2.早川聖

 イブの夜、早川聖はやかわせいは死んだ。

 少し離れた場所に、倒れている自分の姿が見える。身体が吹き上がるように地面から離れて、それもすぐに見えなくなった。

 ……どこかから落ちたのかな。

 映画を見ているような気分だ。答えを見つける前に、ぼんやりと街の灯りが見えた。

 空に吸い込まれるように、ゆっくりと天に上る。山に登ったときよりも、飛行機に乗ったときよりも高く、高く浮かび上がる。


 ――このままだと、宇宙に行ってしまうんじゃないか。


 そんなことを考えていると、雲の隙間に銀色に光る門を見つけた。吸い込まれるようにくぐり抜け、ようやく着地してから、雲の上に立てることを不思議に思う。

 もう浮くことは出来ないようだ。不安定な状態が終わり、彼は頭を振った。鈍い痛みがあったが視界ははっきりしている。

「……ここ、どこだ?」

 ようやく呟くことができた。耳に響く声が、自分のものではないみたいだ。雲の上に浮いしまうなんて、夢なら覚めて欲しいが、死んでいたらどうしよう。

 とぼとぼと歩きはじめると、ほどなくして前方から人の声が聞こえた。

 男性の悲鳴のような叫び声だ。

「――もう嫌だ! 二度とあんな死に方したくない! 苦しいんだよ、死ぬのは……!」

 穏やかではない内容だ。声の主を探してみるが、煙るような霧のなか、姿は見えない。

「……それは分かりますが、あなたは、あと少しで卒業なんですよ。もうちょっとだけ頑張れませんか?」

 今度はなだめるような、落ち着いた声が聞こえる。

「嫌だよ、もう生まれ変わりたくない。誰も信用できない……! 人間が怖い……」

 語尾は悲し気な声色に変わり、そのまま聞こえなくなった。


「――辛い、辛い、人間やめたい。いなくなりたい。今すぐ消えたい」

 今度は後ろから、無機質な女性の声が聞こえた。

「……そうですか……そしたら動物に生まれ変わりますか?」

「やだやだ、生きるのが嫌。面倒だし、もう死にたい」

「いや、あなたもう死んでますけど……」

「生きてたって辛いだけだし、ご飯食べるのもだるい。ずっとここで動画見て過ごしたい」

 困っているような声と、感情を失った声。

 二人いるはずのその姿も、聖には見えなかった。立ち止まって耳を澄ますと、そんな会話が周囲から聞こえてくる。

 激昂する声。吐き出すような怨嗟えんさの声。かと思えば、すすり泣きも聞こえてきた。それをひたすら、なだめるような誰かの声。

 周囲は白霧に包まれて、とてつもなく空気が悪い。


「何だここ、すっげぇ怖いんだけど。天国じゃないのか? ひょっとして地獄?」

 自分の言葉に不安になる。本当に地獄に落ちたのだろうか。

「ええ……オレってそんなに悪党だったか? それに、地獄って地の底にあるんじゃねぇの? ここ、雲の上じゃないのかよ」

 一人でブツブツと呟いていると、背後から声がかかった。

「地獄はこんなものじゃありませんよ。こんにちは」

「うわぁっ!」

 驚いて振り返ると、そこには女の子がいた。

 全体的にぼんやりと光っていて、普通の人間とは思えない。頭に沈丁花の飾りをつけている。動くと花から光が零れて、粉雪を散らしたように美しい。

「えっ……あ、こ、こんにちは」

 聖が緊張しながら挨拶を返すと、女の子はにこりと笑った。可愛いな。そう考えていると、彼女は続けてこう言った。

「初めまして。ここは天国に入る前の、受付となります」

「……うけつけ?」

「地上と天国の間です。幽明ゆうめいの境っていうんですよ」

 雲の隙間にでもあるのだろうか、それにしては空気が薄くない。聖が辺りを見回していると「わたしは、天使のフィオーレと申します」と会釈をした。小柄で若い外見だが、大人びた口調が神秘的な印象を与えている。

 頭を下げる彼女に、聖も慌ててそれにならった。

「あっ、はい。オレは……ええと、あれ……」

 言葉が詰まる。自分の名前が思い出せない。

「早川聖さん」

 呼ばれて心臓が小さく跳ねた。胸に手を当てると、僅かに脈打っている感覚がある。

 生きているような感覚に深く息を吸い込むと、フィオーレは言葉を続けた。


「あなたは、殺人事件に巻き込まれて亡くなりました」

 言われて固唾を飲む。やはり自分は死んだのだと知らされて項垂れると、靴下のままの自分の足が見えた。

 何があったのか、さっぱり思い出せない。頭を振ると、やはり鈍く痛む。

「ご自分のことは、どこまで思い出せますか? 幽明の境に来たばかりの頃は、魂が肉体から離れたショックで記憶が曖昧になることが多いんですよ」

「……えっと、自分が倒れている姿が見えました。それ以前の事は……あんまり……」

 どこに住んでいて、どんな人間だったのか、さっぱり思い出せない。

「あなたは千葉県に住んでいました。一人、とても仲の良い友人がいます。最近はペットを飼い始めたんですよ」

「……そう、ですか」

 言われてもピンとこない。それなのに胸がチクリと痛んだ。死んでいても身体が痛むなんて、想像とは違う。生きている時と大して変わらない気がした。

「落ち着くまで、そこで休んでいて下さい。思い出したら声をかけてくださいね」

 彼女が指した場所を見ると、紙コップが出てくるタイプの自動販売機があった。

「……はい。分かりました」

 歩み寄るが、お金を投入する場所もカードをタッチする部分も無い。カフェオレのボタンを押すと、コトンと軽い音を立てて紙コップが落ちてきた。どうやらお金はいらないらしい。販売機の横にベンチが備え付けてあったので、腰を下ろす。その時はじめて、自分のズボンが汚れてることに気がついた。よく見ると、手もところどころ黒ずんでいる。


「なんだよ。こんな格好じゃ、あいつん家に遊びに行けねぇな……」

 いや、もう行けないのか。死んだから。


 後から追いかけてくる思考に、再び胸が痛む。目を覚ますつもりでカフェオレを口に流し込むと、熱い。いよいよ死んだという感覚が消失していく。

 そして突然、聖は「ああっ!」と大声を上げた。

「思い出しましたか?」

「うわぁ……あっ、なんだよ、もう……」

 思い出した記憶と、急に目の前に出てきた天使の姿に狼狽ろうばいする。手には用紙を持っていた。

「すみません、資料が来ていたので……それよりも、何を思い出したんですか?」

 彼女の言葉に、もう一度我に返る。

「そうだ、オレは……大事なことを忘れてた……! 子猫だ!」

 手にしたカフェオレが零れ落ち、足元を濡らした。

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