1.小鳥遊吹喜

「うあっ」

 身体がびくりと跳ねた。

 夢を見た記憶はないが、びっしょりと寝汗をかいている。

「うう……頭が痛い……」

 起き上がってから首を振ると、変な音がした。

 病室の窓の向こうには夕暮れが見える。吹喜は、気管支炎喘息で入院していた。

 髪はもう何日も洗っていないが不思議と匂わなかった。点滴ばかりで食事を摂らず、ほとんど眠って過ごしているせいだろうか。

 タオルで身体を拭こうと、酸素カニューレを取り外して上着を脱いだ。寝込んでいるせいで身体が固まってしまい、腕が回せない。うまく身体が拭けない。

 首を巡らせると、ベッドの横に車椅子が置いてあるのが見えた。ようやく集中治療室から出てこれたのに、なかなか自分の足で歩くことができない。


 ――小鳥遊さんは、五日間寝込んでいる間、生きるか死ぬかが五分五分だったんですよ。

 そんなことを後から医者に聞かされた。ひょっとしたら本当に雲の上に行っていたのかもしれない。


「……姉さん、起きてる?」


 ちょうどパジャマを着なおした時に、弟がカーテンの隙間から顔を覗かせた。

「起きてるよ」

 吹雪は静かに答えるが、まだ寝ぼけていた。子供のころのかくれんぼを思い出す。うわー見つかっちゃったー、なんて演技をした記憶がある。今思うと白々しいのだが、子供のころはそれで良かった。弟はその言葉を信じて、姉を見つけた誇らしさに笑顔を浮かべていたから。

玲央れお。毎日来なくてもいいんだよ」

 小鳥遊玲央。高校一年生になるが、あどけない顔立ちは中学生のようだ。

「気にしないでよ。病院は暖かいし、暖房目当てで来てるだけだから」

 嘘だとすぐに分かる。この病院までは、バスを乗り継いで来ているのだから。移動している間のほうがよっぽど寒いだろうに。

「そうだ。秋人あきとさん、六時半くらいに来るって」

 下宿先の蕎麦屋の店長の名前が出て、吹喜は申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「忙しいのに、悪いなぁ……」

「秋人さんも心配してるし、小雪も待ってるよ。姉さんがいないと寂しそうだよ」

 今度は愛犬の名前が出た。早く家に戻りたいという思いが募る。

「うん……早く、退院するようにするね」


 姉がそう答えると、満足そうに頷いて、玲央は背中を向けた。窓の外を眺めている。

 階下には庭園が見える。様々な野鳥が姿を見せ、冬でもなお美しい。庭園には出れないのかと聞いてみたが、危ないとの理由で入れなくなっているらしい。

 昔は自由に歩けたようなのだが。

 窓のガラス越しに、白い水彩絵の具を溶かしたような雲が見えた。薄い雲を近くで見たような記憶がわずかにくすぶったが、頭が痛むだけだった。

 玲央の後頭部をぼんやりと眺める。電車とバスを乗り継いでいるのだ。ここまで来るのも大変だったろう。

 学生服姿のままだった。柔らかそうな髪は、日の光を受けて明るく映る。

「窓って、開けちゃダメなんだっけ?」

「ダメだよ」

 残念だなとつぶやくと、玲央はまだ窓の外を見ている。


 その頭の上に、文字が見える。

 夕焼けに透けるような、半透明の『文字』が。

 入院してから――生死の境を彷徨ってから、吹喜は、人の頭の上に不思議な文字が見えるようになった。

 主治医、看護師、隣の患者。

 そして、弟の頭上に『文字』が見えたとき、吹喜は慌てて『それ』を取り上げようとした。やはり自分の時と同じように、その手は虚しく宙を切り、弟を心配させただけだった。

 自分の使命は『死なないこと』。

 弟の使命は、『自殺しないこと』だった。

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