コトノハと幽明

天月風花

0.プロローグ

 はじめにが見えたのは、主治医だった。

 入院中のことだった。

 主治医の頭の上に『使命:医者』と見えたのだ。その時はまだ人工呼吸器をつけていて、口がふさがっていたので、何も言えなかった。この病院にはおかしな慣習があって、頭の上に透明なプラスチック板をつけて自己紹介をしているのかと思っていた。

 おかしな病院だけど、使命だなんてずいぶんと情熱的だ。

 医者としては良いのかもしれない。


 次に、いつも来る看護師さんの上にそれが見えた。彼女の頭の上にあった文字は『使命:お嫁さん』だった。


 疑問を感じた。看護師じゃないのか、と。


 それからは、ほかの人達――看護師や患者の頭の上にも様々な文字が見えることに気がついた。となりの患者は『使命:教師』で、向かいの患者は『使命:食品関係』だった。


 そして、自分の頭上に『文字』が見えたとき、小鳥遊吹喜たかなしふぶきは自分の頭に手をやった。しかし触れることはできず、はじめてその文字が自分にしか見えない不思議なものだということに気が付いた。


 淡い髪色に、耳よりも長めのショートボブ。その上に見えた文字は――。

 『使命:死なないこと』だったのだ。


   * * *


 気管支炎喘息が命に関わるような病気だとは知らなかった。

 五日間ずっと集中治療室にいて、ようやく普通の病室に移った今でも意識がはっきりとしない。まだ脳に酸素を送ることができず、鼻に酸素カニューレという細い管を差し込まれていた。

 そこから出る酸素は温かく、まるで雲の上にいるような気分だった。ふわふわと視界がかすむ。

 ……生き物は、死ぬと雲の上に行くんだっけ。

 そんな漠然としたイメージしかないものだから、死にかけても自分がどこにいるのか分からない。

 雲は真っ白で、思ったよりも固い。

 横たわったまま首を巡らせると、となりには女の子が覗き込む格好で自分を見ていた。

「ああ、やっと目覚めましたね」

 彼女は天使なのだろうか。髪が空色だし、とても可愛い外見だ。

 病院のベッドにいたはずなのに……。

 ついに私にもお迎えが来てしまったのか。困るな、まだ死にたくないのに。そう考えていると、女の子は「あなた、まだ死んでいませんよ」と告げてきた。

 良かった。安心した。

 飼っている犬だって悲しむし、下宿先の店長にも迷惑がかかるし、自分を頼りにしていた弟は泣いてしまうかもしれない。バイト先で仲良くしている後輩だって、きっと悲しんでくれるだろう。

 そう考えたときに、思ったよりも自分は幸福なのだと感じた。

「あなたのお名前は言えますか?」

 そう尋ねられて、何も思い浮かばないことに気がつく。

 ……分からない。私の名前……なまえ……?

 なまえってなんだっけ。

 思索していると「わんわん!」という犬の鳴き声が聞こえた。続いて「吹喜君」という声が耳に届く。

 下宿先の店長だ。

「ふぶき……」

 自分の声が遠く感じたが、小鳥遊吹喜という名前だったことを思い出す。

「思ったよりも意識がしっかりしていますね。これならすぐに戻れます」

 熱を測るような仕草、額のあたりを軽く撫でられた。

 ……おかあさんみたいだ。

 けれど、自分の母には似ていない。こんなに優しく撫でられたのは初めてかもしれない。

「あなたは――……だから、ギフトがもらえますよ。良かったですね。それでは、お気をつけてお戻り下さい」

 聞き取れなかったの部分が気になる。大事なことなんじゃないだろうか。

 そう考えたのも束の間、寝転んでいた雲がすっぽりと抜け落ちた。

 そうして、彼女は地上へと落下していった。

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