第一章 勇者のその後──寂れた村で

 「今日は、この辺りで休もう」

 アルトは小さな荷車を引きながら、荒れ地の道を歩いていた。かつては名を馳せた大勇者。だが今、彼の装いは素朴な旅人に過ぎない。使い古されたマントに、革製の軽鎧と、磨耗した長靴。腰にはかつて魔王を討ち取った名剣「ヴィルトラヴァ」を帯びてはいるが、その刀身は布で覆われ、柄にも飾り気はない。

 「ここから先は村があるはず。少し休息しよう。水と食料を補給できればいいが……」

 彼は独り言のように呟く。勇者時代の仲間たちは、魔王討伐後、それぞれの道を歩み出した。剣士のガルムは王立騎士団の団長補佐に就任したと聞くし、魔法使いのセリアは王都の魔法塔で研究者となったらしい。弓使いのメリアは故郷の森に帰り、治癒士のリィゼは病院で働いているという。

 では、自分は? アルトは、旅をしていた。理由は、自分でもはっきりとは言えない。ただ、魔王を討ち取って平和になった世界を、この足で確かめて回りたいと思っただけだ。

 しかし、訪れた村や町は、思い描いたほどの平和と繁栄に満ちてはいなかった。人々の顔にはどこか陰りがある。魔物の被害は減ったはずなのに、なぜ人々は笑っていないのだろう? アルトは疑問を抱きつつ、この荒れ果てた道を進んでいた。


 ようやく見えてきた村は、名前も知らない小さな集落だった。木造の家々は軒並み古ぼけ、雨漏りに悩まされているような有様で、畑は荒れ、家畜の鳴き声もまばらだ。

 アルトは荷車を引きながら村の入口へ近づく。すると、痩せこけた老人が杖をつきながら声をかけてきた。

 「旅人さん、ここへは何の用だい?」

 敵意はないが、警戒心が混じる視線。アルトは人懐こい笑みを作り、静かに頭を下げる。

 「少し休ませてもらえればと思っている。水と、できれば食糧を買いたいんだが、あるかな?」

 老人は少し顔を曇らせる。「あいにく、この村は貧しくてねえ。食糧売る余裕はないさ。それでもいいなら、水くらいは出せるかもしれん。」

 アルトは困ったように微笑んだ。魔王を倒した勇者として一度は名声を得た身だが、今はただの旅人。身分を明かせば多少は違うのだろうが、そういうことはしたくなかった。

 「ありがとう。助かるよ。礼は払う。」

 老人は頷き、カタカタと音を立てる井戸へ案内する。

 井戸の水は澄んでいたが、村の雰囲気は湿りがちだ。子供たちは瓦礫のような石ころで遊び、婦人たちはやせ細った牛を世話している。そんな光景を見ながら、アルトは軽くため息をつく。

 「魔王がいなくなって、世界は平和になるはずだった。」

 心の中でそう呟く。

 だが、人々の暮らしは厳しいままだ。この村は魔王時代に酷い略奪を受け、その後遺症が残っているのかもしれない。土地は痩せ、若者は逃げ出し、村には閉塞感が漂っている。

 アルトは、井戸の傍で水筒を満たしながら、ふと背後に気配を感じた。

 「……あんた、旅をしてるのか?」

 声をかけてきたのは、まだ若い男だった。ひどくやつれてはいるが、荒れ地の空気をまとった強い眼差しをしている。

 「そうだ。この大陸を回っている。」

 「何か良い話はないか? 俺たちも、いつまでもこんな貧しい村でくすぶってるわけにはいかないんだ。魔王が倒れたって、あまり変わらない。食えないなら、他所で仕事を探すべきかもしれない。だが、外の世界は本当に平和なのか?」

 問いかけは鋭く、そして痛切だった。アルトは少し言葉に詰まる。魔王が倒れた後の世界を肯定できない自分に気づいていたからだ。

 「王都は……まあ、以前よりは安心して旅ができるようにはなったよ。盗賊団も減ったし、魔物も少ない。ただ、豊かかと言われると、そうでもないかもしれない。王都近辺では、妙な殺人事件が相次いでいると聞くし、辺境では怪しい噂もある。正直なところ、世界が一気に良くなったわけじゃない。」

 青年は苦々しく笑う。「やっぱりな。簡単には変わらねえか。」

 アルトは青年の肩に手を置いて言う。「だが、未来はこれから変えられる。少なくとも、魔王の圧政下で生きるよりはましだろう。俺はそう信じている。」

 青年は何か言いたげだったが、結局何も言わず、ただ村の方へ戻っていった。その背中は重く、暗く垂れ込める雲のようだった。


 水を補給し、アルトは礼として僅かな金貨を老人に渡した。老人は恐縮して受け取り、「また来てくれ」と言うことはなかったが、決して悪い顔はしていなかった。

 村を後にして、アルトは再び草むらを分け入るように進む。進む先の空は群青色で、まるで世界が言葉を飲み込むように沈黙している。

 思い返せば、魔王を倒したとき、自分は世界を救った英雄だった。だが今、自分が目にするものは、救われたはずの人々が疲弊する姿。

 「どうすれば、世界は本当に救われたと言えるのだろうか?」

 アルトは自問し、答えの出ないまま歩を進める。誰も教えてはくれない。王も貴族も、仲間たちも、去ってしまった恋人も。

 日が傾きかけた頃、寂れた道の片隅で、アルトは一匹の黒い鳥が己を睨むように留まっているのに気づいた。その鳥は三つ目のような赤い斑点を首に持ち、妙に知性的な光を瞳に宿している。

 「……なんだ?」

 アルトが目を細めると、その鳥はカア、と濁った鳴き声を上げて、闇へ溶けるように飛び立った。

 不吉な予感が胸をよぎる。

 それは、遥か先に待ち受ける運命のささやかな予兆に過ぎなかった。

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