1.2


 げっそりした俺の凶相に、道ゆく人が恐怖の目を向けてくる。

 だがそんなことも今の俺にはどうでもよかった。

 

 尻軽どものためにタダ働き。

 不条理だ。


 イライラを誤魔化すために、鞄から煮干しを取り出し口に含む。

 こういうときはカルシウムだ。カルシウムこそ全てを解決する。


 根拠不明の自己暗示をかけているとスマホが震える。

 幼馴染の日笠三葉(ひがさみつば)からの着信だった。


『が、ガオくん! 大変だよぅ!』


 彼女は、鷺原王雅なんていう俺のくっそダサいDQNネームをさらにダサいあだ名に変換して呼ぶ唯一無二の感性の持ち主だった。


「どうした三葉。また財布落とした爺さんの自転車でも追いかけて隣町で迷子か?」

『そ、それは中学生の話だから! えっとね、そうじゃなくて、今時間ある?』


 三葉は歩くトラブル収集機だ。蜜を塗りたくった樹が夏の夜の森を自走するレベルで、トラブルを呼び寄せながら自らも巡り合いに行く。そんな奴だ。


「すまん今日は呼吸する予定だけでギチギチに詰まってる。また誘ってくれ」

『そ、それヒマってことじゃん! あ!』


 すぐ横で三葉の声がした。視線を向けると、スマホを耳に当てた幼馴染がいた。


「よ、よかったぁ、ガオくん助けて……!」


 もさっとした前髪で目を覆い隠すいつものヘアスタイルの三葉が、俺のシャツを掴む。

 引きずられた先は公園のベンチだった。

 ベンチの上には薄汚れた和装の女が虚な目で座っていた。

 女の周りには、金欠アル中の最後の砦と名高い安酒、『鬼殺し』の紙パックが散乱している。


「……俺にどうしろと?」


 酔い潰れた女は頭を左右に揺らし、夢見心地で船を漕いでいた。


「えっとね、こ、このお姉さんに「大丈夫ですか? 寝るならおウチがいいですよ。おウチどこですか?」って聞いたの。そそ、そしたらお姉さん、「帰れない」って」

「呼ぶなら俺よりも警察な案件だな。一一〇番しろ」

「こ、困ってる人がいたら助けるのがひ、ヒーローだよガオくん! じ、自覚ある?」

「警察も困ってる市民を助けるヒーローだよ。税金払ってんだ、獄卒戦隊サクラダモンジャーに助けを呼べ」


 俺はうんざりした声をあげる。


 日笠三葉は一言で言えば奇特な奴だ。

 他人と目が合わないよう長い前髪で目を隠している。人に注目されるのが死ぬほど苦手。コミュ障気味で鈍臭く、知らん人と喋れば挙動不審になる。なのに、ヒーローに憧れている。

 いまだに弟たちと一緒に、日曜朝のヒーロー番組を欠かさず見てるらしい。そして街を歩けば困ってる奴がいないか探し、助けようとする。


 けれど根がコミュ障なせいで困ってる奴を見つけても声をかけるまで三〇分はかかるし、どうにか話しかけれてもキョドって意味不明な言動をし始める。そうして最終的に、今日みたいに俺に助けを求める。


 要は、高所恐怖症のくせに空を飛びたがるペンギンみたいな奴だ。


「が、ガオくんもヒーローだよ! ね、一緒に助けてよ」

「生憎ボランティアは品切れで入荷待ちだ。今日はもうこれ以上タダ働きしたくない。俺を働かせたけりゃ対価を払うんだな」


 三葉のヒーロー願望に付き合って要らん手間をとらされてたまるか。さっさと警察呼んで俺は家に帰るぞ。


 いま依頼されてる動画編集にも納期がある。俺にとっては見ず知らずの飲んだくれの介抱よりも、一〇分尺で単価八〇〇〇円の依頼の方がはるかに有意義だ。


 しがみついてくる三葉を引き剥がして、酒臭い女を見下ろす。

 薄汚れて擦り切れてはいるが、もとはしっかりした作りだっただろう袴を着た女だった。何日野宿をしていたのか。髪はボサボサ、顔も埃で汚れている。

 絶対に面倒臭え事情を抱えてるタイプの人間だ。極力関わりたくない。


 観察してると、不意に女は犬のように鼻をひくつかせた。

 そして細い目をわずかに開き、俺を見る。

 やがてポロポロと涙をこぼしはじめる。


「……なんと悦ばしきことか。これが夢幻なれど最期にまみえるのが吾が善(え)し子、王雅か」

「は? あんたなんで俺の名前……」


 戸惑う俺をよそに、女は俺のシャツに顔をうずめ鼻水で汚した。


「え!? が、ガオくんのお知り合い?」

「いやこんな酔っ払い知り合いにいねえよ。えっと、どちらさまっすか?」


 胴にめりこむ土埃まみれの頭に俺の言葉はどれだけ届いてるのか。

 女は鼻水まみれの顔を上げ、急に肩を組んできた。

 子どものように、きゃらきゃらと泣きながら笑う女の吐息が鼻にかかる。


 いやくせえ、マジで酒くっせえなオイ! あと汚い!


