第4話 「下手くそ」

「シュナは女の子だから、剣は必要ないんだよ」


 もうずっと昔、いつかの晴れた日の朝。

 お転婆なシュナに向かって、兄ヤナマは困ったようにそう言った。


「なぜです? わたしも兄さまのように、カレンシャの盾としてこの身を尽くしたいです。この気持ちに、性別が関係あるのでしょうか」


 小首を傾げてそう問いかけると、握った両の拳を前方に突き出し、剣を振るうように大きく上下にブンブンと振る。

 妹の無邪気な問いかけに、ヤナマは逡巡すると呟いた。


「……まあ、僕には関係あるのかもしれないね。剣は、そのように憧れるものでもないさ」

「そうですか? 兄さまは、強くてかっこいいです。わたしの憧れです」


 曇りのない笑みを向けられ、ヤナマの表情に陰が差す。


「……どうしてそれほど、強さに焦がれるんだい?」


 いつも温和な兄から向けられた、猜疑と羨望の眼差し。濁りのない強張った声色が、正解を出さなければ失望されてしまうかも、という緊張を誘う。


 その陰気な緊張を断ち切るべく、ヤーッと叫んで剣を振る動きを真似るシュナ。

 そうして一言、


「カレンシャのために尽力すれば、カレンシャの人たちに愛されると思うのです」


 その時兄がどんな顔をしていたのか、もはや微塵も思い出せない。

 



 ビクリと体を揺らし、生温い夢から目を醒ます。何を見たのかもう思い出せないが、頭は異様に疲れている。

 眼前の光景は眠る前と何ら変わり映えせず、埃っぽい闇の中に家具の境が浮かんでいる。


「……ちっ。出ていくなら拘束を解いてからにしろ。あの化け物、いつか殺してやる……」

「あんた結構寝言が煩いな」

「!」


 目の前からあの男の声が飛んできた。

 全く気が付かなかったため、シュナは必要以上に大きな声で威嚇した。


「離れろ!」


と叫んではみるものの、男がそれを聞き入れる道理もないことは、シュナにも十分承知されたものだった。


 シュナの破れた服の隙間、脇腹に、ひやりと何か冷たい液体が触れた。


「ひっ」


 粘り気を持ったゲル状の何かが、男の体温で生温くなって皮膚に触れた。

 痛みのなかった脇腹の傷口が、冷たい手で押される毎に熱を持っていく。

 

「私に触れるな!」


 拘束されたまま振り下ろした拳は掴まれ、そのまま頭上に固定された。両手を動かしてもびくともしない。

 壁の粗い木が、手の甲に甘く刺さっている。


「おい……なんとか言え! 触るな!」

「ただの軟膏だ。傷口は焼いたが炎症がひどい」

「お前の治療など要らぬわ! お前ら帝国人のせいで怪我をしていると言うのに、偽善ぶりやがって。懺悔のつもりか? その軟膏だって、毒とも知れない!」


 バタバタと身をよじらせても、男に強い力で押さえつけられる。

 そうして無言で、冷たく粘り気のある何かが、特に痛みのある部分に乱暴に押し込まれる。


「……何を考えている。本当に治療しているのか?」


 しかし男は何も答えずに立ち上がり、家の奥へと消えていった。迷いなく動くその足取りからは、闇夜でも目が利くのだろうと感じさせる。


 男はすぐに戻ってくるとシュナの隣に腰を下ろし、二人の間に何かを置いた。何やら腹の空くような、芳しい香りを放っている。

 その香りから、おそらく麦のパンであることが分かった。


「……は? どういうつもりだ」

「この状況で寝るくらいには神経が図太いようだが、飯は食えないか」

「違う! 私を生かしてどうするつもりなのかを聞いている。誰がお前の出す飯などに口をつけるか!」


 その質問にも罵倒にもやはり反応はなく、男はただ黙って隣に座っているだけだった。


 長い沈黙が、シュナの沸き起こる怒りを強引に抑えつける。


 シュナはパンに伸ばした手をピタリと止め、その手を床に置いた。どこを見ているのかさえ分からない男の方を見上げ、静かに尋ねる。


「──なあ。逃げないから、拘束を解いてくれないか」


 男はちらり視線を横に向け、


「逃げられたら困る」

「逃げないと言っているだろう! 私は嘘はつかない」


 はあ、と短いため息が聞こえた。男は近くにあったナイフを手に取り、シュナの腕を握る。

 一定の距離を保っていた男がシュナの方に身を傾け、両手を拘束していた縄を切った。


 手が自由になった瞬間シュナは男の襟首を掴み、手の中に隠していたガラスの破片を男の首にめがけて振り下ろした。

 しかしその勇気も甲斐なく、破片を握る手は男に掴まれ背中へ回される。


「下手くそ」


 耳元で囁かれるその声に、シュナは怒りで身を震わせた。


「殺してやる」


 睨みつけてそう言ったのに、何故か男は微かに笑ったようであった。


「……調子に……ムグッ」


 開いた口に乱暴にパンが突っ込まれ、そのまま口を覆われる。

 味のしないパサパサした塊を咀嚼して飲み込むと、男は手を離して立ち上がった。そうしてシュナに向かって、


「ここより北は人を喰う獣が出る。無駄に勇敢なようだが、襲われればあんたでも骨すら残らない」


 その忠告に、シュナは首を傾げた。


「……あ? お前の話をしているのか」

「想像を絶する頭の悪さだ」

「なんだと? 本当に北の方に獣が出るとして、だから何だと言うんだ」

「逃げるなら南に行けと言ってるんだよ。馬は呼べば来る」


 男はそう吐き捨てると、またどこかへ姿を消した。


「……はあ? 何なんだあいつは……」


 シュナは足の拘束を解くと、汚れた床にごろりと横になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る