3

「この病院には屋上庭園がありますよね。どうして今は入っちゃダメなんですか?」

 退院する当日、吹喜は若い主治医にそう尋ねてみた。

「ああ、あそこで飛び降りがあったからね」

 快活な声でそう言われて、心臓が跳ねあがった。

「えっ……自殺……ですか?」

「いや、落下事故ですよ。お年寄りでね。意識が朦朧もうろうとしていて、落ちて怪我をしてしまったんです。それで危ないから閉鎖したんですよ」

 冬に見ても美しい庭だった。業者の人が来て、小雨が降っている中で掃除をしていたのを覚えている。もう散策できなくなった庭でも、丁寧に手入れをされていた。患者の目を楽しませるために。少しでも不安や退屈を紛れさせるために。


 玲央のことを思い出す。

 木の枝に鳥がとまっていると喜んでいた後ろ姿。その頭上に見えた、あの『自殺しない』という『使命』。


 退院後もしばらくは近所の病院に通院しないといけないから、紹介状を書いてもらった。先生にお礼を言ってから、秋人が車で迎えに来るのを待つ。その間、外のベンチで一人で病院を眺めていた。冬の空は灰色に沈み込み、宵の時間が迫っている。

 ここからじゃ、あの庭は見えなかった。


   * * *


「助かりました。送ってくれて、ありがとうございます。秋人さん」

 秋人は「いいよ。荷物は運んでおくから、小雪に会っておいで」と言い残して、先に店へと歩いていった。

 吹喜は言われたままに、愛犬の顔を見に行くことにした。


 桐嶋蕎麦店には店舗とは別に、居住用の建物がある。そこの一階にあるリビングに、小雪の犬小屋があった。赤い屋根の小さなもので、なかにはクッションがひいてある。

 小雪は、雑種の白い犬だ。薄い茶色の模様が胸元にあって、とても愛らしい。


 玲央や秋人の話だと、吹喜が入院してから元気がなかったようだ。

 何年も離れていた飼い主と再会して、ショックで倒れた……という犬の話を聞いた事がある。小雪が倒れたらどうしようかと、少しだけ心配だった。

 リビングに向かうと、愛犬はソファの上で眠っていた。

「小雪、久しぶり! おいで」

 声をかけると、驚いたように吹喜の姿を見る。飛びついてくるかと身構えていると、小雪は犬小屋に隠れてしまい、出て来なくなった。

 吹喜はショックを受けた。

「ねぇ、どうしたの小雪」

 悲しみに支配されかけて、犬小屋を覗き込む。まさか自分のせいで、小雪の具合が悪くなってしまったのだろうか……。

 それとも私は忘れられてしまったの? そう考えて目頭が熱くなったときだった。

「……くぅ~ん……」

 小雪は変な声を出して、腰を抜かしながら犬小屋から出てきた。上目づかいで主人の事を見つめている。目が潤んでいるような気がするが、具合が悪いのだろうか。

「え、ちょっと大丈夫、小雪……ん? えっ?」

 小雪の後頭部に、文字列が見えた。例の『使命』だ。

 まさか犬にまであるなんて。そう吹喜が驚いたせいか、犬も驚いて目を丸くしている。

 しかも、文字はくるくると回っていた。どうして動いているのだろう。注視してみると、『使命:吹喜と家を守ること』とあった。

「えっ……! 可愛い! こゆ……かわいい!」

 多幸感が胸に広がった。

 抱きしめると激しく尻尾を振り、それからせきを切ったように主人の顔を舐め始めた。いつもの小雪だ。彼は吹喜が大好きで、毎日顔を合わせているのに、帰宅するときは毎日が感動の再会だった。

 良かった。忘れられていなくて、本当に……。

 しばらく撫で回すと、満足したのかお互いに落ち着いて来た。

「よし、ちょっと行って来るね。あとで散歩に行こう」

 吹喜はようやく腰をあげる。

 寂しそうにする小雪に後ろ髪を引かれながら店に向かうと、『桐嶋蕎麦屋』と書かれた看板が目に入る。半月しか経っていないのに、ずいぶん長いこと離れていたように感じた。


「ああ、戻ってきたんだね。小雪、喜んでいたろう?」

「はい……」

 微妙な気持ちで返事をする。少し移動しただけなのに、妙に疲れた。犬で興奮しすぎたせいだろうか。

 背後から店の引き戸を開ける音が聞こえて振り返ると、そこには玲央の姿があった。今年の春から高校二年生になるけれど、いまだに中学生に見える。白いフード付きのパーカーと、明るい色の髪が目立っていた。

