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「この病院には屋上庭園がありますよね。どうして今は入っちゃダメなんですか?」
退院する当日、吹喜は若い主治医にそう尋ねてみた。
「ああ、あそこで飛び降りがあったからね」
快活な声でそう言われて、心臓が跳ねあがった。
「えっ……自殺……ですか?」
「いや、落下事故ですよ。お年寄りでね。意識が
冬に見ても美しい庭だった。業者の人が来て、小雨が降っている中で掃除をしていたのを覚えている。もう散策できなくなった庭でも、丁寧に手入れをされていた。患者の目を楽しませるために。少しでも不安や退屈を紛れさせるために。
玲央のことを思い出す。
木の枝に鳥がとまっていると喜んでいた後ろ姿。その頭上に見えた、あの『自殺しない』という『使命』。
退院後もしばらくは近所の病院に通院しないといけないから、紹介状を書いてもらった。先生にお礼を言ってから、秋人が車で迎えに来るのを待つ。その間、外のベンチで一人で病院を眺めていた。冬の空は灰色に沈み込み、宵の時間が迫っている。
ここからじゃ、あの庭は見えなかった。
* * *
「助かりました。送ってくれて、ありがとうございます。秋人さん」
秋人は「いいよ。荷物は運んでおくから、小雪に会っておいで」と言い残して、先に店へと歩いていった。
吹喜は言われたままに、愛犬の顔を見に行くことにした。
桐嶋蕎麦店には店舗とは別に、居住用の建物がある。そこの一階にあるリビングに、小雪の犬小屋があった。赤い屋根の小さなもので、なかにはクッションがひいてある。
小雪は、雑種の白い犬だ。薄い茶色の模様が胸元にあって、とても愛らしい。
玲央や秋人の話だと、吹喜が入院してから元気がなかったようだ。
何年も離れていた飼い主と再会して、ショックで倒れた……という犬の話を聞いた事がある。小雪が倒れたらどうしようかと、少しだけ心配だった。
リビングに向かうと、愛犬はソファの上で眠っていた。
「小雪、久しぶり! おいで」
声をかけると、驚いたように吹喜の姿を見る。飛びついてくるかと身構えていると、小雪は犬小屋に隠れてしまい、出て来なくなった。
吹喜はショックを受けた。
「ねぇ、どうしたの小雪」
悲しみに支配されかけて、犬小屋を覗き込む。まさか自分のせいで、小雪の具合が悪くなってしまったのだろうか……。
それとも私は忘れられてしまったの? そう考えて目頭が熱くなったときだった。
「……くぅ~ん……」
小雪は変な声を出して、腰を抜かしながら犬小屋から出てきた。上目づかいで主人の事を見つめている。目が潤んでいるような気がするが、具合が悪いのだろうか。
「え、ちょっと大丈夫、小雪……ん? えっ?」
小雪の後頭部に、文字列が見えた。例の『使命』だ。
まさか犬にまであるなんて。そう吹喜が驚いたせいか、犬も驚いて目を丸くしている。
しかも、文字はくるくると回っていた。どうして動いているのだろう。注視してみると、『使命:吹喜と家を守ること』とあった。
「えっ……! 可愛い! こゆ……かわいい!」
多幸感が胸に広がった。
抱きしめると激しく尻尾を振り、それから
良かった。忘れられていなくて、本当に……。
しばらく撫で回すと、満足したのかお互いに落ち着いて来た。
「よし、ちょっと行って来るね。あとで散歩に行こう」
吹喜はようやく腰をあげる。
寂しそうにする小雪に後ろ髪を引かれながら店に向かうと、『桐嶋蕎麦屋』と書かれた看板が目に入る。半月しか経っていないのに、ずいぶん長いこと離れていたように感じた。
「ああ、戻ってきたんだね。小雪、喜んでいたろう?」
「はい……」
微妙な気持ちで返事をする。少し移動しただけなのに、妙に疲れた。犬で興奮しすぎたせいだろうか。
