第二章 目覚める闇の力──奇妙な符号

 翌朝、アルトは薄暗い森の中を歩んでいた。昨晩は近くの岩陰で野営し、冷えた風の中、身体を丸めて眠った。かつては仲間たちとの冒険でテントや焚火、暖かい毛布が当たり前だったが、今は一人旅。資金は乏しく、なるべく節約せねばならない。

 「昔は、もう少し恵まれていたはずなんだがな……」

 独り言の声が木々に吸われる。この森は特に危険があるわけではない。鳥のさえずりが聞こえ、木洩れ日が差し込み、足元にはシダが柔らかく広がっている。けれど、その静けさの裏に微かな違和感があった。


 アルトは歩を進めながら、ふと、自分の影が揺らめくのを感じた。

 「……?」

 朝日を受けているはずの影が、少しずつ長く、そして濃くなっている。奇妙だった。通常、影は太陽の位置で決まる。朝なら西側に伸びるはずが、足元で黒い染みが円状に滲むような、不吉な広がりを見せていた。

 アルトは足元に視線を落とす。そこには確かに、自分の体勢とは関係なく、闇が揺蕩(たゆた)っているように見えた。

 「おかしい……」

 試しに一歩動くと、影も動いたが、形が微妙にゆがんでいる。その瞬間、軽い眩暈(めまい)が襲い、アルトは木にもたれかかった。頭がズキリと痛み、耳鳴りがする。

 「なんだ……具合が……」

 視界の端で、黒い鳥の影がちらついた気がした。昨日見た、あの奇妙な鳥。まさか、あれが何か影響を? 思考が定まらぬまま、世界がぐらりと揺らぎ、意識が白濁していく。


 ――気がつくと、アルトは見知らぬ場所に立っていた。

 視界には荒野が広がり、遠くには血のような赤い月が浮かぶ黒い空がある。木々は枯れ、地面には骨のような形をした岩が並び、風は低くうめいていた。

 「ここは、どこだ?」

 声が反響する。その声は、まるで地下墓所の中で響く足音のように冷たい。

 振り返ると、そこには朽ち果てた玉座が見えた。漆黒の柱が支え、闇の簾(すだれ)がかかったような空間。その玉座は、かつて魔王が座していたものに酷似していた。


 「アルト・グランフォード……」

 低く、響く声。

 アルトは背筋を伸ばす。その声はどこから響いてくるのか、見当もつかない。

 「誰だ、出てこい!」

 荒野には誰もいない。ただ風だけが鳴る。しかし、声は止まない。

 「お前は魔王を殺した。ならば、お前が新たな『魔王』となる定めだ」

 嘲笑混じりの声が、頭蓋骨を内側から掻きむしるように響いた。

 アルトは身構えた。「何を言っている。俺は魔王を倒した英雄だ。魔王になどなるはずがない!」

 「世界は均衡を求める。魔王という歯車を失った今、新たな歯車が必要なのだ。それが、お前だ、アルト」

 声は淡々と言葉を紡ぐ。アルトの胸の内がざわつく。嫌な汗が背中を伝い、心臓が不快な鼓動を刻む。


 その時、玉座の背後から人影が現れた。黒いローブに身を包み、顔は深いフードに隠れている。手には奇妙な紋様が刻まれた短杖が握られていた。その紋様には、かつて魔王城で見た闇の魔術師が用いていた印に似たものがある。

 「お前は……」

 アルトが問いかけると、その人影はククク、と含み笑いを漏らした。

 「今はまだ名を名乗る時ではない。ただ、お前が世界に必要な存在であることを伝えに来たに過ぎぬ。」

 人影は指をひとつ鳴らした。すると荒野の景色がゆっくりと溶け、まるで水面に投じた石のように波紋を起こす。アルトの足元には黒い泥のような闇が広がり、それがズルズルと引きずり込むように動く。


 「待て!」

 アルトは叫び、足を踏ん張ろうとするが無駄だった。視界が闇に染まり、再び意識が遠のく。


 ――次に目を開けた時、アルトは森の中に倒れていた。

 陽はやや高くなり、朝の冷気が少しずつ温んでいる。先ほどの荒野や玉座は幻覚だったのか? 何か悪い夢を見たような気配があるが、現実感もあった。

 体を起こすと、まだ頭痛が残っている。

 「あの声……いったい何だったんだ?」

 胸に湧いた不安をかき消すように、アルトは立ち上がる。足元の影は、もう普通の形に戻っているようだ。

 あの幻がただの悪夢ならいいが、直感が告げている。あれは警告だと。自分が、知らず知らずのうちに闇に近づいている証なのだろうか?


 アルトは、とりあえず森を抜けることにした。次に目指すのは、比較的大きな街だという『フィオルタの集落』。ここは旧来の商隊ルート上にあたるが、魔王討伐後は人の流れが滞っていると聞く。

 ひとまず人里に出れば、何か情報が得られるかもしれない。それに、奇妙な現象が増えているなら、噂話や旅人からの伝聞で手がかりがつかめるはずだ。


 歩き続けること数時間。やがて、森の出口が見え、視界が開けた。遠くには低い丘が連なり、その向こう側に煙が立ち昇っているのが見える。あれがフィオルタの集落だろうか。

 アルトは喉の渇きを覚え、水筒を取り出して一口飲む。森の冷えた空気から開放され、少しだけ気分が安らぐ。


 * * *


 フィオルタの集落は、かつては大陸間交易で栄えた小都市だったが、現在は活気が薄らいでいた。古い石畳の道にはひび割れが走り、木造の家々は軒を連ねるものの、店先にはわずかな品物しか並んでいない。

 「ここも……か。」

 アルトはため息混じりに歩く。人影はまばらで、道端には旅人らしき者が数人、疲れた顔で腰を下ろしている。その中に、ローブをまとった男がアルトに気づき、声をかけてきた。

