1.4


 手放したはずなのに、俺の意識は驚くほど明晰だった。


 目覚めたわけではない。まだ俺は眠っている。

 上下左右どこを向いても真っ白な空間。これが夢だとわかる。


 ぼんやり「不思議な夢だ」と考えていると、背に気配を感じた。


「ようこそ、葦原と高天原の境へ」


 澄んだ高い声。

 人というより楽器に近いその音に、俺は侵し難い神域へ踏み込んだように身が固まる。


 振り返るとそこには知らない女が立っていた。


「麿(まろ)は穂保比売(ほうけひめ)と申します。貴方とはこれだけ深い縁で繋がっているのに初めてお会いましたね、王雅」


 名を聞いた途端、俺は弾かれたように顔を伏せていた。

 頭を上げてはならない。

 そう脊髄的にわかってしまう。


「面を上げて結構ですよ。そんなに畏まらないで。吾が善し子にそう居住まいを正されると、距離を感じて寂しいですから」


 声は威厳あふれるが、どこか優しげでもあった。


 俺より一段高い場所に立つ女は、想像よりもずっと幼い雰囲気をしていた。

 慈母のようでありしかし童女のようでもある顔立ち。

 身丈は小さく、見たことのない装束に身を包んでいる。

 古美術に描かれるような古代の神の装束とはまた違った意匠だ。


「それで、穂保比売稲荷大神様が俺……自分に一体なんの御用ですか」

「ふふ、もっと気楽で構いませんよ。この度貴方をここに呼んだのは、そちらでお世話になっている麿の可愛い神使(みさき)のことでご相談したいことがあるからです」


 そりゃそうだろな。それしかないわ。


「神社が棄てられ、行き場をなくしたあの子を引き取ってくれて礼を言います。あの子がどうなるのか麿も気掛かりでなりませんでしたから。貴方のような信心深い氏子の下でお世話になるのなら一安心ですね」


「え、えっ? ちょっ待ってください。これウチでずっと引き取る流れっすか?」

「え、えっ? 違う感じですか? そうじゃなかったんですか?」


 俺も穂保比売サマも、頭にクエスチョンマークを浮かべて互いを見る。


 なんとも言えない気まずい沈黙が流れた。


「ちょっ待って欲しいんスけどね、そのぉ……神社の方には戻らない感じで?」

「ええっとですね。ちょっとこっちの方も難しい話がありましてね」


 言いながら、若々しい女神サマは「むー」と腕組みした。


「貴方はもう麿の神社を見ましたね?」

「はい、まあ。柱がシロアリにだいぶ食われてましたね。脆くなってるとこに、この間の大雨か雷かで木が倒れて社を全開させたー、みたいな状況ですか」


 俺はお山で見てきたものを語る。


「大凡そうです。そしてあの分社にはもう建て直す氏子が一人もおりません」


 だろうな。伸び切った雑草に蜘蛛の巣まみれの獣道から、信仰が途絶えてることは容易に推測できる。


 穂保比売サマは嘆息混じりに語る。


「麿の本社は鎮西にあり、江戸の時分にこの地へ分御霊(わけみたま)が運ばれ分社ができました。それから一〇〇年はこちらも栄えていたのですが、やがて青人草の農耕の技術は発達し、もはや稲荷神に五穀豊穣を祈ることも忘れ、民草の信心はなくなりました。そしてあの分社では宮司と総代が逝くも引き継ぎがなされず、いまや誰も祭祀を行わない始末です」


 今日日どこも不景気だが、神様の世界も世知辛いもんだ。


「あの分社では、この一〇年でもっとも熱心であった氏子が貴方なのです」


 クソガキだった俺が最後の氏子とは世も末である。


「鎮西っつーと、九州ですか。その、九州の本社ではイネさん引き取れないんすか?」

「それがまた、ややこしいんですけどね……」


 幼なげな女神サマは、途端に疲れたリーマンのような風情を漂わせる。

 女神サマに感じていた威厳とか畏敬みたいなのがどんどん薄れていく。


「地上に麿が力を及ぼすには、氏子の信仰がもたらす力が必要になります。氏子の信心が、こちらに影響を及ぼすための力を与えるのです。ですが昨今青人草の信心が薄れ信仰が不足しています」


 聞けば聞くほど、「なんか面倒ごとになりそうだ」と俺の中でアラームが鳴る。


「麿の影響力の低下は神使たちにも関わります。稲荷信仰が流行った時に各地に分社を建てて、そこここに神使を置いたものの、いまやそれも維持できなくなってきています。神使たちは神でなく元は獣です。それが麿の神威(みいつ)が及ぶことで人に化けて私に仕えられるようになります。伊禰(イネ)も同様です」


