お別れのアリア
阿部 吉
お別れのアリア
▫️einleitung
空はいつも鈍い灰色だった。絡み合う歯車の煙が絶えず町全体を覆い、どこか金属の焦げた匂いが漂う。金属の軋む音が街のあちこちに響くその世界は機械と効率に支配され、かつて人々の心を彩っていた「音楽」は過去の遺物として忘れ去られて久しかった。
レイは薄汚れた手袋を直しながら、ぼんやりと目の前に転がる金属の山を見つめた。工場での労働を終えた彼がここにいるのは、単に日銭だけでは生活を回せないからだ。誰もがこの街で生きるために、必要なものを奪い合っている。
「…今日も何もないな」
ゴミの山をひっかき回しながら、無気力な呟きを漏らす。価値のあるものを探すふりをしているが、心のどこかで「何も見つからないでほしい」と思っている自分に気づく度、嫌悪感が広がる。
そんな中、彼の目に数枚の紙が映った。
埃にまみれたそれは、古びていて、端がすでに破れかけていた。拾い上げてみると、そこには奇妙な記号や線がびっしりと書かれている。
数字でも文字でもない。役に立ちそうなものでもない。ただ、何か不思議な引力を感じた。それが何を意味するのかわからず、使い道も思いつかない。それでもレイは、紙切れをそっとポケットに押し込んだ。
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その日から数日間、レイはその紙切れを時折眺めた。工場での単調な作業、無味で乾燥した食事、そして夜になれば再びゴミ山を漁る。彼の生活に変化はない。
紙を見ていても未だわからないものはわからない。だが捨ててしまうには惜しい気がして、結局手元に置いたままになっていた。
ある夜、工場で些細な諍いが起きた。それ自体は大したことではなかったが、親方から理不尽な罵声を浴び、周囲の労働者たちから冷たい視線を向けられたレイは、ふとすべてが馬鹿らしくなった。
「もう、いいか…」
彼の心に浮かんだのは、長い間押し殺してきた思いだった。生きることに意味を見いだせず、日々をただやり過ごすだけの生活。その繰り返しに、ついに疲れ果てた。
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しかし、死ぬにしても最低限の準備は必要だった。誰かに迷惑をかけるのは嫌だったからだ。荷物をまとめ、身辺整理を始めたレイの目に、ふと例の紙切れが映った。
「これも…捨てるか」
特に意味のない紙。大事にしていたわけでもない。ただのゴミだ。そう自分に言い聞かせ、紙切れを持ってゴミ捨て場へ向かった。
紙切れを投げ捨てる──その時、背後から声がかかった。
「ねえ、それ、捨てるの?」
振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
薄汚れた町の中に不釣り合いな、どこか神秘的な雰囲気を纏った彼女。
「その紙は『ガクフ』だよ。音楽を奏でるための指示書」
「…は?」
意味がわからず、レイは思わず眉をひそめた。音楽――そんなもの、この世界では完全に過去の遺物だ。
「…興味ないし、俺には関係ない」
投げやりに返事をし、その場を去ろうとした。しかし彼女はレイ近づき、低い声で言った。
「明日、それを持って街外れにある屋根が壊れた建物に来て」
「…なんで」
「来なかったら…後悔するよ」
その声には奇妙な力があった。不快感を覚えながらもレイは言い返す気力を失い、その場を後にした。
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彼女の言葉を無視しようとしたレイだったが、不思議なことに翌日になると彼は『ガクフ』を手に、足は自然と街外れの方へと向かっていた。
これが何なのか見た後で終わらせたって遅くないだろう、自嘲気味の思いを抱えながら、レイは瓦礫に埋もれた建物の前に立った。それは遺跡のような音楽堂だった。
▫️belebt
薄暗い空に広がる無数の歯車がどこか耳障りなリズムを刻む中、レイは音楽堂に足を踏み入れた。屋根には大きな穴が空き、風が入り込むたびに埃と瓦礫が音を立てる。
「待ってた」
奥から現れた彼女は、どこか不思議な光を宿した瞳でレイを見た。
そして、舞台中央に立つぼろぼろの木製の物体を指差す。
「これは『ヴァイオリン』。貴方が持っている『ガクフ』に書かれた音楽を奏でる道具」
「…それで?」
「弾いてみて。演奏してって意味よ」
レイは即座に断ったが、彼女は一歩も引かなかず「あなたがこれを弾くの」と言い切った。
「…なんで俺が」
「それは、これからわかる」
彼女の強引な態度に根負けし、レイは仕方なくヴァイオリンを手に取ることになった。
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「まず構え方。いい?こうやって左手を置いて…」