背後から店の引き戸を開ける音が聞こえて振り返ると、そこには玲央の姿があった。今年の春から高校二年生になるけれど、いまだに中学生に見える。白いフード付きのパーカーと、明るい色の髪が目立っていた。
「あっ、姉さん! お帰りなさい!」
弟は姉の姿を見て、弾けるような笑顔を見せた。
「いらっしゃい、玲央君」
「こんにちは、秋人さん」
行儀よく挨拶してから、吹喜の向かい側に座る。客が一人もいない。時間帯によってはちゃんとお客さんも入っているが、玲央が来るのは夕方の中途半端な時間だった。いつも
「良かった、ちゃんと退院できたんだね。小雪には会った?」
「うん。会ったよ。心配かけてごめんね」
話していると、厨房から秋人の声がした。「二人とも、好きなものを食べて良いよ。退院祝いっていうわけじゃないけど」と言われてお礼を言う。
「すみません、ありがとうございます」
吹喜は小さくため息をついた。特に何もしていないのに、どんどん疲れが増してきて不安になってくる。歩いたり話すことがこんなにも負担に感じるなんて。
「じゃあ、私は月見蕎麦をお願いします」
「僕もそれで……」
玲央はそう言ったあと、玲央は姉の顔色を
「姉さん、もう大丈夫なんだよね」
「うん。しばらくは自宅療養って言われたけど、平気だよ。ありがとう」
強がった。吹喜が入院した時に、二人が泣いていたのを思い出す。
何で泣いているのか、その時は分からなかった。医者から「覚悟してください」と言われていたと、後から聞いた。
「ごめんね」
厨房の奥にいる秋人の姿を見ると、黙々と蕎麦を茹でている。ずいぶん心配をかけてしまったようで心苦しかった。
「玲央はどう? 学校は楽しい?」
改めて頭上を見ると、使命は変わっていない。顔を見るたび確認しているが、固定されたかのように動かない。秋人や小雪の文字はおかしな動きを見せるというのに。
「うん。大丈夫だよ」
姉からの質問に、子供っぽい笑顔で答えた。
「家の方は、問題ない?」
「……うん……」
玲央は家の話になった途端、気まずそうにしてから小さく頷いた。その仕草が幼くて、会った時のことを思い出す。
八年前。玲央の父親と吹喜の母親が結婚して、ふたりは義姉弟となった。
吹喜は義理の父親と仲が悪く、一年前に追い出されるような形で実家を出た。
そんなせいもあって、母一人が一度だけ、義父に内緒でお見舞いに来た。入院の費用にしてほしいと、お金が入った封筒を娘にこっそりと渡すために。
あの人には、言わないでね。そう言いながら。
彼女の頭上には、なにもなかった。
ただ、文字の残骸のようなものがあっただけだ。
「……姉さん。見て」
玲央が、カウンターの横にあるレジを指さした。そこには小さなクリスマスツリーが置いてある。
「百円ショップで買ったんだ。もうちょっとでクリスマスだよ」
「玲央が置いたの? 蕎麦屋には合ってないけど……季節感があっていいんじゃないかな。ねぇ、秋人さん」
蕎麦を持ってきた秋人に、吹喜は話しかけた。
「そうだね。できたよ。二人共」
ことん、と軽い音がした。良い匂いがする。
「ありがとうございます……玲央?」
玲央が黙っていたので、吹喜と秋人は同時に彼の顔を見た。泣きそうな顔をしていたように見えて、秋人が声をかける。
「どうしたの? 玲央君。具合でも悪い?」
「ううん」
秋人の問いに、玲央はゆっくりとかぶりを振る。
「ありがとう、秋人さん。いただきまーす」
明るい声でそう言ってから、小さな声で呟いた。
「姉さん……僕、早く大人になりたいな」
「そうだね。なれるよ、すぐに」
そう言って、いつもより乱暴に頭を撫でると、玲央は仔犬のように目を細めた。
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