 童女のような女神サマの桃色の唇から悩ましい吐息がこぼれる。


「あの子は四〇〇年もの間、麿を慕い善く仕えてくれました。とても善く働いてくれました。なので此度の雷雨で分社が潰れ神器も砕け、もはやあそこを維持できなくなった時、あの子へ鎮西に帰ってこないか打診しました。ですが折しも同時期に東国の分社も崩れて、あそこで仕えていた若い狐たちも行き場を失くしていました。伊禰は、「自分はもう十分に生きた」と暇乞いをし、自分でなく若い神使たちを鎮西で引き取るよう申し出たのです」


 穂保比売サマの目から、はらはらと涙がこぼれる。


 落ちた雫が真っ白な床を叩き、まるで水面のように波紋を広げる。

 雫がこぼれるたびに、俺は川面の笹舟みたいによろめいた。


「麿の神威がなければ、あの子はいずれ言葉もわからぬ獣に戻り、野山で独り寂しく寿命を迎えるでしょう。永く善く仕えて、同胞のために吾が身を犠牲にした孝行者へなんたる報いでしょう。麿にはそれが口惜しく、苦しくてなりません」

「そ、そっすね。それで、穂保比売様は俺にどうしろと?」


 神様という上位者はこちらの都合など考えてくれるのだろうか。

 俺は聞きたくもなかったが聞かずにはいられなかった。


「吾が善し氏子、王雅よ。貴方にはあの子が寂しい思いをせず、あの子のままでいられるよう、神獣にしてあげて欲しいのです。それがあの子の四〇〇年への報いです」

「は? えっと、どういうことですか」

「人々があの子を信仰するようにして、氏子を集め、あの子を神獣にして欲しいのです。あの子が氏子らに崇め奉られればやがて神獣となるでしょう。さすればあの子は言葉を失わず、惑える青人草を導き助ける存在でいられます。難題とは承知していますが、麿の願いを聞き入れてはもらえませんか?」

「――待った待ったちょい待った、だいぶぶっ飛んだ話で頭混乱してるんで、ちょっと整理させてもらっていいっすか」


 俺は眉根を押さえ、深呼吸をする。


「えっと要は今そっちの業界はめっちゃ不景気で、穂保比売様の会社も業績不振だ、と」

「あまり私は会社経営には詳しくないのですがまあ、そういうものでしょうか」


「それで、バブル期にイケイケドンドンあちこちに子会社建ててたものの、今や不景気でガンガン倒産してるんですね」

「恥ずかしながら。きっとそういう感じなのでしょうね」


「そんで、子会社の従業員たちを本社に全員呼び戻せず、会社に長年忠誠を尽くした社員が会社に操立てて自主退職した感じで?」

「え? ええまあ、おそらくは」


「で、社長の穂保比売様は次の職場を斡旋できないけど元の社員のイネさんが食いっぱぐれないようにしてやりたい。そういうわけで俺にド不景気な中、イネさんが新しく会社を立てて一国一城の主になれるよう働いてくれ、と。そういうことでいいんスね?」


 困り顔で、苦笑いしながら女神サマがうなずく。


「ええっとまあ、おおむねそう、でいいんでしょうか」



 ムリくせえええええええ!



 いやムリだろ、国民の信仰心が薄れてる時代に、新しい神様を立てて信者集めて教団作れって!? どんだけ逆風ふいてんだよ。

 俺が教祖になってカルト教団でも作るのか?


 俺がこれまでやってきたことなんてせいぜい動画編集や、SNSの管理代行くらいだ。

 そんな高校生が神様立てて教祖になって、新興宗教法人作って盛り上げろだと? 

 

 はい無理ゲー!


 俺はよく「何考えてるかわからないから不気味」とか言われる人間だが、この時ばかりは顔におもっくそ出てたのだろう。

 姫神サマは歩み寄り、不安げな顔でのぞきこんできた。


「……今時の子は、こういうの好きじゃないんですか? 二〇〇〇年前の青人草たちなら「はい喜んで! この地を貴方(みまし)の社で満たしましょう!」ってノリノリだったのですが」


 マジかよ古代人。頭ガンギマリじゃねえか。


 神話とかでよくある、英雄が「神様の御告げがあった」って目パキパキで仲間に話して隣国に侵略に行く冒険の始まりとかこんな感じだったんだろうか。


 少なくとも俺はこんな御神託ゴメンなのだが。


「今はまだ、伊禰にも麿が最後に与えた力が残ってます。ですがその枯渇も時間の問題です」


 女神サマは楚々と俺の手を握る。

 そして、夢の中なのに意識を手放してもう一度気絶したい俺をよそに、あたりを見渡す。


「もう夜が明けますね。時間が来てしまいました。またお呼びします。難題ではありますがくれぐれもよろしく頼みますよ。あ、それから今日ここで麿と会ったことは伊禰には内緒でお願いしますね。決してあの子に話してはなりませんからね」


 そうして俺は、呼ばれた時と同じくらい唐突に現実世界に戻される。「これって拒否ったらなんか呪いとかってあります? あと上手くいったときの報酬は?」。


 そう叫ぶよりも先に、俺の意識はホワイトアウトした。

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