「あっ、姉さん! お帰りなさい!」

 弟は姉の姿を見て、弾けるような笑顔を見せた。

「いらっしゃい、玲央君」

「こんにちは、秋人さん」

 行儀よく挨拶してから、吹喜の向かい側に座る。客が一人もいない。時間帯によってはちゃんとお客さんも入っているが、玲央が来るのは夕方の中途半端な時間だった。いつもいた店と思われていそうだ。

「良かった、ちゃんと退院できたんだね。小雪には会った?」

「うん。会ったよ。心配かけてごめんね」

 話していると、厨房から秋人の声がした。「二人とも、好きなものを食べて良いよ。退院祝いっていうわけじゃないけど」と言われてお礼を言う。

「すみません、ありがとうございます」

 吹喜は小さくため息をついた。特に何もしていないのに、どんどん疲れが増してきて不安になってくる。歩いたり話すことがこんなにも負担に感じるなんて。

「じゃあ、私は月見蕎麦をお願いします」

「僕もそれで……」

 玲央はそう言ったあと、玲央は姉の顔色をうかがううように、首を傾げた。

「姉さん、もう大丈夫なんだよね」

「うん。しばらくは自宅療養って言われたけど、平気だよ。ありがとう」

 強がった。吹喜が入院した時に、二人が泣いていたのを思い出す。

 何で泣いているのか、その時は分からなかった。医者から「覚悟してください」と言われていたと、後から聞いた。

「ごめんね」

 厨房の奥にいる秋人の姿を見ると、黙々と蕎麦を茹でている。ずいぶん心配をかけてしまったようで心苦しかった。

「玲央はどう? 学校は楽しい?」

 改めて頭上を見ると、使命は変わっていない。顔を見るたび確認しているが、固定されたかのように動かない。秋人や小雪の文字はおかしな動きを見せるというのに。

「うん。大丈夫だよ」

 姉からの質問に、子供っぽい笑顔で答えた。

「家の方は、問題ない?」

「……うん……」

 玲央は家の話になった途端、気まずそうにしてから小さく頷いた。その仕草が幼くて、会った時のことを思い出す。

 八年前。玲央の父親と吹喜の母親が結婚して、ふたりは義姉弟となった。

 吹喜は義理の父親と仲が悪く、一年前に追い出されるような形で実家を出た。

 そんなせいもあって、母一人が一度だけ、義父に内緒でお見舞いに来た。入院の費用にしてほしいと、お金が入った封筒を娘にこっそりと渡すために。

 あの人には、言わないでね。そう言いながら。

 彼女の頭上には、なにもなかった。

 ただ、文字の残骸のようなものがあっただけだ。


「……姉さん。見て」

 玲央が、カウンターの横にあるレジを指さした。そこには小さなクリスマスツリーが置いてある。

「百円ショップで買ったんだ。もうちょっとでクリスマスだよ」

「玲央が置いたの? 蕎麦屋には合ってないけど……季節感があっていいんじゃないかな。ねぇ、秋人さん」

 蕎麦を持ってきた秋人に、吹喜は話しかけた。

「そうだね。できたよ。二人共」

 ことん、と軽い音がした。良い匂いがする。

「ありがとうございます……玲央?」

 玲央が黙っていたので、吹喜と秋人は同時に彼の顔を見た。泣きそうな顔をしていたように見えて、秋人が声をかける。 

「どうしたの? 玲央君。具合でも悪い?」

「ううん」

 秋人の問いに、玲央はゆっくりとかぶりを振る。

「ありがとう、秋人さん。いただきまーす」

 明るい声でそう言ってから、小さな声で呟いた。

「姉さん……僕、早く大人になりたいな」

「そうだね。なれるよ、すぐに」

 そう言って、いつもより乱暴に頭を撫でると、玲央は仔犬のように目を細めた。

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