく翌日、太陽は天頂を過ぎ、おそらく昼過ぎの時間帯だ。

 シュナは自由になった足で外に出て、ぐるりと辺りを見渡した。森や山がすぐ近くにあるだけで、馬房の一つもない。


「……馬が、呼べば来る?」


 昨日は特に何の疑問も抱かなかったが、今になってツァルの文化が不思議に感じられた。

 カレンシャでは、馬を所有する人間はきっちり馬房で管理した。一方ツァルでは、馬を放し飼いにするのが習慣なのかもしれない。


 シュナは細く高い指笛を吹いた。音程を変えて数度、虚空に向かって音を放つ。

 特に何が起こるでもなく、シュナは小さく舌打ちをした。


「そもそも何と呼べば良いんだ。馬鹿かあいつは」


 徒労に苛つきながら振り返ると、足元に白い塊があった。


「うわっ……」


 その塊によろけそうになり、情けない声をあげる。目の端に映る動物を間近に認めて、シュナは瞬間息を呑んだ。


 白い狼がそこにいた。

 背景に混じることなく、凛と佇んでいる。目を見張る美しさだ。


「……なんだお前。どっから来た」


 獣が答えるはずもなく、狼はじっとシュナを見上げている。

 白い狼のように見えたが、よく見れば背面の毛は灰色だ。胸元から腹にかけて真っ白な毛が広がり、頭と背と尾が黒い。


 狼のもつ暗い金の瞳に、シュナはあの夜の男の瞳を思い出した。


「お前……アルヴィスか?」


 ぴくり、と狼の耳が動く。

 シュナは自分の発言にはっと我に返ると、ブンブンと頭を振って否定した。


(何を言っているんだ私は。人が獣になどなるものか。……人を喰う獣とは、こいつのことではないだろうな)


 昨晩の男の忠告を思い出し、数歩後退するシュナ。

 十分な距離を保ちつつ家に入ろうとしたのだが、シュナがじりじりと後ろに下がれば、狼もじりじりと前進する。


「お……おい待て待て。お前は動くな。私が良しと言うまで動くなよ」


 弱々しいその命令に、狼は動きを止めた。背を伸ばして座っており、獣とは思えない清廉さが漂っている。


(……こいつ、人の言葉が分かるのか?)


 シュナの顔を見上げて座る狼に、恐る恐る手を伸ばす。

 しかし、伸ばした自分の手の白さに、シュナはビクリと動きを止めた。カレンシャの友に、色が移るから触るなと言われた過去が脳裏をよぎったのだ。


 シュナは手を引くとしゃがんで狼と目線を合わせ、そうして一言、

 

「私を、食べてくれないか」


 狼は腰を上げると、尾を下ろしてシュナに近寄った。

 その迫る金の瞳にシュナは尻もちをついてしまったのだが、狼は噛み付いてくるでもなく、シュナの隣でまたちょこんと座る。


 野生とは思えないその動きに、シュナの口元が思わず綻んだ。


「……ふ。まあお前は美しいからなあ、人など食べないか」


 そう呟き、狼の頰に柔く触れた。

 嫌悪されることもなく、シュナの手が狼の整った毛に沈む。


「あの男の飼い犬か? 妙に人馴れしている」


 狼の頭を撫でながら、思いつくままに話しかける。


「それとも群れからはぐれたのか? お前も色が白いからなあ、可哀想に。嫌われ者同士、こんな山奥で暮らしているのか。とんだお笑い草だな」


 そう言ってはははと明るく嘲笑すると、狼が急に張りのある声で吠えた。

 犬の遠吠えとは比べ物にならない低い鳴き声に、シュナはビクリと体を揺らす。


「き……急に吠えるな。冗談だよ、お前とお前の主を嗤ったわけではないさ」


 そう言って何かを誤魔化すようにまた乾いた笑い声をあげるが、見つめてくる冷たい金の瞳に、シュナはかっと顔を赤くした。


「獣に向かって何を一人で話しているんだ。阿呆か己は……」


 恥ずかしさを紛らわすようにブツブツと呟きながら立ち上がる。土を払いながらしっしっと狼に手を振って、


「ほらお前も、あの男に見つかる前にどこかへ行った方が良い。見つかれば最後、きっと今晩の鍋にでもされるぞ。お前の肉の隣には、私の頭も浮いているかもな」


 そう言って家へ戻ろうとしたシュナの服の裾が、柔らかい力で引っ張られた。


「うん? 何だ」


 振り返った瞬間、先程とは比にならない大きさの遠吠えが山に響いた。その声量にシュナは耳を塞ぐ。


「何……」


 遠吠えに呼ばれたのか、それとも餌の時間だったのか。立派な鬣の茶色い馬が何処からか現れた。


 シュナの頭よりも遥か上に馬の頭がある。胸と脚には形の良い筋肉が浮かび、黒く濡れた瞳がシュナを見下ろす。鼻を鳴らし、シュナのにおいを嗅いでいる。


 シュナは数刻絶句すると後退り、


「……ありがとう。まだ大丈夫だ、問題ない。いつか餌をやるから、持ち場に戻り給え……」

 

 および腰でそう囁くと、馬の顔が目の前に映った。


「い……いや、呼んでおいてすまないのだが、本当に問題ない。ありがとう来てくれて。森へお戻り……」


 狼ほど利発ではなさそうな馬だったが、太い首を振って蹄を鳴らすと、颯爽と森の中へ消えていった。


 去っていく馬の背から狼へ視線を移すと、金の瞳と目があった。不思議そうに揺れるその瞳に、シュナは相好を崩すと地面に座る。

 狼を手で招き、骨ばった肩に手を回した。


「少しの間愚痴を聞いてくれないか」


 言いつつ小枝を手に取り、地面に線を引いていく。


「カレンシャにも馬がいるんだ。栄養のない餌しか与えられないから、先程の馬に比べると貧相な体格をしている。多分足も遅いし頭も悪い。でも愛嬌はある」


 土に描いた馬の絵に、思いつく限りの馬具を付け足していく。


「ツァルの軍人は馬に跨り手綱を引くだけだが、カレンシャではいくつか馬具を付けるんだ。あぶみに足を乗せ、くらに腰を下ろす。そうすることで……まあ多少速度は落ちるが、安定して乗ることができる。初学者でも乗りやすい」


 馬具をつけた貧相な馬の隣に、先ほど見た立派な鬣の馬を描く。その足元には、小さなシュナと更に小さな狼がいる。


「そして自慢ではないが、私はそこまでして尚馬に乗れない。理由は明快、生まれてからずっと蔵に籠もり、本を読みふけっていたからだ。あはは、私が白いのは日に当たらなかったせいかもな!」


 シュナは一人の少女を背に乗せた馬の絵を大きく描き、胡乱な瞳をした狼に語りかけた。


「あの男は、何のつもりで私をここへ連れてきたんだろうな。逃げろと言うが、逃げて何処へ行けと言うのやら。……あの男を殺せば、胸を張ってカレンシャに戻れるかもしれない」


 そう独り言ち、困ったように微笑む。


「取り敢えず名を聞いてみるよ」


 狼はふいと顔を逸らすとシュナの腕からするりと抜け、山の方へ駆け出した。

 その背に向かって、


「人は喰うなよ! お前が穢れるだけだ」


と叫んだ。

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