1.6
「……イネさん服着ました?」
「これでええのか? 今日日の服なぞ着ておらんから勝手が分からんのう」
そう言ってイネさんは、ジャージの上着をズボンにインするクソダサファッションで部屋から出てきた。おそらく巫女装束の袴と同じ感覚で履いてんだろう。
「いいんじゃないんスかね」
なげやりに返し、自分で淹れたコーヒーを飲む。空の胃にブラックコーヒーは堪えるが、朝はコーヒーを飲まないとエンジンがかからない。
「すまんのう。そこの上で寝てしもうて。よもや腹を押し潰し吐瀉させるとはの」
「いや、まあもうイイっすよ。とりあえずその、改めてお久しぶりです」
「そうさな。そこと話すのは随分と……もう随分と久方ぶりじゃな。およそ一〇年ぶりか。街を離れてどうしておった?」
「まあ、イロイロありましたよ。思い出したくもねえくらい。家庭の都合でこっち帰ってきたのは二年前っすかね。その、挨拶行くの忘れててすんませんでした」
「気にするでない。幼少の砌(みぎり)の記憶など歳をとれば忘れるものよ」
「そっちはどうっすか」
「やつがれか? まあ、やつがれも……イロイロあったのう」
そう言って鼻を鳴らすイネさんは相変わらず美人だったが、記憶よりもずっとくたびれて小さく見えた。
俺は「事情は穂保比売様から聞いてます」と言おうとした。だが口が動かない。
夢での女神サマの「伊禰には内緒ですよ。決して話してはなりませんからね」がこういう形で現れるのかと理解し、ゾッとした。
いやそれにしてもなんで秘密にしなきゃならんのだ?
沈黙に耐えかねて、イネさんが「酒ある?」と聞いてくる。
ウチは爺さんが酒を呑まないのでそういうものはない。
そう返すと元神使の狐の女性は口をへの字に曲げた。
「なんか飲みます? コーヒーは?」
「なんじゃそれは。泥水か? ……あまり好かんのうこの味は」
一口舐めて苦々しい顔をするイネさん。
じゃあまあ、犬も狐もだいたい一緒でいいだろう。俺は牛乳をあっためて渡す。
神社で供物にないからか。彼女は匂いを嗅ぎ、恐る恐る舌をつけ。
お気に召したか、やがてカップを両手で持ってくぴくぴと飲み、大きく息をついた。
そして彼女はポツリと話し始める。
「――やつがれはな。穂保比売様からあの分社を任されておったんじゃがな。力が及ばぬせいで、氏子が居らんようなってしもうた。やつがれのせいで神社は荒れ果て、林も整えられず、柱は朽ちた。崩れた社を建て直す者ももはや居らなんだ」
「まあそういうこともありますよ」
「やつがれのせいじゃ。比売様から任され社を、やつがれが台無しにしたのじゃ。宮司はおろか氏子一人も居らん。あの方は分社を失われ、建て直す宮司も氏子も居らんのだと嗤われる原因を作ってしもうた。奴がれが比売様の名誉を傷つけた」
イネさんの手の中の水面が震える。
俺は細く長くため息をついた。
「肝心の神様はそんなの存外気にしてないかもしれませんよ。それに、まあ一人は氏子、いたんじゃないんすかねここに」
イネさんが目を見開く。そして俺の肩に顔を埋めて濡らした。
俺は口を押さえ、せり上がる胃の中身を押し戻す。
「そこは昔から不思議な子じゃのう。あの時からまるで大人のようじゃった」
「俺は普通ですよ。俺以外の連中が全員異常なだけです」
「……のう。やつがれはこれから、どうしたらいいんじゃろうか」
「分社が潰れたなら、本社には帰れないんすか」
「無理じゃなぁ。彼処にやつがれのような碌でなしを食わせる扶持もないわい。恥をかかせてしもうたこんな碌でなしが、穂保比売様に合わせる顔もない」
そう笑う彼女は、どこまでも卑屈で自虐的だった。
記憶の中の彼女はここまで自分を卑下する人だっただろうか。
俺はぼんやり考える。
「そっすねー……合わせる顔がないなら、顔合わせられるくらいビッグになったらいいんじゃないんですか」
俺は思考を巡らせながらコーヒーを啜る。
