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   ***


 スペアキーは、アパートの部屋の前に備え付けてある洗濯機の下に隠している。持ち歩いていた鍵を無くした時のために用意しておいて良かった。

 鍵穴にそれを入れて手早く回そうとしたが、指先が震えてうまくいかない。

 手袋を取ると寒さがいつもの倍くらいに感じた。そういえば女性のほうが寒さを感じやすいと聞いた気がする。

 この身体の手は、ところどころ赤らんでいるのに、妙に青白い。血の巡りが滞っているような、身体に悪い水分がたくさん詰まっているような、そんな不安をあおる指先だった。

 ガチャガチャと金属音がする度に、誰かが顔を出すんじゃないかとか考えてしまい余計に焦る。大家さんがよく挨拶をしてくれたことを思い出した。良い人だったのに、悲しい気持ちになった。

 せめてこの部屋で殺されていなくて良かった。事故物件になってしまう。

「……おっ、と」

 ふいに鍵が開いた。聖は吸い込まれるように中に入って、初めに「子猫」とだけ呼びかけた。それから部屋の電気をつける。最近は慣れてきたからケージから出していて、いつもベットの上で寝ていたはずだ。

「にゃーん……」

「うわあっ!」

 びっくりして叫んでしまう。子猫はいつの間にか足元にいた。聖の顔を見上げるなり、エサ皿の前に移動して「にゃあー!」と力強く鳴いた。

「なんだよ、エサかよ……」

 出かける前に入れていった分は、とっくに食べてしまったのだろう。そう思いエサ皿を見ると、まだ残っている。

「こいつ甘えてるだけだな。人見知りするんじゃなかったのかよ」

 今の姿になった聖を、誰だと思っているのだろうか。

 拾ったときは、中々懐かなかったくせに。そう思いながら子猫の頭を撫でると、ごろごろと喉を鳴らしてきた。幸か不幸か、子猫の反応はいつも通りだった。それが、聖が一度『死んだ』という事実を誤認させる。このままいつも通りの日常に戻れるんじゃないかと、甘い錯覚を抱いてしまう。

 無理だと分かっているのに。

 せめてもの救いは、子猫が怖がらなかったことだ。可哀想だし、連れていくのに骨が折れてしまう。

「子猫、見せる約束だったんだよな。恭介に」


 ……あんまり長時間放置できないから、バイト帰りにあいつのアパートまで迎えに行って。そのあとオレの部屋で、子猫を見せるって約束をしてたんだ。一応クリスマスだからとかなんとか言って、ケーキやチキンでも食おうって話をしていた。


「ああ、なんかもう嫌だ」


 この部屋を見ていると思い出す。引っ越してきたばかりの頃のこと、一人暮らしに憧れてきたこと。リサイクルショップで買ったベットが痛んできて、そろそろ買い代えたいと文句いってたくせに、もう二度とあそこで寝ないのかと思うと、悲しくてたまらなくなった。気に入っていた家具も、好きだった本も、全部処分されるんだろう。

「くそっ。こんなんで寂しくなるとか、情けねえ」

 早く子猫を連れて移動したいのに。いつまでも動けなくて、聖はその後小一時間くらい部屋でじっとしていた。かつて、自室だった場所に。

「……行こう」

 ようやく重い腰をあげ、聖は子猫を移動用のゲージに入れた。幸い大人しくしてくれて、これなら電車での移動も楽そうだ。

 他にも何か持っていこうか悩んだが、子猫だけで手一杯だ。カードや銀行系のアプリは全て財布とスマートフォンに入れてあることを悔やむ。

 この部屋から出たら、もう明日には入れない。この場所は自分の物ではなくなってしまう。それは、早川聖ではなくなってしまうことと同義だった。

「そうだ、ノートパソコン……」

 パソコンがあればSNSのアカウントにも入れる。ここから恭介に連絡できるな、と考えてから、そんなことをしていいのか悩んだ。

 ……こんな姿で行って、どうするっていうんだ。信じてもらえないだろうし、お互い嫌な思いをするに決まってるじゃないか。

 目を閉じてうつむいた。それでも『早川聖』の――自分の痕跡が欲しくてノートパソコンだけは持っていくことにした。

 聖は少しだけスッキリとした気持ちで部屋を出ることができた。あんなに重かった足が軽くなり、自分が空腹だったことに気が付く。


「後で何か食おう。クリスマスイブだしな……」

 塞ぎこんでた気持ちが晴れる。僅かでも自分を取り戻すことが出来たような気がした。

「あの、フィオーレ……オレ、これからどこへ向かえばいいんだ?」

 おずおずと尋ねると、『お疲れ様です。まずは、波菜子のスマートフォンを起動して下さい。住所をお伝えします』と返事があった。

 ペールピンクのスマートフォンを起動する。指紋認証でログインしたが、余裕があったら買い換えたい。住所は埼玉県の越谷市だと伝えられた。

「越谷市は聞いたことある。確か大きなショッピングモールがあったっけ」

 記憶を辿ってから、路線を調べた。何回か乗り換えがある。

 今いる七光台駅から越谷駅までは、電車で三十分程度かかるようだ。身体も重たいし体力も限界だが、泊るわけにもいかないしタクシーを呼ぶほどの金もない。

「えっと、越谷……ん? 南越谷……新……越谷? なんかいっぱいあんぞ、駅が。最寄り駅どこだよ」

 越谷と名のついた駅が三つもある。千葉県民である聖は、埼玉の土地勘がないのでさっぱり分からない。

『波菜子の住むアパートからだと、南越谷駅が一番近いですね』

「お、おう。サンキュな」

 いえいえ、と軽い調子の声が聞こえた。ずいぶんと詳しいが手元に資料でもあるのだろうかと考えていると「急いだほうが良いですよ」と声がしたので慌ててケージとパソコンを持った。

 アパートから出るときに自分の部屋にお辞儀をした。感謝というより、さようならの儀式だった。寂しさは残るだろうけれど、子猫を連れていけること、ノートパソコンを持ってこれたことがせめてもの救いになって、聖は早々に移動することにした。

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