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 『入居者募集中! ペット可』と書いてあるノボリがアパートの前に立ててあったのを見て、聖は安心した。彼が住んでたアパートに比べて全体的にお洒落だ。駐車場の車止めブロックの手前に猫の足跡がペイントしてあったり、アパートの名前も『フォルテッツァ』だった。その上品な名前が刻まれた看板の真下には花壇があって、春になったら花が咲きますと主張していた。

 女の子が好きそうだ。かと思えば、隣の住人は中年の男だった。このアパートの扉の前でも、鍵でもたもたしていたら、中年のおじさんがスッと背後を通り過ぎて隣の部屋に入っていった。手には競馬新聞を握り締めている。「どうもねぇ」と挨拶されたが、聖は面食らって「あ、どうも……」としか返せなかった。

 部屋に入って明かりを点けると、物が散乱していて足の踏み場が無かった。脱ぎっぱなしのコートやゴミ袋、菓子パンの袋が足元に落ちている。

「クソほど疲れているのに勘弁してほしいな……それにこの部屋、香水臭ぇな」

 匂いが猫に悪そうなので、窓を開けて換気を急いだ。寒くて仕方が無いので暖房器具を探すと、セラミックヒーターを見つけたので電源ボタンを押した。子猫のケージの中にはペット用の湯たんぽを入れているが、早く暖かい部屋に出してやりたい。

「しまった、子猫の食うもんがねぇわ。猫のエサだけでも持ってくりゃ良かったかな……でも、どっちにしろ重たいしな」

 仕方がないので、コンビニエンスストアに行くことにした。

「猫のトイレは……今夜だけは、洗面器でも使うか。コンビニによっては砂も売ってるしな。ごめんな」

 いきなり環境を変えてしまって、悪いことをしたと謝ったが相手ははきょとんとしていた。ケージから出された子猫は、ここはどこだと言わんばかりに、ひたすらフローリングの匂いを嗅いでいる。

「どっちにしろ、名前付けなきゃな」

 つい独り言が多くなってしまう。

「ついでに食い物も買ってこよう。ケーキの売れ残りとかないかな」

 一休みしたい気持ちをぐっと抑えて、再び外出の準備をする。振り向くと子猫が恨みがましい目で自分を見ていた。

「ごめんな、ちょっと留守番してろよ」


 扉を閉めながら、一瞬だけ背筋が寒くなった。

 全く同じ言葉を今日、出かける前にも言った気がする。

 また帰ってこれなくなったらどうしようか……と考えて不安になったが、自分は死の淵から戻って来れたんだと思い直して首を振る。些細なことは記憶にあるのに、肝心の死んだ前後の記憶だけ戻ってこない。そういうものなのだろうか。

「……ほんとにすぐに、帰ってくるからな」

 言い残して、聖は部屋を出て行った。


   * * *


 時計を見ると、もう日付が変わっていた。悪夢の様なクリスマスイブは終わった。

「……疲れた……」

 『波菜子』の明日のスケジュールは分からない。確認もしたくない。何もやりたくない。

 買ってきたカップラーメンを食べて、子猫にもエサをやって、洗面器に猫用のトイレ砂を入れる。ケーキは売れ残っていなかった。

 ようやく身体が温まり、眠たくなってきた。部屋の端に洗濯物の山があり、その中に上下のスウェットがあった。

「寝間着にちょうどいいな。すげーピンクだな、カバンもカーテンもピンクだし」

 消耗しきっていたが着替えようとセーターを脱ぐ。かゆみを感じて、何気なく爪を立てると腕に激痛が走った。

「うっ、痛ってぇ! ……えっ?」

 中には七分袖のインナーを着ている。そこから見える腕には、生傷があった。

 肉の色が生々しく見えているのに、血は出ていない。体中に感じた痛みはこれも含まれているようだった。

『聖さん。波菜子の身体は不健康なんですよ。彼女が自分で掻きむしった後なので、今は触らないでください』

 フィオーレの声が聞こえた。助けてくれと叫びそうになるのを堪える。

「痛ぇよ……不健康とかそういう問題じゃねぇよ、病院行けよ……」

『病院には行っています。枕元に塗り薬があります』

 ベッドを見てみると、確かに処方箋と書かれた紙袋があった。涙目でそれを塗り込んでから、仰向けで倒れこむと、濃厚な柔軟剤の匂いがした。他人の部屋だと実感してそのまま転がると、消臭・除菌のスプレーがベッドサイドテーブルに置いてあった。『生花の匂い』と書いてある。

「もう生き物が違うな……匂いにこだわってるみたいだけど、台所から生ごみの臭いがするから……そっちを何とかした方が良くね?」

 明日、掃除することを考えるとうんざりした。

『部屋の匂いを消しているんですよ』

「ゴミを捨てれば良いだけの話だろ……疲れた、もう寝たい……」

『お疲れ様でした、聖さん。ゆっくり休んで下さいね』

「うん……そうだ、寝る前にいっこだけ……恭介って、今、何やってるか分かるか……?」

『泣いています』

「……そっか……」

 もう夜中なのに、寝ないで泣いているのか。あいつは。

 あいつが、死なないで良かった。

 こんな目に合っているのが、あいつじゃなくて良かった。

 泣かせちゃったな……。

 さっきはじめて洗面台で『波菜子』の顔を見たことを思い出す。

 身長は百六十前後だろう。『聖』よりもふっくらとしているが、頬がこけてみえる。目が死んでいるのは、そういう顔立ちなのか、今の自分がそういう精神状態なのか分からない。顔の色は赤らんでいて、長く乱れた髪が更に不健康そうだった。

 こんな姿じゃ、会っても分かってもらえない。怒らせるだけだろう。

 ……それでも。

「明日、恭介に……メッセージでも、送ってみようかな」

 転がって天井を仰ぎ見ると、まるで知らない人の部屋に泊まりにきたみたいだ。

 ここは、どこなんだろう。そんな声が、時折思い出したように頭をよぎる。

「うぐっ」

 油断していたら、子猫が腹の上に跳び乗ってきた。まだ小さいとはいえ、いきなり来られると痛いし、驚いてしまう。


 ――少しだけ、泣いてしまった。

 そのまま、聖は沈み込むように眠りについた。意識を手放す直前、『おやすみなさい』とフィオーレの声がしたような気がした。

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