「やっちまったことの取り返しがつかないなら、その後をどうするかが問題だと思うんすわ。俺は神様の業界のことはよくわかんねえんですけど、たとえばイネさんが有名になって穂保比売様のために氏子集めて信仰を得て、「元穂保比売様の神使のイネさんパネエッス」ってみんなが言うようになれば、間接的に穂保比売様の株も上がりますよね。故郷に錦を飾れば顔向けもできますよ」
俺はチラと目を向ける。
シラフの彼女には自嘲が滲んでいた。
「やつがれにできることなぞ何もなかろう。無力じゃよ」
「そっすか」
俺はコーヒーをあおる。
やる気がない人間には何を言っても意味がない。
自律した個人に第三者があれしろこれしろと言うのは自由意志への冒涜だ。
理性と自由意志を持つ者には、英雄的に生きるか、愚行を重ねて生きるか、エゴイスティックに生きるか選ぶ権利がある。どう生きるかは自由だ。
俺は、自由と理性を尊重するってのはそういうことだと思ってる。
穂保比売サマがなんと言おうとイネさんの好きにさせればいい。
仮にそれが自滅的であろうとも。
一応俺も説得はした。これで俺も穂保比売サマへの義理を果たしたはずだ。
「じゃあ俺はそろそろ学校行きますんで。俺の部屋の中なら、パソコンに触らない限り好きにしてて構いません。細かいことはまた学校から帰って話しましょう」
「そこは踏み込んでこんのじゃな、此方の事情には」
「俺は暑苦しい友情ごっこも善意もボランティアも嫌いなんで」
コーヒーカップを洗い、カバンをつかむ。
爺さんは早起きなもので、俺が起きる前から一階で店の準備をしている。
豆を焙煎して、軽食の仕込みをして、店の掃除をしてと色々忙しくやってる。
さて爺さんにはイネさんのことをどう伝えるべきか。
しばらく俺が預かるなら、イネさんの分の家賃も俺が払うべきか。もう一人分俺が払うのか? いっそウチではずっと狐の姿でいてもらえば犬一頭のカウントにならんか。まあ爺さんは「家族だから家賃なんていいんだよ」っていつもみたく言うんだろうが。この二年間俺は自分の家賃は払ってきてるのだ、今回も狐一頭分の値段を受け取ってもらう。
などと考えながら靴を履いた瞬間、ズドン! と鈍い音が響き渡る。
そして家が揺れた。
「地震か!?」
スマホを見るが地震警報はない。揺れも一瞬だった。
「な、なんじゃあ王雅!? 何が起きとる?」
「分からんです、とりあえず外!」
よろめくイネさんを支え家の外に出る。
そこで俺たちが見たのは予想もしてないものだった。
家にトラックが突っ込んでいた。
突っ込んだ先は、一階のカフェとまり木。
爺さんが朝から開店準備をしてる場所だ。
全身が総毛立つ。
「ジジイ! 生きてるか!」
瓦礫を蹴飛ばし店に入る。
「――王雅くん、僕はこっちだ」
カウンターの向こうから、萎びた腕が振られる。
木製のカウンターを飛び越えると、背中を丸めた爺さんがいた。
「どうした、破片でも刺さったか!」
「い、いや驚いて腰が、あいたたたた……!」
爺さんは腰を押さえ、脂汗を浮かべていた。
「カウンターの裏にいたおかげで、破片とかは大丈夫だけど……」
立ち上がる爺さんは、ぐちゃぐちゃになった店内に泡を吹きそうな様子だった。
壁が一面なくなり、店はすっかり見通しがよくなっていた。室内にはテーブルと椅子の残骸、それからガラスが飛び散る。床板も一部捲れ上がり、衝突の威力を物語る。
「ああ、店が……!」
「生きてただけマシだ!」
俺はスマホで救急車を呼ぶ。
「すんません。車がカフェに突っ込んで怪我人が二人います。住所は――」
すぐに到着するだろう救急車を待ちながら俺はつぶやく。
「ツキすぎてて嫌になる。なんでこうも、面倒ばっかり転がり込んでくる?」
それとも今朝のこれは、女神サマからの頼みを無視しようとした罰か?
イネさんを教祖にした新興宗教を放棄しようとした俺への呪いじみた何かか?
ゾッとする問いを考える間に、サイレン音が近づいてくる。
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お稲荷様はぶいちゅーばーでめいど様 弍蜂 @nihachi
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