2
弟が死んでしまう夢を見た。
泣いている玲央は、木の箱に詰められて、崖の上から落とされた。
あれは自殺なんかじゃない。殺されている。
これは夢だ。そう思ったときに翼が見えた。
……鷹……いや、鷲だろうか。体躯の大きいその鳥は、羽根を広げると大きく鳴いた。高くて美しい、笛のような音色だった。
――そこで目が覚めた。
カーテンの隙間から柔らかな光が滲んでいる。朝方かと思ったが、どうも夕方のようだ。閉じた窓の向こう側に細身のカラスがいる。夕暮れの気配が辺りを包んでいた。
腕の痛みに目をやると、点滴から血が逆流している。透明な管が真っ赤になり、薬のパックにまで流れ込んでいた。
ナースコールを押して看護婦に来てもらい、点滴を直してもらう。その後は、しばらく鳥たちの声を聴いていた。この病室は四人部屋で、各ベッドが大きなカーテンで仕切られている。個人のスペースが確保できて気分が良い。もうじき夕飯だと、そんなことを考えていると声をかけられた。
「吹喜君」
驚いて首を巡らせると、人影が見えた。
「ごめん、遅くなっちゃったね。車が混んでいて……」
穏やかな声と共に、ベージュ色のカーテンがめくられた。黒髪がさらりと揺れる。
「いえ……いつも遠くまで申し訳ないです、秋人さん。店のほうは大丈夫ですか?」
「気にしないでいいよ。そんなに流行ってるわけでもないし、隠れ家的な店だからね」
言いながら、黒いコートをベッドの手すり部分にかけて、折りたたみ椅子に座る。白いシャツにグレイのニットベスト。着こなしが難しいチョイスだが、よく似合っていた。
「持ち家でローンもないし、生活もできるから。心配しないで、早く良くなってね」
「……ありがとうございます」
吹喜は、秋人の頭上をちらちらと見ながら礼を言う。気遣ってくれるのは嬉しいが、秋人の頭の上の『文字』が気になって仕方がなかった。
蕎麦屋なのに、『使命:小説家』と書いてあるのだ。
どこかで道を間違えたのだろうか。それとも、これから小説家になるのだろうか。
そうも考えたが、そんな気配は全然なかった。
秋人は、一見読書家のようにも見える。蕎麦屋の休憩中にはいつも歴史や園芸、料理などの雑誌を読んでいる。少しだが漫画もある。客用に店に置いてあるものだ。それ以外だと、吹喜が持ってきた生物や健康関係の本も読んでいた。
けれど、小説を読んでいる姿を見たことがない。
「秋人さん。私の本棚から、適当に小説を持ってきてもらってもいいですか?」
「分かったよ。なんでもいいの?」
「秋人さんの好きそうなやつでいいです」
そう言うと目線を逸らせて、独り言のように呟いた。
「小説か。あまり読まないからな……」
彼がそう言った途端、
「なにっ……?」
「え? どうしたの?」
「あっ、いえ、なんでもないです。それよりさっきの話ですけど……小説、面白いですよ。秋人さんも読んでみます?」
冗談っぽくそう言うと、彼は急に難しい顔になる。
「……いや、小説は苦手なんだ」
思いもよらない返事に頭上を確認すると、文字は薄くなり、端が消えかけていた。
「こわっ……何……」
つい呻き声のようなものを出してしまう。それはとても怖いもののように感じた。
「吹喜君、さっきからどうしたんだ? 具合でも悪いのか?」
焦ったような秋人の声に、我に返った。
「いや、そういうのじゃないです。すみません」
もうこの話はやめようと、吹喜は手を振る。すると秋人は考えるような姿勢をとり、小さく呟いた。
「……君が言うなら、読んでみようかな。何の本がお勧めかな」
「あっ、じゃあ『シュメール殺人事件』と『地獄のバスツアー』って本が面白いですよ」
吹喜が返事をするや否や、秋人の頭上の『使命』がまるで生き物のように輝きだした。おかしなことだが、文字が喜んでいるようにも見える。
「ふふ、君はそんな本を読むんだね。シュメールって、なんかあれだろ、目の大きい奴。メソポタミア文明だっけ。なかなか面白そうじゃないか」
秋人は口元に手を当てて笑っている。いつもの穏やかな彼に戻っていた。
***
寝る前に、歯を磨きに起き上がった。
夜の病院は怖いなんて話をよく聞くけれど、この病院は真新しいせいかそんな風には感じない。病室の入り口付近に、共通の洗面台が備え付けてある。大きな鏡が目の前にあるが、自分の頭上を見ても『使命』の文字は消えていない。
死なないこと、か。
もう症状は良くなっているのに、どうしてまだそんなことを言われなければいけないのだろうか。もう身体を壊したくはなかった。
気を付けないとな、と思いながら歯を磨く。秋人のように将来の夢が見えればいいのに。
いや、あれは果たして夢なのだろうか? 本人が望んでいるわけではないのに。
何故それをやらなければならないのだろうか。ひょっとしたら秋人には、素晴らしい文才があるのかもしれない。
気付いてさえもいない夢。そんなものが人生にはあるのだろうか。
けれど、玲央のは夢でもなんでもない。忠告だ。
彼は夢を見ることもできない状態なのだろうか。
今のところ、玲央に悩みがあるような様子はない。言わないだけで何か抱え込んでいるんじゃないかと気にしていたら「姉さん、なんか変だよ。まさか後遺症なんて残らないよね?」と逆に心配された。
仕方がないので様子を見ることにしている。
「そもそもなんで頭の上に文字が見えるのかな……」
自分にしか聞こえないほどの小さな声で、そう呟いた。
酸素が行っていなかったせいで脳に深刻なダメージでもあったのかと考えたが、脳波に異常はなかったはずだ。
寝る前に体温を測ったら、微熱があった。氷枕をもらったので、布団の中に潜り込んで頭をのせる。冷たくて気持ちがいい。外は寒いだろうが、病室は暖かかった。
もうじき退院できそうだと、就寝前の検診で言われている。
もっと早く本を持ってきてもらえば良かった。そうすれば秋人の頭上の文字も喜んだかもしれない。
そんな意味の分からないことを考えながら、吹喜は眠りについた。
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