 「おや、旅人かい? ここへは何をしに来たんだ?」

 ローブの男は壮年で、手には魔法使いがよく持つ短い杖がある。その杖には、動物を象った彫り物が施されていて、アルトは一瞬、先ほどの幻に出てきた短杖を思い出した。しかし形はまったく違う、こちらは穏やかな森の精霊を象ったもののようだ。

 「少し情報を集めたいと思ってな。この辺りで何か妙な噂はないか?」

 アルトがそう尋ねると、男は少し顔を曇らせ、周囲を警戒するように視線を巡らせた。

 「……最近、この辺りでは、夜になると奇妙な光が森に差し込むんだ。青白く揺れる光が飛び回る、まるで精霊でも出たかのようにな。その光を見た旅人は、翌朝には姿を消しているという噂があってな。」

 「行方不明になるのか?」

 「そうさ。まるで闇に呑まれるかのように消えるって話だ。あと、聞くところによると、王都の近くじゃ変死体がいくつか見つかったらしい。血が抜かれていたとか……実に気味が悪い。」

 男は低い声で続ける。「魔王が倒れて、本来なら平和になるはずだったのに、この世には奇妙な異変が増え続けているように思える。まるで、魔王の残滓がくすぶっているみたいだ。」

 アルトは唇を噛む。自分が目にした幻も、その一端なのだろうか? 魔王の残滓、あるいは新たな魔王の芽吹き。それが世界を脅かし始めているのかもしれない。


 「そういえば……」とローブの男が付け足す。「最近、黒いローブを纏った怪しい者たちが、密かに集会を開いているらしい。何かの儀式か、禁断の魔術を行っているとか。真相は分からんが、不安な話ばかりだ。」

 アルトは礼を言い、ローブの男から離れた。これで確信めいたものが生まれたわけではないが、異変が各地で起きていることだけは確かだ。


 広場の中央には古めかしい噴水があり、水は濁り、コケがこびりついている。その噴水の縁に座り込んでいる少年がいた。まだ幼いが、着ている服は汚れ、頬はこけている。

 「おじさん、何か食べるもの、持ってない?」

 少年が潤んだ瞳で尋ねる。アルトは苦い顔をする。自分もあまり余裕はないが、何か渡せるものは……と荷物を探る。乾パンが少し残っていた。これを少年に差し出すと、少年は一瞬迷ったが、大切そうに受け取った。

 「ありがとう……」

 頬張る少年を見つめながら、アルトは胸に重い塊を抱える。魔王がいなくなれば、皆が笑って暮らせると思っていた。それなのに、飢えた少年がいる。活気を失った集落がある。

 「これは、いったいどういうことなんだ……」

 弱い者たちが救われないまま苦しんでいる。魔王がいた頃の恐怖よりマシなのかもしれないが、幸せとは言い難い現状がある。


 アルトは集落をもう少し歩いて、宿屋らしき場所を見つけた。木製の看板が裏返って掛かっているが、扉は開いている。中へ入ると、薄暗い大広間とカウンターがあり、痩せた中年の女性がいた。

 「部屋を頼めますか?」

 女性は微かに笑って頷く。「一晩一銀貨でいいよ。今は客も少ないからね。」

 アルトは銀貨を差し出し、鍵を受け取る。荒れた街道と貧しい村、そしてこの活気を失った集落。すべては、魔王を失った後の世界で不安定な状態が続いている証拠なのか。

 部屋に入り、簡素なベッドの上に腰を下ろす。疲れが溜まっている。

 「あの幻覚で聞いた言葉……『お前が新たな魔王になる』。冗談じゃない。俺は魔王なんかにはならない。」

 口に出して否定してみるが、不安は拭えない。


 夜更け、窓の外を覗くと、淡い月光が歪んで見えた。まるで月が黒い紗に包まれているような不吉な光景。

 アルトは剣に触れる。かつて魔王を貫いた剣「ヴィルトラヴァ」。その刃は今、布に包まれているが、なお鋭い殺気を孕んでいる。

 「もし、俺の中に闇が芽吹いているのなら……この剣でそれを断ち切ることはできるのか?」

 自問は答えを持たないまま、闇夜に溶けていく。


 眠りにつこうとした時、廊下で何やら足音がした。焦燥したような、何者かが急ぎ足で通り過ぎる気配。アルトは起き上がってドアに耳を当てる。

 声が小さく囁かれる。

 「……黒いローブの集会……今夜……」

 断片的な言葉を拾い上げ、アルトの胸が騒ぎだす。ここにも何かが起きようとしているのか?

 恐る恐るドアを開け、廊下を覗くと、そこにはもう誰もいない。ただ淡いランプの光が揺れている。

 「黒いローブの集会……」

 魔王城で見た闇の魔術師たちの末裔なのか、あるいは魔王の残滓を崇める狂信者か。そんな者たちが暗躍しているとしたら……世界が再び闇に沈むのも時間の問題かもしれない。


 アルトは剣の柄を握り締める。

 「俺が阻止しなければならない。魔王を倒した勇者として……もう一度世界を守らねば。」

 その決意は確かだったが、同時に心の片隅で囁く声がある。

 ――『お前が次の魔王となる』

 その言葉が、まるで蛇が鎌首をもたげるように、アルトの思考を締め付ける。


 床に就きながら、アルトは自分の胸が薄ら寒くなるのを感じた。

 世界を救う勇者としての自分と、闇に魅入られた新たな魔王候補としての自分。その葛藤が、静かに芽を出し始めているように思えてならない。

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2024年12月13日 17:00
2024年12月14日 17:00
2024年12月15日 17:00

魔王を倒した勇者は新たな魔王となった 真島こうさく @Majimax

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