「ああ善(よ)き哉(かな)、善き哉。そこが健やかであったことこそ、かはは、やつがれにとっては何より僥倖ぞ。ずずっ! あれからどうしておった? 積もる話もあろう。またあの時のようにぃ、庭で語らおう。そこの話を、やつがれに聞かせてくりゃりぃひひひ」


 そう言って親しげに体重を預けてくる酔っ払いがいったい誰なのか。俺はいまだ思いだせなかった。


「に、庭ってことは、お姉さんのおウチですか?」


 俺を盾にしながら三葉が尋ねる。


「ああ。もう随分と、彼処に住まわせてもろうておるよ〜。どれ、ゆくかの」


 そうして古めかしい言葉で喋る酔っぱらいは、夢見心地の足取りで歩き始めた。

肩を貸す俺が、「代わってくれないか?」と提案するよりも先に、三葉は俺の口にチョコを押し込んだ。

 そして食いかけの菓子箱を無理やりポケットに捩じ込んでくる。


「ガオくん、困ってる人を助けたいあたしを助けてくれてありがと。お礼は先払い、だよ」


 ……クソ、そうきたか。


 別に欲しくもないが、礼を受け取らされた手前、助けないという選択をすると約束を破ったことになる。契約を破る奴は皆クズだ。俺はクズじゃない。

 三葉のボケめ、テストの点数は悪いくせにこういう時だけは頭が回る。


「三葉。お前これ終わったら覚悟しとけよ」

「ぴ、ぴぃ!」


 おもっくそ睨みつけてビビらせた俺は、夢と現実を行き来する酔っ払いを支えて歩く。


 平日の夕方だっつーのにシャッターが閉まりまくった地獄の果てみたいな商店街を抜け、住宅街を通り過ぎ、畑を横目に歩いていく。「一体どこに向かってんすか?」と聞くが、女は回らぬ呂律でよくわからないことを喋るばかりだった。


 そして農地の先。

 小高い山に向かう道中で、酔っ払いの足が萎えて座り込んでしまう。


「おう、おぉう? 今日の道は随分と蛇のように曲がりくねっておるぞ王雅ぁ! 呵々!」

「あんたが酔ってるだけっすよ。立てます?」

「ムリじゃあ〜おぶってくりゃり」


 事ここに至ってもなお敬語を使える俺を誰か褒めて欲しい。


 痩せてるとはいえ酔った和装の成人女性一人を背負って、蜘蛛の巣の張る獣道を登る。

 五月なのに汗を滴らせる俺は、十字架を背負ってゴルゴダの丘を登るナザレのキリストの気分だった。


「まだ、あんたの家、着かんのですか?」

「もお、すこしじゃよぉ。それにしてもあんなにちっこかったそこがよもや、やつがれを背負うて歩くまでとはのう。人の生い立つこと矢の如しよ」

「ガオくん、がんばれ!」

「三葉、お前マジで後で正座な。商店街の真ん中で」


 そうこうするうちに、ようやく山頂が見えてきた。

 見上げる俺の目に映ったのは、すっかり朱色が剥落して、しめ縄も黒ずんだ鳥居だった。


 記憶の中にあるそれよりも遥かに古びてしまっている鳥居には、それでも懐かしさを覚えた。

 俺はこの場所を知っていた。


 穂保比売(ほうけひめ)稲荷神社だ。

 なぜ今まで思い出さなかったのか。

 不思議でならないほど俺はこの場所を知っている。


 まるで時間を遡行するように、俺は鳥居をくぐる。

 苔むした狐の石像。境内の雑草はすっかり伸びきって膝まである。

 鳥居の先、そこだけは綺麗に保たれていた小さな社。

 だが、小難しい言葉でお祈りの仕方を教え込んできたお姉さんと一緒に手を合わせた社は、今や倒れた巨木の下敷きとなり見る影もなかった。


 背負っていた酔っ払いがようやく自分の足で立ち、ふらつきながら社へ向かう。


「――あんた……イネさん、か?」


 しかし彼女は答えず、すっかり酔いも醒めた声でつぶやいた。


「なんじゃ。善い夢かと思うておったのに。ここは現実じゃったか」


 荒れ果てた神社に、絶望に満ちた声がポツリとあがった。

 そして記憶の中の凜とした姿よりも随分小さく、みすぼらしくなってしまった彼女は、ぺたりと座り込んだ。


「帰る場所はもうないんじゃな……」


 そして彼女は力なく崩れて小さくなっていき、消えた。

 あとには汚れた和装だけが残った。


「えぇぇっ!? ガオくん、ふぇっ!?」


 頓狂な声を上げる三葉を無視して、俺は抜け殻のような服に触れる。

 誰かがさっきまで着ていたことを示す温度があった。


 ふと、手に膨らみと弾力を感じる。

 服の中で一匹の狐が丸まっていた。

 黄金色の丸まったそれは、小さく膨らんでは萎む。


「き、狐? あのお姉さん、狐だったの……!? もしかして本物のお稲荷様?」


 鳥居の横の石像を振り返る三葉。


「狐は使いだ。――イネさん、あんた本当に神様の使いだったんだな」


 これまで忘れていた、遥か遠い過去のイネさんの言葉が蘇る。


「そ、それでガオくん、どうする?」


 俺は眠る狐の温度を掌に感じながら、三葉を見上げた。


「狐さん可愛い……けどウチ、弟たちいっぱいで。連れて帰れないよぉ」

「マジかよ。お前が言い出しっぺだろ。しゃあねえ、置いてくか」

「そ、それは可哀想だよ! お姉さん、帰る場所ないって言ってたよ。が、ガオくんお願い! 後でガオくんの好きなエナドリの新作奢るからさ、ね? ガオくんの知り合いなんでしょ? お願いお願い!」


 やっぱりこうなるのか。この疫病神め。

 俺は怨嗟と諦念の息を漏らした。

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