「弓を持つのは右手。もっと手首を柔らかく」
彼女の叱咤混じりの指導に、レイは早くも後悔していた。だが、彼女は根気強く教え続けた。
「そんなに弾きたいなら、あんたが弾けば」
「私って弾くのはだめなのよね。楽譜は読めるから、こうして教えてるでしょ」
最初は音すらまともに出なかった。弦を擦るたびに甲高い音や妙な振動音が響き、レイは何度も「無理だ」と呟いた。
「誰だって最初はそう。でも、この音が形になっていく瞬間は、きっと貴方を変えるから」
「貴方を変える」──彼女の言葉がどこか引っかかり、レイは弓を引き続けた。そしてある瞬間、弦から生まれた音が、初めてまともな響きを持った。
「…あれ?」
自分の手で生み出した音に驚き、喜びを感じた。レイの表情がわずかに変わったのを、彼女は満足げに見つめていた。
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それからレイの生活は少しずつ変わっていった。昼間は変わらず工場で働き、夜になると音楽堂に向かった。
ヴァイオリンを弾くために指を動かし『ガクフ』の記号を読み解く作業が、日常の一部になっていった。
彼女は相変わらず口うるさく指導したが、ふとした瞬間に見せる嬉しそうな表情が、レイを何よりも安心させた。
「だいぶ形になってきたね」
彼女は頬杖をつきながら、演奏をするレイをじっと見守っていた。
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拙いながらも音楽を奏でる中で、レイの中に変化が訪れた。音が形になり、曲が一つの物語のように感じられるようになった時、彼はふと「生きている実感」を覚えた。
もっと弾きたい。
そんな気持ちが自然と湧き上がり、彼の動きを後押しした。音楽堂での練習はいつしか楽しみとなり、いつしか彼の心に少しずつ光が差し込んでいくのを感じる。自分にしかできない何かを見つけつつあった。
▫️ruhig
数月が過ぎた。レイは音楽堂の片隅でヴァイオリンを手にし『ガクフ』を見つめている。荒削りだが、音は紡げるようになり、メロディの輪郭は明確になっていた。
「あのさ…」
レイは彼女に向かって言葉を切り出す。彼女はいつものように頬杖をつきながら彼を眺めている。
「多分、もう弾けると思う。全部通して弾き切ることができる。だから…聴いてくれよ」
彼女は一瞬、何かを思案するように視線を伏せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
「いいよ。聴かせて」
その言葉を聞いたレイは深呼吸をし、ヴァイオリンの弦に弓を乗せた。心臓が高鳴る。彼女の存在がどこか儚く感じられるのは、気のせいではないのだろう。
演奏が始まる。
最初の音はぎこちなく、拙いものだった。それでも、レイは焦らずゆっくりと弓を動かした。音と音が繋がり、次第にメロディが形を成していく。
彼女は目を閉じ、静かに耳を傾けている。その表情はどこか穏やかで、懐かしいものに触れているようだった。
レイは弾く手を止めずに彼女を見た。演奏が進むにつれ、輪郭がぼんやりと薄れていく。それが何を意味するのか、彼にはわかっていた。
それでも、彼は演奏を止めなかった。
彼の心は静かだった。演奏はクライマックスへ向かい、彼女の姿はますます霞んでいく。彼は最後の音を弾き切り、そっと目を閉じた。
音が消え、静寂が戻る。
ゆっくりと目を開けると、彼女は消えていた。音楽堂にはレイの他に古びた『ガクフ』とヴァイオリンだけが残されている。
ふと、ヴァイオリンを見た。
──弦が切れている。
彼女は忘れられた音楽を奏でる人物を探していたのだ。
---
数年後。
薄暗い街の一角、小さな店がひっそりと佇んでいる。その中には楽譜を売る店があった。
その店の主は、かつて無気力に日々を過ごしていた青年、レイだった。店には彼が様々な場所から集めた『楽譜』が並んでいる。音楽を知る少数の人々が、それを求めてやって来る。
レイは棚の一角に置かれた『ガクフ』とヴァイオリンを見つめた。かつて彼を変えたものたち。
今思えば、あの時の演奏は全く満足のいくものではなかった。テンポもめちゃくちゃで、間違えている箇所もたくさんある。
レイは苦笑いを浮かべる。だが、その胸にはあの一度だけのメロディが今も響いている。それは彼の心に深く刻まれ、今も彼を支え続けているのだった。
─Ich habe mich von der Air auf der G-Saite inspirieren lassen.
お別れのアリア 阿部 吉 @abe12
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